江戸に富士塚があり、江戸を描く浮世絵に富士山が登場すること自体、やはり見える場所が限定されていて、貴重だったのではないかと、丸山さんは考えるのです。確かに駿河町の通りからはきれいに眺められたけれども、江戸城の富士櫓は三階櫓だったとも教えてもらいました。
言われてみれば、そのとおりでしょう。今度、写山楼谷文晁について書くときは、「現在に比べれば比較的容易に富士山を見ることができたかもしれないが……」という風に書き換えることにしたいと思います。丸山さん、ありがとう!!
一昨年、丸山さんは『京のまちなみ史 平安京への道 京都のあゆみ』という本を著され、僕にも送ってくださいました。「平安京への道」と「京都のあゆみ」の2編に分け、邪馬台国から現代の京都まで、京大和の都市計画の歴史――丸山さんの言葉によれば「まちなみ史」を、とても分かりやすく教えてくれる本です。
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