2025年9月30日火曜日

サントリー美術館「絵金」18

 

このように絵金は、フラクタルや鏡像関係を対角線構図と異時同図法のなかへたくみに埋め込み、堅固な構図を構築しているのです。画面が一見錯乱状態にあっても、鑑賞者が錯乱状態に陥らないのは、このような構成構図の卓抜かつ緻密な組み立てによるところが多いように思われます。

だからといって、絵金がこのように考え抜いて、構成構図を決めていったとは思いません。絵金が下絵のための粉本紙に向えば、霊感が天から降るがごとく、地から湧くがごとく自然に構成構図が決まり、右手に握り締めた一本の筆を突き動かしていったことでしょう。<饒舌館長>が分析してみると、上記のようになっているというに過ぎないのです。なぜなら絵金は天才だったからです(!?)

2025年9月29日月曜日

サントリー美術館「絵金」17

その時姫と障子に映る長門は、明らかに鏡像ミラーイメージ関係に結ばれています。そして画面左奥には、3人の人物が描かれています。先の引用には何も言及されていませんが、展覧会カタログの解説が明らかにしてくれます。男は時姫の奪還を命じられたけれども、逆に時姫に斬りつけられて井戸に逃れた百姓・藤三郎、じつは佐々木高綱が井戸から出てくるところです。二人の女性は、時姫を連れ戻そうとしてやってきた阿波の局つぼねと讃岐の局だそうです。

井戸から出ようとする高綱と、右側の局も鏡像関係にあることが分かります。左手で時姫の右手をつかむ三浦之介と、右手に強盗提灯がんどうぢようちんをもつ局も鏡像関係になっています。二人ともこちらを向いていますが、三浦之介を180°回転させれば鏡像になるからです。

 

2025年9月28日日曜日

サントリー美術館「絵金」16

この対角線構図が、騒乱状態にあるような画面にしっかりとしたバックボーンを与え、一種の統一感へと見るもの視線と感覚を導くのです。そして重要なのは、この対角線構図が先の異時同図法と分かちがたく結合している点です。主要モチーフが描かれる三角部分の反対側が、時を異にする副次的モチーフのためのスペースとなるのです。

加えて絵金芝居絵屏風には、フラクタル・鏡像・相似という重要な構成要素があります。改めて「鎌倉三代記 三浦別れ」を見てみましょう。右手の長い刀で身を支える三浦之介が作り出す三角形を拡大してゆくと、時姫を包摂する大きな三角形になります。両者はいわゆるフラクタル――自己相似図形なのです。

 

2025年9月27日土曜日

サントリー美術館「絵金」15


  もう一つの構図的特徴は対角線効果です。「鎌倉三代記 三浦別れ」でも、時姫と三浦之介が作り出す三角形が、画面右上から左下へ向って引かれた対角線の下半分に収まっていることに気がつくでしょう。もちろん厳密な意味で対角線ではありませんが、対角線構図と呼ぶことを妨げません。

対角線構図は使い方によって、安定と動勢という背馳する二つの効果を生み出します。中国・南宋の馬遠や夏珪が好んで用いた辺角の景とか残山剰水と呼ばれる構図は安定と結びついています。一方、北斎の「冨嶽三十六景」<神奈川沖浪裏>は動勢を生み出しています。

言うまでもなく、絵金芝居絵屏風は後者の対角線構図です。これまた「浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森」のように、対角線構図ではない傑作もありますが、ほとんどの作品は大なり小なり対角線構図をとっています。


2025年9月26日金曜日

サントリー美術館「絵金」14

 

どうしてレッシングがこういう結論に達したかというと、彼が文学と絵画をはっきりと分け、文学は時間を表現する芸術であり、絵画は空間を表現する芸術である――あるいはそうであるべきだと考えていたからでした。それを端的に表明した有名な一節が、『ラオコオン』に見いだされます。

  あくまでも時間的継起は詩人の領分であり、空間は画家の領分である。

 このようなレッシングの思想は、絵画が文学性を断ち切って自立的価値を有するようになった、近代絵画の誕生に決定的影響を与えたそうです。しかし私たち東洋人からみると、チョッと教条主義的な感じがするように思います。ですから、レッシングが生き返って絵金の芝居絵屏風を見たら、大きな感動を覚え、自分の間違いに気がついて反省するのではないでしょうか(´艸`)


2025年9月25日木曜日

サントリー美術館「絵金」13

 

どうしても離れていなければならない二つの時点を同じ画面に持ちこむこと、たとえば、フランチェスコ・マッツオリが、サビニの処女たちをローマ人が掠奪する場面と、彼女らがその夫すなわちローマ人と、その親族すなわちサビニ人とを和解させる場面とを同一画面に持ちこみ、あるいはティツィアーノが、放蕩息子の物語の一部始終、すなわちその放埓な生活、その悲惨、その後悔をすべて同じ画面に描きこんでいるのは、詩人の領域への侵害であって、よき趣味はけっしてそれを是認しないであろう。

 「異時同図法」という言葉は用いられていませんが、明らかにレッシングはそれを非難しているのです。


2025年9月24日水曜日

サントリー美術館「絵金」12

もちろん異時同図法は絵金が考え出した構図法ではありません。もっとも有名なのは「玉虫厨子」(法隆寺蔵)の「捨身飼虎図」や、「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)――伴大納言の出納の子と、隣に住む右兵衛の舎人の子がケンカをしている場面ですね。一幅のなかに四季の草花を描きこんだ草花図も一種の異時同図法です。伝統的な四季花鳥図屏風も、広義の異時同図法だといったら、ミソもクソも一緒にするなといって怒られるかもしれませんが……。

日本では普通に用いられる構図法の一つが異時同図法でした。ところが西欧では、異時同図法を絵画芸術のタブーであると主張した人がいたんです。それは18世紀に活躍したドイツの文学者ゴットホルト・レッシングでした。レッシングは主著『ラオコオン』<斎藤栄治訳>(岩波文庫)において、つぎのように述べています。

 

2025年9月23日火曜日

サントリー美術館「絵金」11

絵金芝居絵屏風における異時同図法については、すでによく指摘されるところです。この「鎌倉三代記 三浦別れ」でも異時同図法がきわめて効果的に使われています。瀕死の息子に会おうとしない母・長門、三浦之介と時姫の愁嘆場、井戸から出ようとする高綱の間には、少しずつ時間のずれがあるのですが、一つの画面にまとめて描かれています。

これが異時同図法と呼ばれる構図法で、絵金が芝居絵屏風で愛用するところでした。もちろん「浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森」のように、異時同図法が用いられていない傑作もありますが、ほとんどの絵金芝居絵屏風における基本的構成法だといっても過言ではないでしょう。

その理由として、大久保純一さんが「絵解き」を想定したのは卓見だと思います。人々は芝居の筋をたどりながらこの絵を見たり、また筋を知らない子どもたちに絵を指し示しながら語り聞かせたのだろうというのです。なるほどと膝を打ちたくなります。

 

2025年9月22日月曜日

サントリー美術館「絵金」10

ちなみに僕は、「芝居絵」より吉田映二てるじ先生が好んで使った「歌舞伎絵」の方が好きなのですが、絵金の場合は古くから「芝居絵」と呼ばれてきたようですから、基本的にそれを尊重することにしましょう。

歌舞伎絵の極限に到達したのが絵金であり、絵金の芝居絵屏風だったと思います。しかしそれを指摘しただけでは、絵金のすごさを解明したことにはなりません。注目したい要素は複数ありますが、もっとも僕の興味を引くのは、その構成構図です。異時同図法、対角線構図、フラクタル・鏡像・相似が化学反応を起こし、それが気化する瞬間に絵金芝居絵屏風が誕生するのです。

 

2025年9月21日日曜日

サントリー美術館「絵金」9

 

画面は時姫が自分の父である北条時政を討ち、その代わり来世で夫婦になることを三浦之介義村に約束させる愁嘆場です。いかにも歌舞伎的な孝と恋の相克がそこにあります。画面右奥の障子には、瀕死の息子にも会おうとしない三浦之介の母・長門の影が映っています。これは忠と孝の葛藤です。

それがオーバーアクション、強烈な原色対比、血みどろ絵的嗜虐趣味の三位一体によって、官能を逆撫でするような表現性へ高められています。このような表現を歌舞伎絵フォーヴィスムと呼びたい誘惑に駆られます。絵金は歌舞伎絵フォーヴィスムの天才でした。それは幕末歌舞伎の反映であり、浮世絵の自己発展的バロック化であり、役者絵や歌舞伎絵の爛熟とデッドロックを物語る美意識でした。


2025年9月20日土曜日

サントリー美術館「絵金」8

 

鎌倉幕府二代将軍、源頼家の時代。頼家の家臣・三浦之介義村と、北条時政の娘・時姫の悲恋と忠孝の葛藤を描く。二人は許婚であったが、将軍家と北条家の内乱によって家が敵同士となる。戦場に出ていた三浦之介は、病気の母・長門を心配し、時姫が長門を看病している家へ深手を負った状態で戻る。しかし長門は、主君への忠義よりも母への孝行を優先した息子を障子越しにしかりつけ、顔も合わせない。

恥じ入って覚悟を新たにした三浦之介は戦場に戻ろうとするが、時姫はそれを引き留め、家を去る前にあの世で夫婦になると約束してくれと迫る。 二人は押し問答になり、葛藤の末、ついには時姫が父・時政を殺せば来世で夫婦になることを約束し、それぞれの決意を胸に別れる。 時姫の裏切りを聞きつけていた時政の密偵は報告に走ろうとするが、三浦之介の仲間、佐々木高綱 に見つかり討たれる。


2025年9月19日金曜日

サントリー美術館「絵金」7

 

しかし間もなく、「美術品は所蔵館で 地酒はその土地で」を絵金で体験することになりました。辻惟雄さんが主宰していた「かざり研究会」が、土佐へ絵金を観に行くことになったからです。「絵金まつり」の幻想と妖艶は、今でも忘れることができません。

高知県立美術館を訪ね、鍵岡正勤館長の解説を聞きながら拝見した絵金の作品では、顔貌描写をはじめとする描線の流麗と精巧に魅了されました。しかしその後も、そのままに打ち過ぎてしまったので、今回はチョッと真面目に(!?)考えてみようと思って、内覧会に出かけたのでした( ´艸`)

「僕の一点」は芝居絵屏風「鎌倉三代記 三浦別れ」(香南市赤岡町本町一区蔵)ですね。話の内容は鍵岡正勤監修『絵金 闇を照らす稀才』(東京美術 2023年)を引用させてもらうことにしましょう。

2025年9月18日木曜日

サントリー美術館「絵金」6

 絵金ブームの発火点となった、昭和45年(1970)西武百貨店池袋店で開催された絵金展は見逃していますが、翌年渋谷の東急百貨店本展で開かれた「幕末土佐に生きた異端の絵師 絵金展」は見て、菱川師宣と鳥居清信に始まった歌舞伎絵が、ついにここまで来たのかと思いつつ、チョッと似ている猥雑な雰囲気(!?)漂う蒲田の家に帰ったことを、今でもよく覚えています。

しかしその後、とくに絵金について考えることも論じることもなく、ただ大久保純一さんの「絵金 幕末土佐の芝居絵」を読む機会に恵まれただけでした。というのは、辻惟雄さんが編集し、僕も「高橋由一 江戸絵画の視点から」という拙文を寄稿した『幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに』(ぺりかん社 1992年)に、その大久保絵金論が収められていたからでした。

 

2025年9月17日水曜日

サントリー美術館「絵金」5

 



ところが10年ほどして、その身分を剥奪されてしまうのです。狩野探幽贋作事件に巻き込まれたためと伝えられていますが、詳しいことは分かっていません。そのあとしばらくは、上方に身を潜ませていたようです。その間に体験したにちがいない、上方歌舞伎からの影響を重視する研究者もいます。

あるいは藩内の赤岡、現在の香南市赤岡町に住んでいた叔母のもとに居候を決め込んだとも伝えられていますが、これまた詳細は不明なのです。しかし赤岡の北にある須留田するだ八幡宮の祭礼――神祭じんさいに奉納された芝居絵屏風に傑作が集まっているところをみると、赤岡が絵金歌舞伎絵のトポスであり、そこにはゲニウスロキ(守護神)がいるような気がします。

やがて絵金は一介の町絵師として縦横無尽の活躍を始め、独自ともいうべき絵金歌舞伎絵のシャングリラを創造していくのです。亡くなったのは明治9年(1876)、享年65でした。

今日はNHK文化センター青山教室講座「魅惑の日本美術展 最強ベスト6だ!!」で、この絵金について<饒舌>します!! 人前で絵金を語るのは82歳にして初めてーーワクワクしながら準備を進めましたが、吉と出るか凶と出るか( ´艸`)


2025年9月16日火曜日

サントリー美術館「絵金」4

 

 絵金は江戸後期の文化9年(1812)土佐の高知城下、現在のはりまや町に髪結いの子として生まれました。本姓は最終的に(!?)広瀬、通称は金蔵、土佐では絵師金蔵をつづめ「絵金」「絵金さん」と呼ばれて親しまれました。18歳で江戸に出て、表絵師・駿河台狩野家の弟子で、江戸土佐侯山内家の御用絵師であった前村洞和に学びました。

洞和の家塾で修行すること3年、洞意という雅号を与えられました。かの河鍋暁斎と同門ですが、暁斎が洞和に入門したのは10年もあとのことでしたから、二人は会っていないのでしょう。しかし共鳴する自由奔放な美意識をもち、ともに失意の時代を経験している事実は、とても興味深く感じられます。21歳にして郷里に帰った絵金は、土佐藩家老の御用絵師に出世、藩医であった林家の姓を購入して、林洞意と名乗りました。


2025年9月15日月曜日

サントリー美術館「絵金」3

 

高知県立美術館では一九九六年と二〇一二年に大規模な絵金展を開催していますが、約二百点現存する芝居絵 屏風のほとんどは、神社、あるいは自治会や町内会、公民館などに分蔵されており、絵金の作品をまとまった形で観ることができる機会はめったにありません。

一九六六年に雑誌『太陽』で特集されたのを契機に、「絵金」は小説・舞台・映画になるなど、一時ブームとなり、一九七〇年前後には東京、 大阪の百貨店などで絵金展が開催されました。絵金の代表作を一堂に集めた東京での大規模な展覧会は、半世紀ぶりであり、美術館で は初の試みとなります。


2025年9月14日日曜日

サントリー美術館「絵金」2

 

土佐の絵師・金蔵は、幕末から明治初期にかけて数多くの芝居絵屏風や絵馬提灯、五月の節句の幟などを手掛け、「絵金さん」の愛称で、 地元高知で長年親しまれてきました。夏祭りの数日間、絵金の屏風を飾る風習は今でも変わらず、真夏の夜の闇の中、高知各所の神社 の境内や商店街の軒下に提灯や蝋燭の灯りで浮かび上がるおどろおどろしい芝居の場面は、見る者に鮮烈な印象を残しています。

「夏祭りに夕立が来たら、屏風より先に提灯を片付けた」と昔ばなしされるほど、絵金の屏風は生活に溶け込んだものでしたが、 二〇〇五年に高知県香南市赤岡町の「絵金蔵」が開設され、二〇一五年、香南市野市町にオープンした「創造広場『アクトランド』(現・ アクトミュージアム)」に「絵金派アートギャラリー」が設置されるなど、近年、絵金の画業を再評価し、作品を保存・研究・展示する 環境が整ってきました。


2025年9月13日土曜日

サントリー美術館「絵金」1

 

サントリー美術館「幕末土佐の天才絵師 絵金」<113日まで>

 いよいよ始まりました!! かつての「異端」から、ついに「天才絵師」とたたえられるようになった絵金の特別展です。今回キューレーションを行なったのは内田洸さん――以前秋田県立近代美術館で一緒に仕事をした仲間です。

是非やってほしいと応援した饒舌館長としては、内覧会に出て観る義務があります。もちろん義務感から行ったわけじゃ~ありませんが() 来週、NHK文化センター青山教室講座「魅惑の日本美術展」で取り上げる予定になっていますから、内覧会は絶好の機会です。

それに先月の「運慶 祈りの空間――興福寺北円堂」展みたいに、ミズテンで冷や冷やしながらしゃべることも避けられるじゃ~ありませんか。残暑厳しき内覧会の日を、さらに暑くするような表紙のカタログから、「ごあいさつ」を掲げて、展覧会の趣旨と絵金研究の「回顧と展望」を知ることにしましょう。

2025年9月12日金曜日

東京国立博物館「江戸☆大奥」13

もっともこの特別展「江戸☆大奥」では、これらの「世間が見た大奥」がほとんどスルーされているようでした。東京国立博物館とNHKのコラボ展、しかも「娯楽小説や芝居、ドラマなどで描かれてきた想像の世界とは異なる、知られざる大奥の真実」がコンセプトであることを考えれば、「当たり前田のクラッカー」かな? 

しかし第1会場の大きなバナーには、女性たちが提出すべき誓詞の前書きがバッチリとプリントされていました。そのなかの一条は、そういう根も葉もないことが結構あったんじゃないのかなぁという、下種げすの勘ぐりを呼び起こすような文言でした( ´艸`)

好色がましき儀は申すに及ばず、宿下りの時分も、物見遊所へまいるまじき事。

 

2025年9月11日木曜日

東京国立博物館「江戸☆大奥」12

『偐紫田舎源氏』はともかく、山本博文先生も抜かりなく『大奥学事始め』の第5章は「世間が見た大奥」と題して、かの絵島生島事件を中心に、「綱吉の乱行から御台所による殺害」から「家慶と姉小路のスキャンダル」まで、3節に分けて詳述されています。

それらのうちには、かなり誇張や脚色が含まれていたようですが、山本先生はつぎのように〆ていらっしゃいます。

これまで紹介してきたスキャンダルは、確かな史料に載せられたものは少ないが、実録物や写本ではよく見られる話で、それほど珍しいものではない。歴史家は、こうした史料に価値を置かず、確かな史料から「史実」を再構成することの方に精力を注いできた。しかし史実はどうあれ、社会的な影響力という点から考えれば、こうした根も葉もない噂の方が重要な役割を果していたことは認めなければならないだろう。

 

2025年9月10日水曜日

東京国立博物館「江戸☆大奥」11

  

 光源氏をやつした光氏の生活と行動は、正室のほかに側室が15人もいた――お手つきを含めると40人以上ともいわれる、11代将軍徳川家斉いえなりをモデルにしたのではないかと噂されたそうです。

それは驚異的なベストセラーとなり、38152冊も出版されました。しかしそこで絶版を命じられ、残りの2編が未刊になってしまったのは、内容もさりながら、その噂のせいもあったのでしょう。「江戸☆大奥」展の会場には、法政大学図書館・古川久文庫所蔵本が出陳されていましたが、あまり関心は集めていないようでした。

『偐紫田舎源氏』は僕も原本を持っていますので、そのなかの1図を上にアップすることにしましょう。持っているといっても8編下の1冊だけですが(´艸`)


2025年9月9日火曜日

東京国立博物館「江戸☆大奥」10

 

中国の後宮といえば、何といっても白楽天の「長恨歌」にある「後宮の佳麗三千人 三千の寵愛一身に在り」――さすが中国だとしばしば引用されるところですね。この「長恨歌」を中国語で暗唱できるのも僕の自慢です。

口演で玄宗楊貴妃の絵――いわゆる明皇絵が出てくると、音吐朗々「漢皇重色思傾国……六宮粉黛無顔色」とやって、「大抵ここらあたりで拍手が起こるものですが……」と笑いを取るんです。しかし覚えているのはここまで、つまりあの長い「長恨歌」の最初の8句だけなんです( ´艸`)

 それはともかく、一般的に世間で「大奥」といえば、どうしても柳亭種彦作・歌川国貞画の『偐紫田舎源氏』に象徴されるような艶やかな世界の方へいってしまいます。言うまでもなく『偐紫田舎源氏』は、紫式部が著わした王朝文学『源氏物語』を室町時代に移し変え、翻案を施した江戸時代合巻の傑作です。


2025年9月8日月曜日

追悼 橋幸夫さん

 

 橋幸夫さんが94日にお亡くなりになりました。享年82――僕と同じ昭和18年(1943)のお生まれでした。作曲家・吉田正さんに師事し、昭和35年に「潮来笠」で歌手デビューされましたが、そのころ僕の趣味は、演歌からアメリカン・フォークソングに移ろうとするころでした。ですから、あぁ上手い演歌歌手が新しく出てきたなぁというだけで、「港町十三番地」や「別れの一本杉」や「古城」のように、「潮来笠」を歌うことはありませんでした。

しかし2年後、橋さんが吉永小百合さんとのデュエットで歌った「いつでも夢を」は、生涯忘れることのできない一曲となりました。どれくらい口ずさんだことでしょうか。というのは、ちょうど浪人生活の後半だったからです。それはチョッと弱気になる自分への応援歌であり、ダメだったら他で夢を持ち続ければいいじゃないかという応援歌でもあったような気がします。いや、単に吉永小百合さんが好きだったからかな(´艸`)

橋さんは80歳を機に引退宣言をしましたが、やはり歌への愛惜を捨てきれずに復帰、その後病を発症しながらも歌い続けた生き方に頭の下る思いでした。一昨晩はいつもの『あのうた このうた 2222曲 1998』を開いて、「いつでも夢を」を弾き語りしつつ、ご冥福を祈ったことでした。

                                  合掌

2025年9月7日日曜日

東京国立博物館「江戸☆大奥」9

 

山本先生は「はじめに」において、静嘉堂文庫美術館で講演をお願いしたこともある山内昌之さんの論考を引きながら、我が大奥と宦官かんがんが重要な役割を担っていたオスマン帝国のハーレムを比較し、つぎのように指摘しています。じつに興味深い比較ですが、これは中国の後宮へと連想を呼び起こしてくれます。

というより、我が大奥も中国の後宮をもとに、日本化を加えた組織だったのではないでしょうか。ともども男系を守るために、必要不可欠であったんだと思います。なぜ西欧には後宮が存在しなかったのかも含めて、どなたか研究していただけませんでしょうか?

大奥では、女中たちの監督や世話まで女中があたったばかりか、大名家との交際や事務的な業務まで女中が担当した。つまり大奥は、将軍のハーレムという機能を一部持ちながら、全体としては将軍とその正室(御台所)の生活のための役所だったのである。


2025年9月6日土曜日

東京国立博物館「江戸☆大奥」8

 

「饒舌館長ブログ」ファンにはお馴染みの『國華』――その「それ美術は国の精華なり」で始まる創刊の辞は、何と自信と矜持に満ちていることでしょうか。『國華』が創刊されたのは「千代田の大奥」の5年前、明治22年のことでした。

これまで読んだ大奥本は、山本博文先生の『大奥学事始め 女のネットワークと力』(NHK出版 2008年)ただ1冊ですが、とても分かり易く大奥の全体像が浮かび上がるように書かれています。山本先生は、いまも時々お世話になっている東京大学史料編纂所の教授でしたが、5年前63歳でお亡くなりになりました。

この分野を代表する研究者であり、多くのファンに慕われた人気教授でした。お会いしたことはありませんが、史料編纂所という空間に同居(!?)させてもらったことがあったにちがいありません。たとえそれが数時間であったとしても……。若すぎるご逝去を悼み、ここにご冥福をお祈りしたいと存じます。

2025年9月5日金曜日

東京国立博物館「江戸☆大奥」7

 

そして明治20年代を迎えると、早くも富国強兵による近代化に成功した自国に、多くの国民が自信と矜持を抱くようになりました。それと日清戦争がまったく無関係であるはずはありません。

そうなると旧弊としてあれほど否定したはずの江戸時代を、誇るべき歴史の1ページとしてながめる余裕ができてきたのです。あるいは江戸時代のことをよく覚えている人の方が圧倒的に多かったわけですから、西欧合理主義的な近代以前の古きよき時代に対する郷愁やノスタルジーも、余裕とともに生まれやすかったでしょう。楊洲周延の「千代田の大奥」は、そのような時代風潮のなかから誕生した一大絵巻だったのではないでしょうか。

2025年9月4日木曜日

東京国立博物館「江戸☆大奥」6

先に「リアリズム」といいましたが、キャプションによると、実際とは異なる描写も含まれているそうです。例えば、17日に鏡餅を下男が曳き歩く「鏡餅曳」を大奥の女性たちが見物していますが、これはフェイクで実際は見物などしなかったそうです。また正月の「追羽根」では女性たちがこれに遊び興じていますが、大奥で羽根をつくことはなかったらしいのです。しかし楊洲周延は――というより版元の福田初次郎は、商売上どうしてもこれらを入れたかったのでしょう。

刊行されたのは明治27(1894)から翌々年にかけてでしたが、ちょうど日清戦争と重なっていることがとても興味深く思われました。明治のはじめは欧化思想全盛の時代でしたが、10年代に入るとそれへの反省が徐々に起こって、古き歴史を誇る大日本が強く意識されるようになりました。

2025年9月3日水曜日

東京国立博物館「江戸☆大奥」5

幕末には浮世絵師としての活動を開始していますが、幕府vs官軍の戦いに幕府方として身を投じ一時中断、明治10年ごろふたたび絵師の生活に戻りました。この時代の報道画をはじめとして、さまざまなテーマに縦横の腕を揮いましたが、その代表作とたたえられるのが「千代田の大奥」にほかなりません。

江戸時代には描くことができなかった江戸城(千代田城)大奥における女性たちの生活や風俗、あるいは月次の行事や遊びを、江戸の浮世絵とは異なる、いかにも近代らしいリアリズムで描写、洛陽の紙価を高めたのでした。5枚続きを含む全39点からなる大シリーズで、のちに将軍や旗本の1年を描いた「千代田の御表」とペアーをなしています。「千代田の大奥」全場面一挙公開!――というのも、本展のメダマです。


2025年9月2日火曜日

東京国立博物館「江戸☆大奥」4

しかし何かサブタイトルが欲しいですね!! 饒舌館長だったら、「徳川家光・鷹司孝子結婚400年記念」と銘打ちます。鷹司家から出た孝子が、のちの3代将軍家光と婚姻を結び正室になったのは1625年、今年はその400年という節目の年に当たっているからです。もっとも孝子は家光との関係がこじれたため、ほどなく別居状態となり、大奥からも追い出されて城内の別邸で暮らしたそうですから、サブタイトルにはあまりふさわしくないかな( ´艸`)

「僕の一点」は楊洲周延(18381912)の「千代田の大奥」ですね。楊洲周延は初め歌川国芳、三代歌川豊国に就いたようですが、豊原国周の門に転じで「周延」の号を与えられていますから、国周の弟子というべきでしょう。

追記 今朝、森銑三先生の『偉人暦』を読んでいたら、今日9月2日は徳川14代将軍家茂に降嫁された和宮親子内親王の祥月命日であることを知りました。明治10年の今日、32歳でお亡くなりになったのです。森先生は「あの危難の時に当って、徳川家の大奥が些かの動揺を見なかったのは、一に宮のお力であったのだ」とお書きになっています。

 

2025年9月1日月曜日

東京国立博物館「江戸☆大奥」3


ですからドラマ10「大奥」で用いられた衣装が展示され、これまたドラマでお馴染みになったという「御鈴廊下」のセットが再現されてメダマの一つになっていました。ドラマ108代将軍・徳川吉宗役をつとめた冨永愛さんが、音声ガイドナビゲーターを買って出ているのもコラボ展だからなのでしょう。

ちなみに冨永愛さんが吉宗を演じたのは、このドラマが、よしながふみさんのマンガ「大奥」をもとにしているからです。このマンガが男女逆転という意表をつく構成によって大ヒットしたことは、改めていうまでもないでしょう。

しかし表向きコラボ展であることをどこにも謳っていないのは、放映からチョッと時間が経ってしまったからなのかな? アヤメやキクを優雅に観賞していた大奥の女性たちから、「6日のアヤメ、10日のキクじゃないの」と笑われることを恐れたのかな´艸`) 

 

出光美術館(門司)「琳派の系譜」10

   「月もろともに出潮の……」とある のが 興味深いですね。蓋のチョッと光を帯びたような茶色の地は、月夜のあえかな光と 溶け合っている ように感じられ る からです 。少なくとも、青天白日 というか 、まぶしいような陽光を想像する人はいない と思います 。   身の内側に描かれ...