さらに僕がおもしろいと思ったのは、明代になると散曲(歌曲)が文人たちによって妓楼で作られ、歌われていたことです。それだけではありません。明末になると、俗曲、はては山歌までも戯作しようとする文人が出現したというのです。唐時代にはやった擬古楽府ぎこがふとチョッと似ているじゃ~ありませんか。文人たちがそれを意識していた可能性もあるんじゃ~ないでしょうか。先にあげた『潮来絶句集』なども、これと無関係ではないでしょう。
『山歌』にも注記によって、明らかに文人の作と分かるものがあるそうです。たとえば巻1「捉奸」第1首の後評に収められた2首は、『山歌』の編者である馮夢龍の作だそうです。そのうちの1首は……。
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