2017年12月21日木曜日

静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画」<書芸>6


王鐸「臨王徽之得信帖」(№56

お手紙拝受、兄嫁様のお病気、いまだ全快されないとのこと、改めて申し上げるまでもなく、大変心配申し上げております。お会いせずにはいられず、お訪ねしたいものと思っておりますが、湖水の水かさが増し、舟で渡ることもできず、離ればなれになったままです。そうでなければ、もうとっくにお訪ねしていることでしょう。やむを得ず、お手紙だけになってしまいますが、遥か遠くからお届けする私の心中をお察しください。この気持ちは私の朋友にも明かしておりません(貴兄にのみ知っていただきたく存じます)

我が家の祖先である黄門郎(中納言)王徽之の書体を真似ました 甥・鐸 

己丑(1649年)十一月 九叔の御前に ご笑覧のほどを

*例えば王鐸の父が10人兄弟の十男であった<排行 王十>と仮定してみましょう。その上で、王鐸が父のすぐ上の兄<王九>の子(つまり王鐸にとって従兄)の妻の病気を心配しつつ、王九に宛てて書いた手紙がこれであるとするのが私見です。従兄とはいえともかくも兄ですから、その妻を<女+更>=嫂(あによめ)と呼んでもいいのではないでしょうか。もっとも、父の兄は<伯父>と書くべきですが……。

<姪>は本来女性ですが、男性を<姪>と書く場合も少なくなかったので、訳文では<甥>としてみました。いま仮に王鐸の父を王十としましたが、これが王十一でも王十二であってもこの推定は成立します。ここでは『諸橋大漢和』によって、<女+更>を兄嫁としましたが、これを弟嫁とすることができれば、別の解釈も成り立つでしょう。いずれにせよ、中国のことに詳しい方から、ご教示をいただきたいと思っています。

0 件のコメント:

コメントを投稿

山種美術館「桜さくらSAKURA2025」7

今回は奥村土牛の傑作「醍醐」がポスターのメインイメージに選ばれ、目玉にもなっているので、とくに土牛芸術に力を入れてしゃべりました。もちろん大好きな画家でもあるからです。 遅咲きの画家といわれる土牛は、一歩一歩着実に独自の土牛様式を創り上げていきました。人の真似できない真なる創造的...