土方寛柔は通称・寛十、字は子強といい、仏光寺柳馬場西に住んでいたようです。おそらく寛柔を通して南岳の遺族に届けられたであろうこの追悼句は、抱一と南岳が大変親しい関係に結ばれていたことを教えてくれます。
ところで、抱一の草花図は明らかに円山四条派の影響を受けています。とくに構図と現実的な季節感において……。ここに南岳を介在させたい誘惑に、饒舌館長は駆られるのです。
早くから抱一には、円山応瑞就学説や南岳就学説がありましたが、これは相見香雨先生によって否定されています。しかし少なくとも南岳からは、直接学んだことがなかったとしても、かなり強い影響を受けたのではないでしょうか?
南岳江戸下向の年代が分からないことは残念ですが、抱一に対する南岳の影響を推定する根拠については、かつて「抱一の伝記」という一文に開陳し、拙著『琳派 響きあう美』に収めたことがあります。
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