2017年9月30日土曜日

東京国立博物館「フランス人間国宝展」2


 この「フランス人間国宝展」は、フランス人間国宝の認定を受けた13名と、「手の賢さに捧げるリリアンヌ・ベタンクール賞」という賞を受けた2名、計15名の工芸作家による作品およそ230件を紹介する、本邦初の特別展です。

フランスの美術や文化行政から多くを学んできた日本が、人間国宝という国家認定システムをフランスにはじめて教えてあげたんだという点に、僕は得も言えぬ誇りを感じるとともに、これで若干の恩返しができたような気持ちになります。

もちろん僕も初めて聞く名前、はじめて見る作品ばかりで、深く心を動かされましたが、わが国人間国宝の作品に比べると、やはり独創性や革新性、あついはアートとしての要素がすぐっているように感じられました。

 「僕の一点」はジャン・ジレルさんの陶器です。ジレルさんは14歳で陶芸を初体験したものの、やがて画家になるための勉強を始めました。しかし1975年、28歳のとき、中国・宋代の陶磁器に深く心を動かされ、陶芸に集中することを決意します。2008年には、陶芸家である奥様と一緒にアトリエを開き、世界的活躍を続けています。

2017年9月29日金曜日

東京国立博物館「フランス人間国宝展」1


東京国立博物館「フランス人間国宝展」<1126日まで>

 静嘉堂文庫美術館が人間国宝・室瀬和美さんに大変お世話になっていることや、個人的にも兄事していることについては、以前「饒舌館長」にアップしたとおりです。この人間国宝というのは通称で、正しくは重要無形文化財保持者といいます。

演劇、音楽、工芸技術などなど、美術工芸品のような触覚的形態をもたない文化的所産で、歴史上や芸術上価値の高いものを無形文化財といいます。そのうち特に重要なものは、重要無形文化財として文化庁、つまり国によって指定されることになります。

これを優れてみごとに体現できる人、あるいは詳細に理解した上で正しく修得した人が、重要無形文化財保持者として認定される仕組みになっています。それにしても、「人間国宝」とはうまいネーミングを考えたものですね。

これにならい、1994年、フランスで「メートル・ダール」という称号が作られました。日本では「フランス人間国宝」と呼んでいるわけです。これはフランス文化省により、伝統工芸の最高技術者に授与される称号で、技術の熟練度や制作方法の希少性、技術的革新への貢献度などが考慮されて認定されるそうです。これに選ばれた人は、自身のワザを弟子に伝え、受け継がせなければなりません。

2017年9月28日木曜日

佐藤礼奈「トリビュート琳派」3


去年、僕はデモを聴いて、早速オマージュを捧げることにしました。そのお礼でしょうか、先日、佐藤さんがわざわざ静嘉堂文庫美術館を訪ねて来てくれました。京都美術工芸大学時代、ずいぶんお世話になった『京都新聞』にも、大きく取り上げられたとのこと、我がことのようにうれしく感じました。

「トリビュート琳派」ミュージアム・コンサートを、細見美術館館長・細見良行さんの許しを得て開催する予定にしていたところ、先日の台風でキャンセルせざるを得なかったとのことでした。残念無念!! 琳派美術館とたたえられる細見美術館ほど、これにふさわしい美術館はほかにないでしょう。いつの日か、実現することを祈ってやみません。

細見美術館3代目にあたる良行さんとは、本当に親しくさせてもらってきました。最初に生涯の友となるだろうと確信したのは、昭和58年のことでした。その11月に、ニューオーリンズ美術館でカート・ギター博士の日本絵画コレクション展「錦秋万葉」が開催され、それを記念して国際シンポジウムが企画されました。

発表を依頼された僕は、宗達屏風の構図について私見を述べたのですが、それが終わったあと、良行さんはテキサス・フォートワースのキンベル美術館へ一緒に行こうと誘ってくれました。アメリカ留学中であった良行氏さんは英語が堪能で、僕の航空券の変更などもすべてやってくれました。それ以来の親友です。細見美術館で「トリビュート琳派」コンサートを是非やってほしいなぁと思うのは、良行さんとのこんな関係にもよるところなんです。

2017年9月27日水曜日

佐藤礼奈「トリビュート琳派」2


去年3月発表したKyoto iPopsのファースト・リリースは、「千年のコンチェルト」でしたが、セカンド・リリースとして発表したのが「トリビュート琳派」です。琳派の酌めども尽きぬ魅力を、音楽に昇華させたCDアルバムです。佐藤さん作曲のメロディアスではないメロディーと不思議なリズム、豊かに響き渡るヴォーカルと口上は一度聴いたら忘れられません。

大阪芸術大学の太田聖二さんが作詩を担当、琳派400年の歴史を、わずか6曲のうちに凝縮してしまいます。俵屋宗達や尾形光琳の美のキモを象徴的にとらえた歌詞を追っていけば、もう僕の拙文集である『琳派 響きあう美』なんか、まったく読む必要がなくなってしまいます。

「僕の一点」はやはり「想い膨らむ~『紅白梅図屏風』観~」ですね。目をつぶって曲に身をゆだねていると、光琳畢生の傑作「紅白梅図屏風」が眼前に現れてきます。佐藤さんや太田さんが、いくら愛や恋に偏りがちな現代のポップスから距離を置こうとしても、これだけはかのフロイト的イコノロジーからどうしても逃れられなかったようですね。こんな点からも、小林太市郎という美術史家のすごさが改めて思い起こされるのです。

 

2017年9月26日火曜日

佐藤礼奈「トリビュート琳派」1


 
 京都美術工芸大学時代、加納剛太さんとお知り合いになりました。加納さんは半導体工学の大家で、松下電器――いまのパナソニックにお勤めになったあと、高知工科大学などで研究と教育に従事、「起業工学」という新しい学問を興されました。その後、京都工芸繊維大学大学院でも学生指導にあたられたので、その関係からお近づきになる機会に恵まれました。

その加納さんから紹介されたのが佐藤礼奈さんです。佐藤さんは京都をモチーフにしたポップスを発表して、注目を集めるシンガー・ソングライターです。佐藤さんはバンドのヴォーカルで鍛えたあと、5年前からソロ活動を開始しました。一般に受けいれられやすい愛や恋に偏りがちなコンテンポラリー・ポップスからの革新を目指し、innovationの頭文字から取った<サトレナiPop研究所>を主宰しています。

しかも、ヤングから僕たちまで、ジェネレーションを超えて心を震わすような歌詞を生かした曲作りを理想にしたいと語っています。

2017年9月25日月曜日

ネコ絵に書き加えられたオマージュ3


二つ返事で引き受けたことは、言うまでもありませんが、今村先生がお書きになった『猫談義』を読まずして、沈南蘋や徽宗のネコを語ることは、とてもできそうにありません。早速、アマゾンで検索すると一件ヒット、即「1クリックで買う」ことと相成りました。

案の定、ものすごく濃い内容です。東方書院発行の月刊誌『東方』に連載した文章を中心にまとめた300ページほどの本ですが、今村先生の博覧強記振りに、改めて驚かないではいられません。

いや、博覧強記などというと失礼に当るかもしれません。先生は「あとがき」の5ページにわたって参考文献を挙げ、このほか本文中に使用した文献367部について、別に索引を作って出典を明らかにしています。一昨年出版した拙著『琳派 響きあう美』のことを思うと、忸怩たるものがありますが、今さらどうしようもありません。

それはともかく、『猫談義』を送ってくださった岩滝さんは、本当に本が好きな本屋さんらしく、この本についての長い紹介文をみずから書いて同封してくれました。これまでネットでずいぶん本を買いましたが、こんなオタク本屋さん――いや、愛書家本屋さんははじめてです。 

心を深く動かされた僕は、アマゾンの質問機能を使って、お礼メールを送りました。すぐに返メールが来たのですが、それによると、岩滝さんは美術にも興味をお持ちになっているとのこと、とてもうれしい気持ちになったことでした。

これから時々、この『猫談義』からおもしろいネコの詩や話を紹介していくことにしたいのですが、まず初めは、やはりこれまで何度も「K11111のブログ」に登場してもらっている陸游です。

今村先生は、第一章の「縁起」を陸游の「十一月四日風雨大作」(『剣南詩集』巻26)で締めくくっています。もちろん先生は、原文と読み下しに現代語訳を添えて完璧を期しているのですが、このブログではいつものように戯訳で紹介することにしましょう。

ちなみに、陸游のネコ詩を全部知りたくて、『陸游集』全5冊を買っちゃったことはすでにアップしたとおりですが、これは1976年の中華書局版です。実はこれと同じ『陸游集』を先生も使っています。先生は必ず出典をちゃんと書いてくれるので、こんなことまで分かっちゃうのです。

風吹き荒れる川と湖[うみ] 雨が降ってて村暗く
周りの峰々山鳴りし 逆巻く波涛は吠えまくる
柴がチョロチョロ燃える部屋 粗末な毛氈[もうせん]――でも温[ぬく]い
俺はメロメロ・ネコチャンと 門 出ず家に閉じこもる

2017年9月24日日曜日

ネコ絵に書き加えられたオマージュ2


 かつて何かの必要があって、唐の段成式が撰した『酉陽雑俎』(東洋文庫)を手に取ったことがあります。『酉陽雑俎』はさまざまなおもしろい話を集めた逸話集のような本です。その翻訳者として、今村与志雄先生のお名前が深く胸底に刻まれました。

その博覧強記ぶりは、愛読する『酒の肴』や『抱樽酒話』を書いた青木正兒と甲乙つけがたく、ただただ感嘆を久しゅうするばかりでした。お二人の学風はかなり違うと思いますが、博覧強記という点では軌を一にしています。

その今村先生に『猫談義 今と昔』という名著があることはどこかで聞いていましたが、美術史の論文やエッセーを書くために絶対必要というわけでもなかったので、ネコ派の僕もそのままにしていました。

ところが今秋、静嘉堂文庫美術館で明清画名品展を開くことが、去年早くに決まりました。当然、我が館が誇る沈南蘋の名品「老圃秋容図」にも登場してもらわなければなりません。これにちなんで、ネコの絵に関する館長おしゃべりトークをやってほしいと、担当の大橋美織さんから頼まれました。

2017年9月23日土曜日

ネコ絵に書き加えられたオマージュ1


 今村与志雄先生の『猫談義 今と昔』(東方書店 1986年)に引かれている劉基という人の七言絶句があります。タイトルは「画猫に題す」、劉基は中国・明の太祖をたすけて建国に貢献した政治家ですが、儒学や史学に詳しく、また詩文をよくした文人だそうです。またまた僕の戯訳で紹介しましょう。

  青い目のネコ 黙ってりゃ 運ばれてくる魚メシ
  すわる階段のんびりと 舞ってる蝶々を見てるだけ
  吹く春風にゆらゆらと 揺れる花影[はなかげ] 伝説の
  ウズラに化ける野ネズミを 捕えもせずに知らん顔

 結句はちょっと分かりにくいのですが、中国では3月になると地中のモグラが鳥のウズラに変身すると考えられていたらしく、それを引っぱってきたものだそうです。これは中国絵画史におけるネコを考える際、結構重要な資料だと思います。『猫談義 今と昔』については、旧ブログにアップしたところですが、話の都合上、ちょっとバージョンアップを加えてここに再録しておくことにしましょう。

2017年9月22日金曜日

東京都美術館「ボストン美術館の至宝展」8


一蝶は、狩野派の本家である中橋狩野の安信に学んで、江戸前期に活躍した狩野派の画家である。しかし狩野派といっても、少し毛色が変わっている。狩野派が得意とした山水や花鳥、あるいは和漢の古典的人物より、江戸の都市風俗を好んで描いた。そのため、狩野派から破門されたという伝説を生んだほどである。

一蝶は吉原遊郭に出入りし、幇間のようなことをやりながら画家として生活していた。そして遂に、幕府の要人に遊女を身請けさせたりしたものだから、伊豆七島の三宅島へ島流しに処せられてしまう。当時は五代将軍綱吉の時代で、その生類憐れみの令に違反したためという説もあるが、真相は善からぬ幇間行為の方にあったらしい。

三宅島では、画家としての活動も認められていたようで、島流し時代の作品が伝えられている。それらは島一蝶と呼ばれて、コレクター垂涎の的となっているのだが、「布晒舞図」は島一蝶の代表作として、早くから重要文化財にも指定されてきた。

歌舞伎役者が招かれた武家の座敷で披露する舞踏の一瞬である。絶海の孤島で、楽しかった江戸の生活を回想し、望郷の念にとらわれる一蝶の姿が、その「牛麻呂」という落款に象徴されている。

十一年後、大赦により江戸に戻ることができた一蝶は、このような風俗画から手を引いて、真面目な狩野派絵師に変身する。いま東京都美術館で開かれているボストン美術館名品展では、かつて私も参加した悉皆調査で発見された一蝶の「仏涅槃図」が目玉作品となっているが、これは変身後の大作である。

2017年9月21日木曜日

東京都美術館「ボストン美術館の至宝展」7


先日、テレビ東京の「美の巨人たち」でこの「仏涅槃図」が取り上げられ、僕もコメンテーターとして引っ張り出されたのですが、見ていただけましたでしょうか。ディレクターの小田一也さんにとって、これがデビュー作とのことです。僕のコメントはともかく、とても分かりやすく、またおもしろくまとめられていたと思います。小田さんには、この調子で頑張っていただきたいと祈念しています。

現在、畏友・小松大秀さんが館長をつとめる秋田市立千秋美術館では、「遠山記念館名品展 至高の日本美術」<115日まで>が開かれています。小松さんに求められるまま、秋田県立近代美術館時代ずいぶんお世話になった『秋田魁新報』に、「至高の江戸絵画 遠山記念館名品展に寄せて」という紹介エッセーを書きました。

ここでは「僕の三点」として、英一蝶の「布晒舞図」と呉春の「武陵桃源図巻」、岡田半江の「春靄起鴉図」に焦点を絞ったのですが、一押しは何といっても「布晒舞図」、その一節を引用することにしましょう。その終わりに、同じ一蝶による大作として「仏涅槃図」に対する言及があるものですから……。

2017年9月20日水曜日

東京都美術館「ボストン美術館の至宝展」6



 宗珉は今でいうところの潔癖症で、一流のちゃんとしたものしか絶対口にしませんでした。あるとき一蝶は、近所のお菓子屋で売っている麁品の餅――これまた今の言葉でいえば激安粗悪食品というところでしょうか、そんな餅を出して自分が食べたあと、君も一つ食えよと勧めました。


宗珉がやむを得ず、我慢しつつ飲み込むようにして食べるのを見て、一蝶はクスクスニヤニヤ……。そんなことをやって、潔癖症の宗珉をからかったそうです。絶海の孤島ともいうべき三宅島で10年以上も暮した一蝶にとって、マイソフォビアなんてチャンチャラおかしかったのでしょう。


その後「仏涅槃図」はボストン美術館で修理が施され、見違えるようにきれいになりました。僕も18年ぶりに見て、驚かずにはいられませんでした。また軸木から、正徳三年初春という墨書銘が見つかったことも、うれしいニュースでした。


展覧会カタログには、この修復事業の報告と、神戸市立博物館の石沢俊さんによる新知見が載っていますので、ぜひ一読をお勧めしたいと思います。できたら僕の『國華』拙論も一緒にね(笑)
 

2017年9月19日火曜日

東京都美術館「ボストン美術館の至宝展」5



 幕末には江戸の芝にあった青松寺という寺の塔頭、吟窓院の寺宝であったことが、これまた墨書銘によって明らかになるのですが、その後この塔頭を出て、アーネスト・フェノロサらによりボストン美術館のコレクションとされたのでしょう。


この「仏涅槃図」の軸頭も見所の一つです。町彫りの開祖として尊敬を集め、当時の彫金界で高い人気を誇った横谷宗珉が、その先端に唐獅子を彫って、サインと一種のモノグラムである花押を加えているからです。下絵は一蝶によるものと見て間違いなく、二人のコラボ作品だといってもよいでしょう。


今回の至宝展では、展示ケースの横に小窓を作って脇から照明を当て、この彫り物がよく見えるように工夫されています。展覧会に足を運んだ方は、忘れずに見てきてくださいね。


伝統に飽き足らず、その枠外に飛び出したという点で、一蝶と宗珉はよく似ていたせいでしょうか、無二の親友でした。一蝶が島流しにあっていた間、お母さんの妙寿を世話していたのは宗珉だったそうです。

2017年9月18日月曜日

東京都美術館「ボストン美術館の至宝展」4



 それは199986日のこと、一蝶最大のすぐれた力作であることが一目で理解されました。日本では誰も知らない、ジャーナリスティックにいえば新発見の作品です。すぐにも紹介したいと思いましたが、性怠惰にして、ようやく『國華』1373号に拙稿を寄せた時には、すでに10年以上が経っていました。今回の「ボストン美術館の至宝展」で、これが本邦初公開となったわけです。もちろん「僕の一点」です。


江戸時代にたくさん描かれた涅槃図のなかで、一頭地を抜く出来映えを誇っていると言ってよいでしょう。一蝶は先行の図像を参照したにちがいありませんが、これを特定することはむずかしそうです。狩野派の涅槃図としては、まず京都・大徳寺が所蔵する狩野松栄バージョンが思い出されますが、一蝶が別系統の図像によったことは明らかです。おそらく狩野派粉本のなかに、このような涅槃図があったのでしょう。

画の裏にある墨書銘によって、正徳3年、つまり1713年に制作されたことが分かるのも、きわめて重要です。幇間のようなこともやっていた一蝶が、幕府の逆鱗に触れ、伊豆七島の三宅島に流されること11年、ようやく大赦にあって懐かしき江戸に戻ってきてから4年後、62歳のときの作品ということになります。

 

2017年9月17日日曜日

東京都美術館「ボストン美術館の至宝展」3


ボストン美術館と特に親しくさせてもらうことになったのは、鹿島美術財団の助成によるボストン美術館所蔵日本美術悉皆調査に、辻惟雄さんとアン・モースさんからお呼びがかかってからでした。僕の担当は、江戸狩野派、円山四条派、文人画、洋風画雑派の4つで、1998年から2001年にわたり、夏休みを利用しつつ3週間ほど出かけて進めることになりました。

もちろん僕一人でやれるはずもなく、たくさんの友人研究者に協力を仰ぎました。ランチタイムを除いて朝10時から夕方5時まで、ずっと調査室に籠もるわけですから、もうみんなボストン美術館学芸員といった気分です。

量的にもっとも多い江戸狩野派には、2年をあてることにしました。双幅は2点と数えるアメリカ方式にしたがって約650点でしたが、その中でもっとも強く興味を惹かれたのが、英一蝶の彩管になる「仏涅槃図」でした。タテ3mちかく、ヨコ1m70㎝ほどの大涅槃図ですから、とても調査室には入らず、大きな多目的ルームの床に延べてもらって調査することになりました。

2017年9月16日土曜日

東京都美術館「ボストン美術館の至宝展」2


19931月、ボストンのイサベラ・スチュワート・ガードナー美術館で国際シンポジウム”Competition and Collaboration: Hereditary Schools in Japanese Culture”が開催されました。ぶっちゃけて言うと、「日本文化における家元制度」ということになるでしょうか。

コーディネーターは、今は亡きかのジョン・ローゼンフィールド先生、その先生がクルマを運転して、ボストン空港まで出迎えにいらして下さったのですから、感激を通り越して、恐縮以外の何ものでもありませんでした。

僕は狩野派のワークショップ・システムについて、ブロークン・イングリッシュでやったのですが、フリーの1日をボストン美術館の見学にあてました。3回目の訪問ということになります。

シンポジウムのレセプションが終わってタクシーを拾い、宿舎の「ハーバード・クラブ」へと告げたのに、連れて行かれたのが「ハーバー・クラブ」という、ネオン輝き潮の香漂うバーだったことも、どっかに書いたような気がします。もちろん一杯ご馳走になって、本当のハーバード・クラブにご帰還めされたのでした(!?)

2017年9月14日木曜日

PPMカバー・バンド Heart Stream 5


このごろはもっぱらユー・チューブでPPMを楽しんできました。すごい時代になったもんですね。アンディー・ウィリアム・ショーや、ジャック・ベニー・プログラムに出演するPPMまで、簡単に見られる時代になったんです。

しかし不思議なことに、ユー・チューブでHeart Streamに逢着したのはごく最近のことでした。あまりのすばらしさに、さっそく「饒舌館長」でオマージュを捧げさせてもらうことにしたというわけです。

もちろん僕もPPMのファン、”In the early morning rain” ”Blowing in the wind”“500 miles”は、数少ない持ち歌のなかの3曲です。京都美術工芸大学ライブラリアンの森一朗さんと、二人の頭文字をとってウッディー・リヴァーというフォーク・デュオを結成、学園祭でこれらを披露し、やんやの喝采を受けたことも(笑)、旧ブログにアップしたとおりです。

とはいっても、小室等率いるPPMフォロワーズの教則本の前で、あえなく白旗を掲げた僕にとって、河谷さんや河内さんのスリー・フィンガーなどは高根の花のまた花です。

また、遠距離デュオとなってしまったウッディー・リヴァーを、Heart Streamのように続けるエネルギーもすでに枯渇しちゃっています。というわけで、このごろは老人性腱鞘炎をだましだまし、似非スリー・フィンガーでひとりPPMをがなりたてるだけの悲しき高齢者フォークです。しかも来年は、後期高齢者フォークになることが約束されちゃっているんです(!?)

 


2017年9月13日水曜日

PPMカバー・バンド Heart Stream 4


あるいは、森本草介や野田弘志、磯江毅のようなすぐれた超写実主義絵画と似ているかもしれません。はじめ「わぁ写真みたい!!」と驚きますが、鑑賞を深めていくにしたがって、現実や写真との微妙な差異におもしろさを感じるような感覚です。

Heart Streamのホームページによると、この4人の方々は1968年から3年間、山口県徳山で、PPMサウンドを追い求めながら、すばらしい高校生活を送ったようですね。僕より7歳ほど若いようですが、もう今となってはまったく同じ世代だといってよいでしょう。

卒業後はそれぞれの道を歩み始めますが、30年後の2001年、ひょんなことからリユニオンが実現し、音楽活動を再開したのでした。実にいい人生だなぁ! しかも、高校時代より今の方がみんないい顔をしている!! 

しかし4人は、関東と広島に遠く離れてお住まいのようで、なかなか思うように活動できないことに、ちょっと悔しさをにじませています。少なくともこの2年間、東京ではコンサートが開かれていないようですが、次の機会にはぜひお邪魔したいと心に期しています。

2017年9月12日火曜日

PPMカバー・バンド Heart Stream 3




もちろん、その明晰なエレメントがそのままに放置されるわけではありません。互いが競い合いつつも、みごとなハーモニーへと昇華しています。その結果、PPMに比べて、ちょっととんがったクリアネスとそこから生まれる華やぎが強まった、Heart Streamサウンドが東洋の島国で創り出されることになったのです。


それは微妙な違いかもしれませんが、日本美術と呼応する感覚があることに、僕はとても大きな興味を感じます。それは、日本美術における「写し」の問題です。とくに、日本美術の中核に位置してきた茶の美術における「写し」の存在です。

先行するすぐれた作品をそっくりそのままに写すけれども、そこに生まれるほとんど無意識に近い微妙な差異を楽しむ美意識です。Heart Streamサウンドは、このような「写し」の感覚ととても近いように思われるのです。

もちろんHeart Streamのほかにも、PPMカバー・バンドは少なくありません。しかし、もっとも完璧にコピーしているHeart Streamに、もっとも大きな感動を覚えるのは、ちょっと不思議な感じがしますが、日本美術における「写し」の問題を考えることによって、ある解答を得られるのではないでしょうか。

 

2017年9月11日月曜日

東京都美術館「ボストン美術館の至宝展」1


東京都美術館「ボストン美術館の至宝展」<10月9日まで>

 ボストン美術館はアメリカ・ボストンにある私立美術館です。現在のコレクション点数は約50万点、世界に冠たる美術館の一つです。1869年――日本でいえば明治2年に組織され、7年後、正式に開館の運びとなりました。

洋の東西にわたり、古代から近代に至る各ジャンルの作品を総合的に収集していますが、とくに我が国との関係浅からざる美術館としても有名ですね。アーネスト・フェノロサやチャールズ・ウェルド、ウィリアム・ビゲロー、エドワード・モースらが収集したすぐれた日本美術が、重要な一部門を占めているからです。一時期、岡倉天心が東洋部の顧問や部長をつとめていたことも忘れられません。

 僕にとっても、最も親しく交流した外国美術館なのです。1975年、山根有三先生を団長とする在米琳派調査に加えてもらってお邪魔したのが最初でした。

1982年、I.M.ペイによるウエスト・ウィングが完成したとき開催された、国際シンポジウム「日本の絵画芸術」に招待され、この美術館が誇る尾形光琳筆「松島図屏風」に関する発表を行なったことも、懐かしい思い出として残っています。このときの愉快なエピソードについては、かつて『國華清話会会報』に書いたことがありますので、いつか「饒舌館長」にアップすることにしましょう。

PPMカバー・バンド Heart Stream 2




まず英語の歌詞がクリアーになっています。ポール河谷徹孝さんやマリー栗原晴美さんのヴォーカルを、耳だけで日本人だと聞き分けることは不可能ですが、PPMのアメリカ英語に比べると、むしろ明晰で透明感のあるキングズ・イングリッシュへ近くなっているような印象を受けます。またギターの一音一音が際立って、クリアーになっています。とくにピーター河内良文さんが奏でる装飾音の華やかなきらめきを、どのようにたたえたらよいのでしょうか。


そしてベースの比重がぐっと高まり、これまた存在をクリアーに主張するようになります。PPMではまったく黒子だったベースが、1/4の重要なパートを占め、ヴォーカルとギターを根底で支えるという本来の役目をきっちりとはたしています。


あの体をリズムに合わせてちょっとコミカルに揺らす、ディック山中義晴さんの演奏スタイルを含めて、Heart Stream最大の個性は明確に立ちのぼるベースの低音にあるといっても過言じゃないかもしれません。


このように、耳をすましてPPMと比較するとき、各エレメントがクリアーに立ち上がっている点に、Heart Streamサウンド最大の特徴があると言ってよいでしょう。

2017年9月10日日曜日

PPMカバー・バンド Heart Stream 1

 素晴らしい日本人のフォーク・グループです。彼らが愛し尊敬するのはピーター・ポール&マリーのみ、そのPPMサウンドの日本人による再現を目指し、使命としています。そのために演奏技術を練磨し、ハーモニーを洗練させ、完璧を求める行為のうちに無上の喜びを見出しています。

だからこそ堂々と、PPMカバー・バンドとかPPMコピー・バンドと名乗っています。へたにオリジナリティなんか主張しないところが潔く、またカッコイイ!!

そこに生まれたHeart Streamサウンドは、PPMサウンドのコピーでありながら、いや、それゆえにこそ心を深く揺さぶります。あのきわめて難しいPPMサウンドを、ここまで日本人がパーフェクトに再現することができるのかという感動が、まず全身を包みます。

しかし、何度も何度も聴いているうちに、やはりHeart Streamにしか求めることができない、あるキャラクターがおのずと感得されて、感動はさらに深まります。それはPPMに少なかったクリアーな感覚です。

2017年9月9日土曜日

川喜田半泥子『随筆 泥仏堂日録』5


魯山人も一時期中国趣味に染まっていたわけで、「中国なら牢屋でも……」というのは、浅草から品川に引っ越し、これで少し中国に近くなったといって喜んだ江戸の儒学者を思い起こさせます。

 この7か条には出てきませんが、もう一つ、この二人の一致したのが民芸派に対する嫌悪だったことも興味深く感じられます。いや、「昔の作家は、今日吾々のいう至上芸術品の中から生れ出たのだ、という事」という一条などは、暗に民芸派を批判しているのかもしれません。

3年ほど前、津郊外の石水美術館を訪ねて半泥子の作品を堪能したことがあります。その印象は旧ブログ「おしゃべり館長」にアップしましたが、「僕の一点」には、「かまつけば窯の中まで秋の風」という自賛をもつ「千歳山真景図」を選びました。

真景図とはいっても、松の木だけを淡彩で描いた作品です。尾形乾山に傾倒し、僕も大変お世話になった『乾山考』を著わした半泥子が、その兄光琳の「松図」(川端康成記念館蔵)を見る機会に恵まれ、インスピレーションを得た作品だったのではないでしょうか。

そのとき当然手に取るべき本書を読まずに済ましてしまったので、忸怩たるものがありましたが、今回、積年にわたる喉のつかえが一気に取れたような感じで、本当にスッキリしました。また、改めて半泥子に対する尊敬の念が高まったことでした。

2017年9月8日金曜日

川喜田半泥子『随筆 泥仏堂日録』4



しかも実にいいのは、半泥子の方から、「一度魯山人に逢いたいと思っている」と、銀座・交詢社前の「中島」のおかみさんに打ち明け、それが実現していることです。偶然二人が出会ったのではありません。

半泥子が北鎌倉を訪ねて行くと、魯山人は打ち水までして待っています。初めて挨拶を交わしますが、半泥子はそれまでサンザン魯山人の悪口を書いたことなど知らん顔をしているし、魯山人はそれをまったく知らないような親しさで接してくれます。二人は十年の知己のごとく、9時間半もしゃべりにしゃべったのでした。「翌日も、其の翌日も、其の日のことを味わうことが嬉しかった」と、半泥子は書いています。すごくいいなぁ!!

二人の見解や趣味がピッタリ合った点として、「作品のよしあしは、技術というよりも、人格の現われだという事」以下、7つばかりが挙げられています。とくに僕がおもしろいと思ったのは、「支那趣味は嫌いという事。尤も山人は以前支那好きで『支那ならば牢屋でもイイと思った事があります』と笑われた」という一条です。

2017年9月7日木曜日

川喜田半泥子『随筆 泥仏堂日録』3



しかしそこには、これなら言われた方も本当に怒るヤツはいないだろうなぁ、みんな苦笑いをしながら、そのままにしちゃうだろうなぁと思わせるユーモアが含まれています。毒舌にはちがいありませんが、どこかカラッとしていて気持ちがいいのです。

序文を寄せた多田利吉は、「法師の文章は明暢、平淡、すらすら読めて晦渋がない。春光和照の滋味もあれば、秋霜烈日の骨もある。気が利いていて嫌味がなく、諧謔があって下品でない。降魔の劔はあっても毒矢を番えない」と述べていますが、まさにその通りだという感を深くします。

だからこそ、「西の半泥子」は「東の魯山人」をあんなにコケにしたのに、二人は胸襟を開く友となることができたのでしょう。「北大路さん」という一章を読むと、お互いを許しあっていた二人の関係がよく分かります。「天才は天才を知る」とはこのことだと、うらやましくなります。もしこれが陰湿な悪口やネチネチした批判だったとしたら、さすがの魯山人も、絶交状をたたきつけたことでしょう。

2017年9月6日水曜日

川喜田半泥子『随筆 泥仏堂日録』2



伊勢商人・川喜田久太夫家の16代目として大阪に生まれた半泥子は、25歳にして百五銀行に取締役として入行します。その後、津市議会議員、三重県議会議員をはじめ、たくさんの企業の要職をつとめ、政財界で活躍、41歳の時には、百五銀行頭取に就任します。40初めにして、すでに功成り名を遂げ、経済的にもきわめて恵まれた環境を手にしたわけですね。

陶芸は若いころから興味を持っていましたが、30代半ばから、津南郊の千歳山で作陶を始め、ついに56歳の時、みずから設計した登り窯を築き、轆轤場「泥仏堂」を開くに至るのです。しかし半泥子は、あくまでシロウトであることを自認していたのです。森孝一氏の解説によると、半泥子の作品数は3万とも、それ以上ともいわれていますが、少なくともその大半を占める茶碗は、売ったことがないといわれているそうです。

 半泥子の文章は実に愉快にして爽快です。歯に衣着せず、当たるを幸いなぎ倒し、バッタバッタと切り倒していく感じです。とても僕などに真似のできる芸当ではありません。

2017年9月5日火曜日

川喜田半泥子『随筆 泥仏堂日録』1


川喜田半泥子『随筆 泥仏堂日録』(講談社文芸文庫 2007年)

 半泥子――大好きな陶芸作家の一人です。いや、陶芸作家などと言ったら、半泥子に怒られるでしょう。本書「その三」のタイトルは「シロウト陶人」ですが、これこそ半泥子の自負するところだったでしょう。

「しろうと本窯を焼くべからず」と言った「おくろうと」がいたようです。おそらく北大路魯山人じゃないかなと思いますが……。この「おくろうと」を、例の半泥子調で茶化しています。土もみ、轆轤ひき、窯たき、さし木など、全部自分でやっていた半泥子は、これらをみんな他人にやらせてイケシャーシャーとしている「おくろうと」なんか、何ぼのもんじゃと言うわけです。

半泥子はみずからを陶芸のシロウトと規定し、窯の神さまに「作れ作れシロウト、焚け焚けシロウト、ユメユメウタガウコトナカレ」と言わせています。半泥子の陶芸は、真のよい意味で趣味的であり、口に糊するためのものじゃありませんでした。それを可能にしたのは、半泥子の生まれと育ちと社会的地位にありました。

2017年9月4日月曜日

永田生慈さん北斎画を寄贈2


僕も永田さんのお陰で、この太田記念美術館や氏家コレクションの仕事を手伝わせてもらってきました。僕が浮世絵に関する本当の勉強ができたのは、その賜物だといっても過言ではありません。

その永田さんが、松江市の島根県立美術館に、所有する北斎や弟子の全作品、約1000点を寄贈したことを、この記事は伝えています。浮世絵界の快挙です!! 総額で10数億円の価値があるとも書かれています。永田さんは島根県津和野町の出身で、北斎の収集を始めたのは、じつに16歳のときだったそうです。

永田さんが津和野町に開設した「葛飾北斎美術館」には、僕もお邪魔してそのすぐれたコレクションを堪能したことがあります。そのとき見せてもらった「鍾馗図」は、北斎が春朗と号していた青年時代における唯一の肉筆画だそうです。

しばらくお会いしていませんでしたが、記事によると病気療養中とのこと、びっくりするとともに、一日も早くあの元気な永田さんに戻られることを願い、また一緒に仕事のできる日が来ることを、一日千秋の思いで待っています。

2017年9月3日日曜日

永田生慈さん北斎画を寄贈1


永田生慈さん北斎画を寄贈

 先日の朝日新聞に、「北斎画千点 島根県に寄贈 川崎の研究者・永田さん」という記事が載りました。永田生慈さんとは、半世紀近くにわたり、仲良くさせてもらってきました。僕が東京国立文化財研究所につとめていたころ、歌麿・写楽同一人説で有名な()石田泰弘さんと、東京浮世絵研究会なるものを立ち上げたことがあります。

この研究会に永田さんは、最初から参加してくれました。永田さんはすでに仲間うちで北斎研究者として知られていましたが、北斗書房という本屋さんをやりながら、研究と収集に邁進していました。そのあと永田さんは、太田記念美術館のキューレーターとなり、目を見張る活躍を始めました。

とくに、フランスのギメ美術館から北斎の「龍図」を借り出して、離れ離れになっていた太田記念美術館の「雨中の虎図」と、100年ぶりに本来の双幅として展示した「ギメ美術館所蔵浮世絵名品展」は、美術界の話題を集め、たくさんの浮世絵ファンを原宿へと向かわせました。普通はスリッパに履き替える太田記念美術館ですが、このときはとても不可能で、シートを敷いて土足にしたというのは、よく知られたエピソードです。

 

2017年9月2日土曜日

河治和香『伊藤若冲』


河治和香『遊戯神通 伊藤若冲』(小学館 2016年)

 河治さんの略歴に、「三谷一馬氏に師事して、江戸風俗を学ぶ」とあったので、とても懐かしい気持ちになりました。『江戸吉原図絵』など、三谷先生のご本にはずいぶんお世話になったからです。河治さんは若冲を主人公にした映画の企画が発端となって、この小説を書くことになったそうです。

腰巻には<「おまえは、京の女やな」足を拭きながら、若冲はそう言って美以をみた。「……え」「底冷えがする」>という、浪漫的一節がアップされています。「時空を超えて我々を魅了し続ける作品とそれを描いた絵師に、江戸と明治、二つの時代から迫った描き下ろし小説」ともあります。

そこに狩野博幸さんの「古い文献に「寂中」と誤記したものがある。華麗な若冲の絵の背後に潜む人間たちの底知れぬ寂しさを、著者は追う」という、いかにも狩野さんらしいキャッチコピーが加えられています。

僕も楽しく読了しましたが、腰巻のシーンなど、やはり映画で見たかったなぁという気持ちをぬぐえませんでした。もしこの本が映画化されたら、必ず拝見させてもらい、マイ批評を「饒舌館長」にアップすることにしましょう。何といっても、映画『天心』の批評を書いて、笑われちゃったこともある僕ですから(!?)

2017年9月1日金曜日

赤須孝之『伊藤若冲製動植綵絵研究』4


 しかしこれだけでは、たとえ科学者でも、赤須さんの言わんとするところを十分理解することはちょっと難しそうですね。やはりこの本を自腹で求めて、あるいは持っている友だちから借りて、はじめからじっくり読むことをお勧めしたいと思います。ともかくも読み出したら止まらない、じつにスリリングな、そしてすぐれた若冲の心理学的イコノロジー研究です。

いや、ヴァールブルグやE.H.ゴンブリッジ、アーウィン・パノフスキーの唱えたイコノグラフィーやイコノロジーには、もともと心理学的研究の要素が入っていたわけですから、「心理学的イコノロジー」なんてトートロジーそのものですね。ただ「じつにスリリングな、そしてすぐれた若冲のイコノロジー研究」と言い換えることにしましょう。

つまりこの本がすごいのは、きわめて科学的な図像分析でありながら、最後にそれが哲学や宗教、思想という人文科学の問題と相似形に結ばれているという指摘――僕的に言えば、両者はフラクタルであるという指摘に昇華している点なんです!!

赤須さんのおっしゃる若冲と「草木国土悉皆成仏」の関係については、この「饒舌館長」でしたか、あるいは以前の「K11111のブログ」でしたか、末木文美士さんの『草木成仏の思想』によりつつ、私見をアップしたような気もしますが……。

「赤須」の「須」にカミカンムリを加えると、「赤鬚」となって、あの三船敏郎が名医を演じた黒澤明監督の名画「赤ひげ」を思い出させてくれますが、いつか直接お会いして、若冲のお話をお聞きしたいものと願わずにはいられません。

 

岩波ホール「山の郵便配達」2

  名古屋大学につとめていたころ、名古屋シネマテークで勅使河原宏の「アントニオ・ガウディ」がかかり、見に行こうと思っているうちに終っちゃったことがありました。そのころ映画への関心が薄れ、チョット忙しかったこともあるのかな?  そんな思い出はともかく、名古屋シネマテークが閉館に...