安村さんのお墨付きを得て、自信のなかった僕の「光琳風神雷神二屏風説」は確信に変わりました。珍しくも今回は、若い研究者から批判されずにすんでホッとしたことでした(笑)
天保4年(1833)38歳にして其一は上方への旅に出ました。この時の日記を子供の鈴木守一が写しており、京都大学付属図書館に「癸巳西遊日記」として所蔵されています。
このなかに鷲峯山金胎寺で襖4枚を描いたという記述があります。「風神雷神図襖」がこれに当たる可能性について、すでに玉蟲敏子さんが指摘しているのですが、饒舌館長もこの見解に心から賛意を表してきました。
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