満々たる暮潮は月光を浴びてきらきらと輝き、橋下の石垣、または繋れたる運送舩の舷を打つ水の音亦趣あり。電車通りをよこぎり、三の橋をわたり、越前堀波止場の捨石に腰をかけてしばらく月を看る。空はよく晴れわたりたれど、水の上は青くかすみて、遠からぬ石川島の火影もおぼろ気なり。河岸づたいに新高橋をわたり、稲荷橋の欄干によりかかりて、深川へ通う猪牙舟の、ゆききしげかりし昔の情景など思い回すほどに、折好く乗合自働車の来りて停るを見たれば、それに乗りて銀座にいたり、夕餉を不二あいす店に食し、七時頃家にかえる。郵便取りにと台所に至り見るに、下女正江風邪ひきたりとてガーゼの寝衣に赤き細帯しどけなく床の中に寝ていたり。古人の言に一盗二婢三妓四妾五妻とかいうことあり。好色の極意げに誠なるが如し。阿々。
2019年1月18日金曜日
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渡辺浩『日本思想史と現在』8
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