2018年4月30日月曜日

横浜美術館「ヌード」14


以上が僕の独断と偏見です() 為政者と庶民を分断して、二項対立的に考える分析に対し、多くの批判があることはよく分かっています。為政者といい、庶民といい、アッパーからミドル、アンダーまで、階層はさまざまでしょう。為政者と庶民が分かちがたく結びついていることも少なくないでしょう。

しかしこれまでの裸体画問題は、どうも為政者、つまり政府官権の方に、議論が偏っていたように思います。あるいは画家を中心とする芸術家に、関心の大半が向けられてきました。江戸時代、春画を生活のなかで楽しんでいた庶民への目配りが少なかったのではないでしょうか。しかし、裸体画問題の主役は庶民であったといっても、過言じゃありません。

確かに、裸体画問題に対する庶民の言説がほとんど残っていないという現実があります。だからといって、この問題を為政者や芸術家の視点だけで考察することは、正しい見方とはいえないと思います。少なくとも、話が一面的になって、おもしろくなくなってしまいます。


2018年4月29日日曜日

横浜美術館「ヌード」13


このようにして、為政者と庶民の春画に対する意識のベクトルが共鳴するようになったときに、ヌードが公開され、裸体画問題が惹起したのです。いや、その共鳴はもう少し早く起っていたようです。

北澤憲昭さんは、この問題をノモスとピュシスという観点から論じて、刺激的論文「美術における政治表現と性表現の限界」(『講座 日本美術史』6)を発表しました。そして裸婦像への禁圧が、国家権力の一方的な規制ではなかったことを、『朝野新聞』18891117日の記事を引きながら指摘したのです。

ところで「朝妝」も、「西洋婦人像」も日本人の画家が描いたヌードでした。対象が西洋の女性であったとしても、画家は紛れもない日本人でした。もしこれが西欧の画家であったら、これほど裸体画問題は大きくならなかったでしょう。少なくとも、為政者と庶民における価値観の共鳴はこれほど強くならなかったのではないかと思います。

2018年4月28日土曜日

横浜美術館「ヌード」12


しかし「朝妝」は明治28年、「西洋婦人像」は明治34年に公開されたのです。そのころになると、庶民の方も変質しつつありました。春画が生活の一部であった幕末明治初年から20年以上が経ち、『逝きし世の面影』が伝えるごとき大らかな裸文化を恥ずかしく思うようになっていたのでしょう。

おそらく実生活では、まだまだ裸文化は根強く生き残っていたんだと思いますが、意識だけは進歩?していたことを、よく知られたビゴーの筆になる『ショッキング・オブ・ジャポン』の挿絵「朝妝を見る人々」が語ってくれています。さらに庶民も、為政者同様、西欧人の眼を意識するようになっていました。春画を恥ずかしい文化と思う心情も強まっていたでしょう。

それは西欧化を進めようとする為政者の価値基準によって方向付けられ、ある場合には強制されたものでしたが、あの自由自在に生きていた庶民も、近代国家の国民に変りつつあったのです。

2018年4月27日金曜日

横浜美術館「ヌード」11


それでは春画に馴れ親しんでいた、つまり生活の一部とさえなっていた庶民にとってはどうだったでしょうか。春画は「笑い絵」としてちょっと変わったジャンルを形成していましたが、その他の絵画ジャンルとの垣根は、それほど高いものではありませんでした。もし「朝妝」や「西洋婦人像」が幕末や、明治初年に描かれたとすれば、庶民はこれを珍しい西洋女性の裸体として、笑いながら楽しんだかもしれません。

それを実証するのは、喜多川歌麿の名作春画「歌枕」です。春画の伝統にしたがって12図で1セットになっていますが、その最後が西洋の男女が愛し合うシーンとなっています。ことさらに陰影法――キアロスクーロが強調されている点に、美術史的な興味を掻きたてられますが、この問題は改めておしゃべりすることにしましょう。

これを見て笑っていた庶民、文字通り「笑い絵」としてエンジョイしていた江戸庶民が、「朝妝」や「西洋婦人像」を性的で卑猥などと思うはずがありません。


2018年4月26日木曜日

静嘉堂文庫美術館「酒器の美に酔う」鏡開き


静嘉堂文庫美術館「酒器の美に酔う」<617日まで>鏡開き(424日)

 いよいよ待ちに待った企画展「酒器の美に酔う」のオープンです。待ちに待ったといっても、一番待ちに待ったのは、この<饒舌館長>でしょう。今や<饒舌館長>変じて、<上戸館長>になっちゃってるんですから。

この企画展にちなんで、63日(日)、恒例のおしゃべりトークをやることになっているんですが、担当した山田正樹さんが考えてくれたタイトルや、「お酒の絵 上戸館長 口演す」というんです(!?) それにしても、「アル中館長」や「酒乱館長」じゃなくてよかった。

初日の今日は、鏡開きをもってメディア内覧会の口切りとしました。もちろん、この展覧会にちなんでの企画、我が館では空前にして――しかし間違っても絶後にはしたくないなぁ(笑)「よいしょ よいしょ よいしょ」の掛け声もろともに、山田さんと鏡を割れば、茨城那珂は木内酒造の銘酒「菊盛」の得も言われぬ香りが講堂一杯に広がります。

杯を片手に――実際は紙コップでしたが、細かいことはともかく、挨拶をかねて酒私論?を展開したことでした。ましら酒(猿酒)があるために、人間は猿から酒造りを教えてもらったという説がありますが、大きな間違いです。猿に引っかけていえば真っ赤な嘘です。教えてもらったんじゃない! 人間は猿の時代から酒を造っていたんです!!

2018年4月25日水曜日

横浜美術館「ヌード」10

 日本近代医学の父アーウィン・フォン・ベツルは、よく知られた「日本では今の科学の『成果』のみを受け取ろうとし、……この成果をもたらした精神を学ぼうとしない」という名言を吐きましたが、ちょっと参考になるかもしれません。

当時の日本人は、ヌードの西欧文化史における精神や意味などを学ぼうともしなければ、まったく関心もなかったのです。しかも悪いことに、ヌードは医学とちがって、日本人の生命や健康に直接関係する文化ではありませんでした。医学のようにぜひ必要な文化ではなく、あってもなくても構わなかったのです。もし近代化にどうしても必要であれば、西欧文化のすぐれた成果としてヌードを取り入れたことでしょう。

しかもヌードは、為政者にとって卑猥な春画と、表層的にはより一層結びつきやすかった――それは為政者が儒教の影響をとても強く受けていたからです。日本人である為政者が、ヌードの文化史的意義を理解しようとしなかったことはもとより、春画を猥褻なものと見なし取り締まりの対象としてきた為政者にとって、ヌードが同じように見えたとしても、不思議でもなんでもありません。

それはいくら西欧化が進んでも、伝統的な価値基準は一朝一夕に変らないというDNA論の補強材料となるかもしれませんが……。


2018年4月24日火曜日

横浜美術館「ヌード」9


加えて、ヌードは凝視され、鑑賞されるべき芸術でした。いっぽう春画は、ちょっと見て笑い飛ばすべきものであって、現代の僕たちのように芸術としてじっくり鑑賞し、分析を加えるなどというヤボなことは行なわれなかったでしょう。

そもそも幕末明治初期の我が国では、裸体そのものが町に溢れ、混浴もごく普通でしたが、みんなまったく無関心でした。これも『逝きし世の面影』が教えてくれるとおりです。

あの『日本事物誌』を書いたバジル・チェンバレンは、”The nude is seen in Japan, but is not looked at”という『ジャパン・メイル』編集者の言を伝えているそうです。もちろんこの”nude”は、「裸体」の意味であって、いま問題としている「ヌード」ではありません。

つまり「朝妝」や「西洋婦人像」がリアリズム絵画であり、それが広く一般に公開され、しかも凝視を強いる芸術であったことが、まず問題となったにちがいありません。しかし、それだけではありませんでした。以上のような外的要因に加えて、内的要因が作用したとき、はじめて政府官権による規制を生んだんだと僕は思います。

2018年4月23日月曜日

横浜美術館「ヌード」8


しかもまずいことに、ヌードはリアリズムの絵画でした。現実の肌の色のままに塗られて体温を感じさせ、陰影が施され、人間そのもののプロポーションがまもられていました。絵空事の春画とちがって、現実の裸体にきわめて近かったのです。笑って済まされない絵画でした。さらにそれが博覧会や展覧会という公開の場所で、公衆の面前に展示されたことでした。

たしかに春画は、一般に流布していました。しかし見るときは、個人かごく限られた人数のグループで楽しむアンチームな絵画だったでしょう。少なくとも、床の間に掛けたり、大絵馬に仕立てたり、書画会で揮毫されたりはしませんでした。春画ではない普通の浮世絵は、床の間はともかく、柱絵として柱に掛けられましたし、大絵馬の主題や様式に選ばれました。浮世絵師は書画会にちゃんと参加しています。


2018年4月22日日曜日

横浜美術館「ヌード」7


キリスト教と儒教は春画に対し軌を一にする眼差しをもっていましたが、儒教国でもある我が国では絶対的なものではなく、ダブル・スタンダードであったといってよいでしょう。誤解を恐れずに割り切っていってしまえば、江戸時代の為政者にとって春画は×、庶民の方は○だったんです。

ところが近代を迎えるとともに、西洋美術のヌードが入ってきました。本来ヌードは春画とまったく異なるコードに属するものでしたが、表層的には裸体という点で結びつきやすかったのです。したがってヌードも卑猥であるという観念は、ごく自然に生まれやすいものでした。単なる裸体ではなく、春画を想起させたにちがいありません。

日本にヌードという文化アイテムがなかったために、身近にあった最もよく似た春画に結び付けられたのです。おそらくこれは、程度の差こそあれ、為政者も庶民も同じだったでしょう。

2018年4月21日土曜日

横浜美術館「ヌード」6


すでに紹介した渡辺京二さんは、名著『逝きし世の面影』の「裸体と性」の章において、そんな状況をよく伝えています。幕末の外国人観察者を驚かせたのは、春画・春本のはばかりなき横行でした。それはどこの店でも堂々と売られ、若い女性が何の嫌悪すべきこともないように買い求めていました。

とくに外国人との関係で愉快なのは、ペリー艦隊が来訪したときのことでした。面白半分に春本を水兵に与えたり、ボートに投げ込んだりするものがいたために、幕府の役人がペリーから抗議を受けたというのです。

春画が性的な絵画であり、世を乱すものであるから、これは取り締まられなければならないというのは、西欧キリスト教的価値観でした。だからこそ、それは外国人に対して恥ずかしかったのです。これまでこの事実ばかりが指摘されてきましたが、実は儒教的価値観でもあったことを見逃すべきじゃないと思います。それは『礼記』内則に出る有名な格言「男女七歳にして席を同じゅうせず」にまで、さかのぼることになります。

2018年4月20日金曜日

横浜美術館「ヌード」5


しかし改めて考えてみると、いくつかのおもしろい問題が浮上してきます。たとえば、国家のモデルを中華文明から西欧文明に乗り換え、つまり脱亜入欧によって新しい近代国家を作ろうとしていた明治政府が、西欧文明の象徴ともいうべきヌードを、なぜ忌避し禁止しようとしたのでしょうか。落ち着いて振り返ると、腑に落ちない話です。

あるいは、ヌードに先立って、江戸時代からわが国には春画というエロティック芸術が流布していたという現実です。ヌードと春画を比べてみれば、だれがどう見たって春画の方が性的であり、ヌードはそれほどエロティックじゃないでしょう。しかしこの二つの問題は、表裏一体をなしているように思います。あえて分けることなく、ごちゃ混ぜにしながら私見を開陳することにしましょう。

春画は為政者によって表向き禁じられていました。とくに天保の改革以後は厳密でしたが、庶民のあいだではほとんど公然と流通していました。当時我が国へやってきた西欧人が、ひとしなみに証言するところです。

2018年4月19日木曜日

東京国立博物館「名作誕生」日本美術鑑賞への誘い5


残念ながら今回は、小林さんも僕も大好きな文人画が死角になっていますが、感情移入は文人画に対しとくに有効だと思います。このごろ僕は、「文人画を見るとき、賛なんか読むな。絵だけを見て感情移入を行なえ!」と叫んでいるんです。かの富岡鉄斎先生にどやされそうですが……。

そもそも本を読み、講演を聴き、ネットで調べてたくさんの知識を詰め込み、作品を見ながら「アァ確かにそのとおりだ」と納得するのは、人のいっていることを再確認しているだけで、自分の眼で見たことにはならないでしょう。

こんなことをいうと、「名作誕生」展のチャブ台返しみたいに聞こえるかもしれませんが、そうではありません。たとえばこの立派な展覧会カタログに目をとおし、今日の名講演会(!?)を聴き、あるいは会場のキャプションを読んでから作品を鑑賞することは素晴らしいことです。しかしここで天上から聞こえてくるのは、やはり山根先生のお声です。

「作品を見るときはそれまで学んだことをすべて忘れ、心をまっさらにして対峙せよ」

2018年4月18日水曜日

東京国立博物館「名作誕生」日本美術鑑賞への誘い4


冬の釧路湿原鶴居村で丹頂鶴のダンスを見たことがある方なら、「白鶴図」を見ながら、そのときの思い出に浸ることもすばらしい。僕のような老人だったら、「鶴は千年」にあやかって、元気に長生きしようと心を新たにすることも感情移入です。

そんなのが美術の鑑賞法と呼べるのか――なんておっしゃらないでください。日本人は昔から、美術をそうやって楽しんできたんです。感情移入などというむずかしい言葉を使わなくたって、それが伝統的な鑑賞法でした。たとえば平安時代、貴族たちは屏風に描かれた名所絵、あるいは屏風に貼られた四季絵を見ながら和歌を詠みました。これを屏風歌というのですが、もうこれは感情移入以外の何ものでもありません。

日本の美術はすべて感情移入によって鑑賞されてきたなどといえば言いすぎですが、主要な鑑賞法であったことは間違いありません。みなさん、だまされたと思って、試してみてください。美術がもっともっと楽しくなること請け合いです。

2018年4月17日火曜日

東京国立博物館「名作誕生」日本美術鑑賞への誘い3


しかし、美術愛好家や美術ファンにこれを勧めると、皆さんちょっとむずかしいとおっしゃいます。そんなとき僕が勧めるのは、恩師山根有三先生の鑑賞法です。それは「作品を見るときはそれまで学んだことをすべて忘れ、心をまっさらにして対峙せよ」という教えです。今でも基本的に僕はこの教えにしたがっています。

ところがこの鑑賞法も、皆さん「言うに易く行なうに難し」と顔を曇らせます。どうしてもキャプションや解説、すでに知っていることに引っ張られてしまうというのです。そこで僕が持ち出すのは、感情移入という方法です。今日はこの点でも小林さんと一致したので、帰ってからの晩酌が一段とおいしいことでした() 

感情移入はフィッシャーとかリップスとかフォルケファイトとかいうドイツ系美学者が唱えた方法で、したがってアインフュールングなどというドイツ語がよく使われます。これは作品を対象として、あるいは客体として見るのではなく、みずから作品のなかに入り込んでしまうというやり方です。たとえば先の若冲筆「白鶴図」なら、自分が画中の鶴になって、この波濤のうえを飛んだらきっと気持ちがいいだろうなぁと、想像の翼を広げてみるんです。


2018年4月16日月曜日

東京国立博物館「名作誕生」日本美術鑑賞への誘い2


『朝日新聞』の石山直さんからは、鑑賞法も必ず語ってほしいという要望が寄せられたのですが、美術に正しい鑑賞法や決まった観賞法など存在しないというというのが持論ですので、ちょっとこまってしまいました。

 この「名作誕生」展は、基本的にパノフスキーが唱えたイコノロジー(図像解釈学)という方法によって組み立てられています。それまでの様式論に対して提出された革命的方法で、形態を中心に主題や意味内容を文化史的観点から考察しようとするのです。現在、人文科学の中で美術史学がもっとも人気があるようにみえますが、これもイコノロジーの発展と密接に結ばれていると思います。

もっとも、イコノロジーに対しては早くから批判が寄せられ、ゴンブリッジはその限界をやわらかに指摘しました。先日、大高保二郎さんに聞いたところでは、フランスのディディ・ユベルマンという研究者も強い批判者だそうです。「当たるも八卦当たらぬも八卦」だなどと茶化す人もいます。しかし、イコノロジーは現在王道ともいうべき美術史研究法だというだけでなく、ふたたび様式研究が主流になることはないでしょう。

2018年4月15日日曜日

東京国立博物館「名作誕生」日本美術鑑賞への誘い1


「名作誕生」記念講座「日本美術鑑賞への誘い」<414日>

 『國華』創刊130周年記念特別展「名作誕生」を記念して開かれる講座「日本美術鑑賞への誘い」の当日となりました。講座とはいっても、主幹の小林忠さんと、この特別展を企画したキューレーターの瀬谷愛さん、そして僕の3人でおこなうトークショーです。それぞれ3点ずつ好きな作品を出品作のなかから選んで、その魅力を説き明かしながら、日本美術の鑑賞法を語り合おうという企画です。

僕はまず、この特別展のスターアーティストともいうべき伊藤若冲の「白鶴図」双幅を選びました。「つながる日本美術」という観点からは、もっとも興味深い若冲作品で、カタログエッセー「継承と創造の日本美術」でも取りあげたところです。そして近代もぜひ欲しいなぁというわけで、岸田劉生の「野童女」を入れ、あと大好きな琳派からは尾形光琳の「八つ橋図手箱」に指を折ることにしました。

2018年4月14日土曜日

横浜美術館「ヌード」4


ここですぐに思い出されるのは、わが日本における「裸体画論争」です。フランスに留学した黒田清輝は、帰国後の1895年、京都で開かれた第4回内国勧業博覧会に、持ち帰った自作「朝妝」[ちょうしょう]を出品します。朝起きた西洋婦人が、一糸まとわぬ姿で鏡の前に立ち、髪を整えるところをとらえています。すると、新聞を中心に裸体画であるという理由で公開を非難する声が大きくなり、物議をかもすことになりました。

続いて1900年、ふたたび渡欧した黒田は、パリで「裸体婦人像」を制作し、帰国後の1901年、第6回白馬会展にこれを出品しました。現在、静嘉堂文庫美術館が所蔵する「裸体婦人像」がこの作品です。すると裸体画問題が再燃したため――今の言葉でいえば炎上したため、下半身の部分を黒い布で覆って出品を続けることになったのです。これがいわゆる「腰巻事件」です。

「腰巻」はそのままでの展示続行と、完全な撤去の妥協案でした。ヌードを美しいものとし、均整のとれた理想的な裸体像が絵画や彫刻の主要テーマとなってきた西洋の伝統を、そのまま日本に根付かせようとした黒田らの希望は、激しい抵抗にあったのです。これは近代を迎え、裸体を性的であり、風俗を乱すものとして、政府や官権が取り締まることになったのだと説かれています。


2018年4月13日金曜日

東京国立博物館「名作誕生」


東京国立博物館「名作誕生 つながる日本美術」<527日まで>

 見たことあるでしょ教科書で! 見ずして語ることなかれ!! 何が何でもオススメよ!!!

 『國華』創刊130周年・『朝日新聞』創刊140周年を記念する特別展「名作誕生」が、いよいよ東京国立博物館で始まりました。昨日はその内覧会、静嘉堂文庫美術館の仕事を少し早めに切りあげて駆けつけました。VIPの挨拶に続いてテープカット、第一会場に足を踏み入れれば、僕も出品のご挨拶にうかがった唐招提寺の「伝薬師如来立像」を中心とする木の仏さんたちが、立ち上がって出迎えてくれます。パンフレットには……

<美の家系図を見るようです――日本美術史上の名作ずらり>日本美術史上の「名作」はどのように生まれ、受け継がれたのか――祈りを伝える仏教美術の白眉や、雪舟、等伯、若冲ら「巨匠」たちが生んだ代表作、「源氏物語」「伊勢物語」といった古典文学につながる工芸の名品、そして岸田劉生の近代洋画まで、多数の国宝・重文を含む約130件の作品を通して、日本美術「名作誕生」の物語をひもときます。

 とありますが、冒頭は<饒舌館長>が考えたキャッチコピーです() もっとも、最初のは畏友・竹内順一さんが東京藝大美術館オープン展のときに作った傑作ですが、この「名作誕生」も教科書掲載本のオンパレードです。
 見終われば21時、ご存知・辻惟雄さん、『國華』同僚・有賀祥隆さん、今回のアイディアマン・佐藤康宏さん、彼女なくしてこの日はなかった裏方・山口万里子さんと、山下へ流れたことでした。もちろん、成功大ヒットを確信しての前祝いです(!?)

横浜美術館「ヌード」3


テート本「接吻」はロダンの指導のもと、彫刻家リゴーが大部分を作ったものと考える説もあるようです。しかし同時代の証言があるように、最後に仕上げたのはロダン自身ですから、やはり堂々たるロダンのオリジナル作品です。

美術史的にいえば、初発性はロダン美術館本に、さらにはブロンズ本の方にあるわけですが、テート本も出来映えきわめてすぐれ、ロダン美術館本と甲乙をつけることは不可能です。モニュメンタリティーの点では、むしろテート本の方がすぐれているでしょう。ロダン代表作の一つに数えられるゆえんです。

完成後の1913年、この「接吻」は英国サセックス州ルイス市の市庁舎に貸し出されましたが、一般に展示されると、その刺激的な表現に対し、ものすごい批判が湧き起りました。その結果、柵で囲われたうえシートで覆われることになり、2年後にはウォーレンのもとに戻ってきてしまいました。

彼が没したあと、競売にかかったものの買い手はあらわれず、1953年に至ってようやくテート美術館の所蔵に帰するところとなったそうです。以上はおもに、この特別展のために制作された立派なカタログによるところです。

2018年4月12日木曜日

横浜美術館「ヌード」2


「僕の一点」は、本展覧会の目玉でもあるオーギュスト・ロダンの「接吻」です。これまたパンフレットには、「ロダン彫刻でもっともエロティック。大理石彫刻《接吻》日本初公開!」とあります。先に、単なるエロティシズム芸術として鑑賞することも許されると書きましたが、このキャッチコピーこそ、それを勧めているではありませんか(!?)

 さて「接吻」は、ダンテ『神曲』地獄篇に登場する女性フランチェスカ・ダ・リミニと、その不倫相手パオロ・マラテスタをイメージの源泉にした作品だそうです。1901年から1904年の3年間にわたって制作された作品らしい。

イギリスに在住していたアメリカ人で、ギリシア大理石彫刻の大コレクターであったエドワード・ベリー・ウォーレンが、1900年秋、ロダンに制作を依頼しました。しかしそのずっと前に、同じ構成の「接吻」がブロンズ像として制作されていました。

その後、1889年パリ万博に出陳された大理石像が作られました。これはリュクサンブール美術館を経て、現在パリのロダン美術館に収まっています。ウォーレンはこれとまったく同じに、もちろん同じく大理石で作ってくれと、ロダンに注文を出したのです。

2018年4月11日水曜日

横浜美術館「ヌード」1


横浜美術館「ヌード 英国テート・コレクションより」<624日まで>

 絶対オススメの展覧会です。美術という人間が創り出したもっとも高度な文化について、深く考えさせてくれる特別展です。ちょっと気恥しくなるところもありますが、興味のつきない展示内容です。主催者の開催目的を、パンフレットから引用しておくことにしましょう。

ヌード――人間にとって最も身近といえるこのテーマに、西洋の芸術家たちは絶えず向き合い、挑み続けてきました。美の象徴として、愛の表現として、また内面を映しだす表象として、ヌードはいつの時代においても永遠のテーマとしてあり続け、ときに批判や論争の対象にもなりました。
本展覧会は、世界屈指の西洋近現代美術コレクションを誇る英国テートの所蔵作品により、19世紀後半のヴィクトリア朝の神話画や歴史画から現代の身体表現まで、西洋美術の200年にわたる裸体表現の歴史を紐ときます。

 しかし「エロティック・ヌード」という一章があるように、単なるエロティシズム芸術として鑑賞することも、もちろん許されてよいと思います。


2018年4月10日火曜日

フォークデュオ・ウッディーリヴァー森一朗さま4


 急遽ピート・シーガーをディランの名曲に代えて、いよいよ学園祭コンサートの
1番バッターとして登場です。もちろん、終われば教職員や学生からはヤンヤの喝采でしたが、これもひとえに貴兄のお陰です。

70歳を過ぎて、毎週逗子から園部まで通うのはさすがにきつかったのですが、何とか持ちこたえられたのは、これまたひとえに貴兄のお陰です。本当にありがとうございました。いつかどこかで、「ウッディーリヴァー再結成コンサート」をやりたいなぁ!!

そのときは、貴兄が大好きな「はしだのりひことシューベルツ」の「風」と、「はしだのりひことクライマックス」の「花嫁」という名曲をぜひ入れましょう。去年122日、はしだのりひこさんがパーキンソン病のため72歳で亡くなってから、もう4ヶ月が経ってしまいました。改めて貴兄と一緒にご冥福をお祈りしたいと思います。

僕が静嘉堂文庫美術館に移ってから、貴兄はソロで歌っていらっしゃいましたね。やはり学期末懇親会でしょうか、真っ赤なフェンダーを抱えて歌う姿は、実にカッコよかった!!! 貴兄の還暦を祝って、息子さんがプレゼントしてくれたという、親爺への愛に満ちる逸品ですね。

なお、はじめにアップした「熱演するウッディーリヴァー!?」の写真は、貴兄もよくご存じの同僚・ヒルド麻美さんが撮影したものです。僕が最後に学長室を片づけていると、別れの挨拶にきた彼女が、お手製のアルバム『笑う学長?? 20142017』をハナムケにしてくれました。ウッディーリヴァーが聴覚的思い出なら、『笑う学長??』は視覚的思い出、そのなかの1枚です。                         
                                 敬具

2018年4月9日月曜日

フォークデュオ・ウッディーリヴァー森一朗さま3


 しかし不思議なもので、しばらくやっていると、どうしても人前でやりたくなるのがフォークソングです。いや、音楽というものでしょうか。だからこそ、カラオケがあんなに流行ったのでしょう。

ちょうど大学全体の期末懇親会が蹴上のホテルで行われる予定があったので、その余興に3曲やらせてもらうことにしましたが、デビューにはグループ名が必要です。二人の名前を英語にして、「ウッディーリヴァー」にすると決まるのに、30秒とかかりませんでした。

しかし時間の関係で3曲だけというので欲求不満がつのり、秋の学園祭で5曲やらせてくれとねじ込みました。なにしろ学長からのお願いですから、学園祭実行委員会もノーとは言えなかったのでしょう( ´艸`) 即刻OKが出ると、今度は今まで以上に熱が入ります。

僕が”Early Morning Rain” ”Four Strong Winds”を、貴兄が「なごり雪」と「22歳の別れ」をやり、最後に二人で”Where Have Flowers Gone”――「花どこ」を合唱することにして練習を重ねました。そうこうするうちに、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞するというニュースが飛び込んできました。もう”Blowin’ in the Wind”をやらないわけにいきません。

2018年4月8日日曜日

フォークデュオ・ウッディーリヴァー森一朗さま2


しゃべっているうちに、おたがいフォークソングが趣味であることが分かったので、それじゃー一度一緒にやってみようよということになりました。夕方、仕事が終わって僕がヤマハの安ギターを抱えて図書館を訪ねると、貴兄がやおらギターケースから取り出したのは、フェンダーの12弦ギターでした!! 

その調弦を聞いただけで、これは僕とレベルの違うプロはだしだとすぐ分かりましたが、もう引っ込みはつきません。聞くと貴兄は、立命館大学の学生時代、フォークソングにはまってしまい、かなり熱中したとのことでしたね。

基本的に僕のは正調アメリカンフォークであり、そのあとのアメリカンニューフォークですが、10歳ほど若い貴兄は、ベーヤン伊勢正三や、先日亡くなったはしだのりひこに代表されるジャパニーズフォークでした。「あんたのは軟弱フォークだ」なんて悪態をつきながら、それぞれ得意の持ち歌を披露すれば、もう<青春プレーバック>という感じで、盛り上がらないはずがありません。




2018年4月7日土曜日

フォークデュオ・ウッディーリヴァー森一朗さま1


拝啓 フォークデュオ・ウッディーリヴァー森一朗さま

 長年お勤めになった京都美術工芸大学図書館司書のお仕事も定年を迎えられたとのこと、ご苦労様でした。これからも経験を活かし、名門・関西大学の図書館のお仕事を続けられるとのこと、大慶に存じます。これまで以上に、充実した日々をお送りになることでしょう。

はじめて僕が貴兄にお会いしたのは、4年前の今頃でした。京都美術工芸大学の学長職を3年間預かることになり、何はともあれ図書館をお訪ねしました。大変立派な図書館で驚きましたが、特に心を動かされたのは、すでに『國華』が定期購読され、マガジンラックに最新号が立てかけられていることでした。

利用時間も、本の借り出し方も、そこに並んでいるコンピューターの使い方も分からない僕に、貴兄はとても親切に教えてくれましたが、そのあとしばらく雑談に花を咲かせました。はじめて会ったのに、十年の知己のような感じがしました。





2018年4月6日金曜日

高橋明也編『風俗画』


高橋明也編『風俗画 日常へのまなざし』(ART GALLERY テーマで見る世界の名画7)集英社

 集英社創業90周年企画として、テーマ別美術全集全10巻が出版されていますが、本書はそのなかの1冊です。編集は三菱一号館美術館館長にして畏友の高橋明也さん、かつてその『美術館の舞台裏』という快著を紹介したことがありますね。今回の『風俗画』では、「社会のなかの虚実」「家庭と日常生活」「情熱とエロティシズム」の3章に分け、67点の著名な優品や興味深い作品を紹介しています。

それは風俗画の基本的な3つのコンセプトであると同時に、風俗画の展開ともなっていて、ページを繰っていくと、西洋風俗画の全体像が自然に浮かび上がるような構成になっています。

高橋さんは総論として「風俗画の系譜」を担当執筆、ギリシア・ローマからジャンルとしての終焉を迎える20世紀までを、とても分かりやすくまとめています。わずか9ページですが、その内容は実に濃厚、厳しくチェックされているカラー図版とあわせて楽しんでほしいオススメの1冊ですよ!! 

わが静嘉堂文庫美術館でこのあいだ好評裡に終了した「歌川国貞展」に際し、僕は「桃山風俗画私論」という「饒舌館長」トークをやったのですが、もし本書を知っていたら、日欧比較美術史の視点を取り入れつつ、もうちょっとおもしろい内容に高めることができたかも!?(笑)

2018年4月5日木曜日

広瀬淡窓11


律詩の一

 東から西 咸宜園 その近辺を散歩する

 南の方へまた北へ 家があったら一眠り

 どこへ行っても座布団は 必ず置いてあるがゆえ

歩き疲れてくたびれて 飽きちゃったらば一休み

木々の葉っぱは風に舞い 窓のスダレに引っかかり

垣根にゃ菊が傲然と 花を咲かせる今は秋

ようやく病も癒えたけど 好きなお酒は飲めないし

この幽愁からどうすれば 逃れることができるやら 

 彦山

  高くそびえる英彦山よ 望めば山気盛んなり

  天気晴れれば建物が こずえの向こうに出現す

  日は暮れ果てて境内に 人っ子一人いなくなり

  空に昇った香煙が 峰に漂う雲となる

2018年4月4日水曜日

広瀬淡窓10


江戸漢詩の魅力をはじめて僕に教えてくれたのは、富士川英郎先生の『江戸後期の詩人たち』でした。もちろん広瀬淡窓も大きく取りあげられていますが、小琴の忘れがたい逸話も紹介されています。

ある時、昭陽の弟子と思われる雷首という青年が、16歳になった小琴にプロポーズの五言絶句を贈りました。この雷首とは、やがて小琴と結婚し、亀井家を継いだ三苫源吾のことにちがいありません。小琴も前から彼を憎からず思っていたのでしょう、五言絶句でこたえました。これまた戯訳で……

 日本一の梅の花
 今宵あなたのために咲く
 花のまごころ知りたけりゃ
 月影踏みつつ深夜来て

江戸時代には、女性が『女大学』によってがんじがらめになっていたと考えられてきました。それにもかかわらず、こんなみずみずしくロマンティックな詩を詠んだ閨秀詩人がいたことに、そのとき僕は大きな驚きを感じたのでした。

2018年4月3日火曜日

広瀬淡窓9




亀井小琴に贈る詩
 亀井小琴 詩がうまく 絵筆も揮う軽やかに
 天下に冠たる南画家で 驚かぬもの いやしない
 詠歌[]めば式部や少納言 二人と甲乙つけがたく
 『詩経』の鄭風・衛風を 兼ねるがごとき素晴らしさ

亀井小琴は淡窓が若いとき教えを受けた筑前福岡の儒者・亀井昭陽の娘さんで、のちに閨秀画家として名を挙げました。かつて畏友・安村敏信さんが、板橋区立美術館でとても刺激的な特別展「江戸の閨秀画家」を開きました。

先日「堀文子展」を紹介したとき書いたように、「閨秀」というのは、ちょっと問題を含んでいる言葉です。安村さんは「閨秀画家」というタイトルに批判がおこって、注目が集まるだろうと思い、あえて銘打ったそうですが、のれんに腕押し糠に釘――目論見はみごと外れてしまったと笑っていました。

その特別展で見た小琴の「蘭石図」(福岡市博物館蔵)は、実にさっそうとした水墨画でした。そこで山根有三先生が主宰される華道・真生流の機関誌『真生』に、「文人の花」シリーズの一つとしてこれを紹介したことも、いま懐かしく思い出されるのです。

2018年4月2日月曜日

広瀬淡窓8

 隈川雑詠五首の四
 夜目にもさやに亀山[かめやま]は 隈川のなか浮かんでる
 毛利高政 黒田家を 迎え撃ったる古戦場
 華麗な軍旗 彩飾を 加えた戟[ほこ]も夢のあと
 乱れ咲いてる芦の花 青き月光 照らしてる

隈川雑詠五首の五
 観音堂のその上を 雲 飛び帰る夕間暮れ
 突然 寺の鐘の音が 山の中腹から響く
 岸辺じゃ乗客われ先に…… 出発できない渡し舟
 つがいのシラサギねぐらへと 輝く白さ見せて飛ぶ 









2018年4月1日日曜日

広瀬淡窓7




隈川雑詠五首の一
 十里も続く清流の 藍も及ばぬ青さかな
 その清流に張り出して 建った家々みんな住む
 いまだ子供は舟と櫂[かい] 操ることはできないが
 欄干から身を乗り出して 大人の真似する魚釣り

隈川雑詠五首の三
 川辺にそびえる峰々よ 屏風絵みたいな素晴らしさ
 競うがごとくどの家も 借景として見る連子越し
 豪商少しも惜しまずに いかに黄金積んだとて
 亀山の緑の絶景の 半分だって買えやせぬ


岩波ホール「山の郵便配達」2

  名古屋大学につとめていたころ、名古屋シネマテークで勅使河原宏の「アントニオ・ガウディ」がかかり、見に行こうと思っているうちに終っちゃったことがありました。そのころ映画への関心が薄れ、チョット忙しかったこともあるのかな?  そんな思い出はともかく、名古屋シネマテークが閉館に...