2017年10月31日火曜日

サントリー美術館「狩野元信」9


徳川幕府の成立とともに、狩野派は探幽を中心として江戸へ本拠を移したため、これを江戸狩野と呼んでいるが、もちろん彼らも法華信徒であって、その墓は東京池上・本門寺にある。

狩野永徳と覇を競ったのが、長谷川派を興した長谷川等伯である。等伯は能登・七尾の畠山家家臣・奥村家に生を享けたが、染物業を営む長谷川家に養われたらしい。この長谷川家が日蓮宗であったらしく、等伯もその家庭環境のなかで、熱心な法華信徒となったと推定される。

能登において日蓮宗関係の仕事に精を出した等伯は、30歳のころ京都に出ると、本法寺を本拠に大活躍を始める。本法寺関係の作品に限れば、「日尭上人像」や「大涅槃図」が名高く、先の『等伯画説』は日通上人による等伯の言説の記録、中国画論のコピーから離脱したわが国最初の画論として、何ものにも換えがたき価値を誇っている。


2017年10月30日月曜日

サントリー美術館「狩野元信」8


ところがここに不思議な現象がある。中世から近世にかけて、日本美術史上、重要な役割を果たした流派、すぐれた作品を遺した芸術家に、日蓮宗の信徒が多かったという事実である。まず挙げるべきは狩野派である。

その始祖は正信、出身は不明ながら、京都に出て室町幕府の御用絵師・宗湛に学び、やがてその跡を継いで幕府御用絵師となって活躍した。近代に至るまで画壇の中枢に位置することになる狩野派が、ここに産声を上げたのである。

正信は日蓮宗の信者であった。その墓は京都・妙覚寺にあり、『扶桑名画伝』には、その実成院過去帳が引かれている。本法寺開山日親、かの鍋冠り日親の像を描いたという『等伯画説』の一条も注目されよう。その後、狩野派は元信、松栄、永徳、光信と受け継がれ、時の支配者に寄り添うようにして発展したが、桑名で客死した光信を除いて、彼らの墓はすべて妙覚寺にある。


2017年10月29日日曜日

サントリー美術館「狩野元信」7


これらの問題を考えるとき、最も直接的関係を有する「遺文」は、『歓心本尊抄』であろう。しかしいくらこれを読んでみても、日蓮は本門の本尊、久遠実成の仏を語って、つまり形而上的な本尊を説いて、それを造形化した仏像についてはまったく触れていない。曼荼羅の構成については匂わすところがあるけれども、直接的ではない。もちろん、多くの経典が同様であるけれども、日蓮の場合には特に指摘しておきたいと思う。

いま仏像を中心に概観してきたが、画像についても相似た事実が指摘できるであろう。簡潔なる文字曼荼羅は、華やかな絵曼荼羅や宝塔絵曼荼羅へと展開していく。布教という使命を負った弟子たちが考え出した「方便」であり、文字通りの「譬喩」だったのだろう。やがて伝統的な法華経曼荼羅なども加わって、日蓮宗絵画は発展していくが、それでもかなり抑制的であったように思われる。

十羅刹女や鬼子母神など、むしろ副次的な神仏が好んで絵画化されるようになったことも、それと無関係ではない。文字曼荼羅や題目本尊を最高の本尊と見なして、彫像であれ画像であれ、イメージをその下位に置こうとする観念が明らかに働いている。そしてそれは、日蓮に端を発する思想であったにちがいない。


2017年10月28日土曜日

サントリー美術館「狩野元信」6


しかも解説によれば、この寺は初め天台宗寺院として創建されて明国寺と称したが、貞治5年(1366)京都・本圀寺の日伝によって再興され、妙圀寺と改めたという。本来、日蓮宗寺院のため造られた仏像ではなかったらしい。過日、東京・正行院の金子隆一上人から、このような例が少なくないことを教えていただいた。

このカタログには、法華経が説く上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩を釈迦如来の両脇に配する一尊四士像があり、また「南無妙法蓮華経」と刻する題目塔の左右に多宝如来と釈迦如来を祀る一塔両尊像が紹介されている。これらは日蓮宗独自の尊像形式であり、典拠は「遺文」に求められるし、日蓮自作と伝えるものもある。

しかし日蓮在世時に彫像化が行なわれたかどうかは疑問であって、むしろ入滅後始められたのではないだろうか。少なくとも二尊四士像ともなれば、入滅後50年ほどを経過して造られ始めたという。


静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画」1


静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画――日本が愛した中国絵画の名品たち――」<1217日まで>(1028日)

 いよいよ開幕です! 静嘉堂文庫美術館12年ぶりの明清絵画展です!! 明清絵画といっても、今回はタイトルにあるごとく、日本人があこがれた明清絵画、私たちの祖先によって愛された明清絵画という観点から、企画を立ててみました。これまでも、明清絵画展は結構たくさん開かれてきたわけですが、ちょっと毛色の変わったおもしろい内容に仕上がったんじゃないかなぁと自負しています。

日本人の美意識によって選択された明清絵画とは、一体どんなものだったんだろうか?という、日本目線で楽しんでいただければ、館長を預かる僕として、こんなうれしいことはありません。明清絵画それ自体のすばらしいクオリティは、改めて言うまでもありませんが……。

オープン前日の今日は、夕方4時半からプレス内覧会です。恒例のギャラリートークは、担当キューレーターがやるものと決まっているわけですが、専門の近世絵画と同じくらいに中国絵画が大好きという館長が、「俺にやらせろ!!」とシャシャリ出てきたものですから、みんな「??」と思いつつも、黙っているしか仕方ありません。

明日は続いてブロガー内覧会です。カリスマ・ブロガー中村剛士さんとご存じ東大・板倉聖哲さんの対談に、これまた「俺も入れろ!!」とばかりに、饒舌館長が乗り込む予定のトークが、いかなるものになるか、天のみぞ知るというヤツです(!?)

2017年10月27日金曜日

サントリー美術館「狩野元信」5


それはともかく、イコノクラスムは偶像破壊運動と訳されることが一般的だが、もしこれを広く偶像否定主義と考えるならば、日蓮にはイコノクラスム的志向があったというべきであろう。

実証は難しく、日蓮宗寺院を訪ねたときの直感に過ぎないのだが、奈良の華厳宗や法相宗、あるいは京都の浄土宗や真言宗の寺院と比べ、安置される仏像の美術的価値において、やや及ばないところがあるというのが、偽らざる感想だからである。すでに指摘されるように、イスラム教にもイコノクラスム的志向が強いのだが、彼我比較して実に興味深く感じられるのである。

平成15年(2003)早春、特別展「立教開宗750年記念 大日蓮展」が東京国立博物館で開催された。そのとき求めたカタログが手元にある。試みに開いてみると、10点の仏像彫刻が紹介されているが、重要文化財に指定されているのは、延文3年(1358)銘を有する岡山・妙圀寺所蔵の康俊作「釈迦如来坐像」のみである。

2017年10月26日木曜日

サントリー美術館「狩野元信」4


 これらを認めた上でなお、彫像や画像を絶対視しない思想が、日蓮には具わっていたように思われてならない。イコノクラスムは、キリスト・マリア・聖人などをイメージとして表現したり、視覚化してこれを礼拝することに厳しい禁令を出し、それらを破壊する運動である。これは8世紀ごろ、ビザンティン帝国で起こった。

このような思想は、ユダヤ教の影響を受けて、初期キリスト教時代からあったそうだが、当然のことであろう。仏教においても、初期には仏像など存在せず、ガンダーラやマトゥーラで紀元初期に誕生したに過ぎない。薬師寺の仏足石は、その間のイメージがいかなるものであったかを教えてくれるだろう。

8世紀に至って、イコノクラスムが成立する重要な契機として、イスラム教からの差し響きがあったというのは、とても興味深いことではないだろうか。その後、聖像破壊派と聖像肯定派の熾烈な戦いが続いた。

しかし9世紀半ば、聖像肯定派を決定的勝利に導いたのは、皇妃テオドラであり、また一般信徒のうちでは特に婦人たちが聖像肯定派であったという。女性はイメージに弱いのだ。これは我が国の仏教美術を考える際にも、あるヒントを与えてくれるように思われる。

2017年10月25日水曜日

サントリー美術館「狩野元信」3


 もちろん日蓮も、彫像を否定したわけではなかった。それどころか、生涯にわたって釈迦立像を持念仏としていた。『大聖人御葬送日記』により確認されるとのことである。平頼綱が松葉ヶ谷の庵室に日蓮を襲ったとき、持仏堂に安置してあった本尊の釈尊を家来に踏ませ、糞泥のなかに投げ込ませたが、これこそまさに日蓮の持念仏だったのであろう。伊豆に流されたときに、日蓮はこれを感得したものとも伝えられる。

檀越のために釈迦立像を開眼供養したことも一再ならずあったらしい。もっとも、大曼荼羅の授与とは比較にならないほど少ないそうだが、ともかくも開眼供養の事実は、「遺文」が明らかにしてくれるところである。

そもそも法華経に、「若し人 仏のための故に 諸々の形像を建立し 刻彫して衆相を成せば 皆已に仏道を成じたり。……或いは膠漆の布を以って 厳飾して仏像を作れる かくの如き諸々の人等は 皆 已に仏道を成じたり」とあるのだから、日蓮が彫像自体を認めないはずはない。

2017年10月24日火曜日

サントリー美術館「狩野元信」2


 篤いキリスト教信仰者であった内村鑑三さえ、独創性と独立心を愛して止まなかった日蓮――その日蓮が編み出した法華宗、今の呼び方で言えば日蓮宗は、偶像や聖像に対して冷淡であった。日蓮は礼拝すべき最も重要な対象として、「南無妙法蓮華経」という七文字を中心とする文字曼荼羅本尊と、それのみの題目本尊を創出したのである。

文永8年(1271)から弘安5年(1282)にわたって書かれた120余幅が伝えられているそうだが、それらを代表する神奈川・妙本寺本を見てみよう。単に個性的な文字などというものではない。ほとばしり出る日蓮の宗教的情熱と高揚が、横3尺を超える大幅を突き破ろうとする。

日蓮は辛苦惨憺の末にみずから確立した法華経世界を表現し、礼拝の対象とするために、画像ではなく、文字だけの本尊を選択したのである。もちろんそれは眼に心地よいポリクロームではなく、凛としたモノクロームの本尊であった。しかも本尊として一般的な三次元の彫像ではなく、二次元の掛幅であった。日蓮が独自に感得した法華経のシャングリラは、文字曼荼羅や題目本尊によって最も的確に視覚化されたのである。

2017年10月23日月曜日

サントリー美術館「狩野元信」1


サントリー美術館「六本木開館10周年記念展 天下を治めた絵師 狩野元信」<115日まで>

 日本絵画史上、狩野元信が果たした功績は筆舌につくし難きものがあります。しかし、一般的知名度となるとどうでしょうか。伊藤若冲はもとより、最近「饒舌館長」で取り上げた長沢芦雪や英一蝶にも、遠く及ばないでしょう。サントリー美術館企画会議で最初にこのプランを聞いたとき、僕は「狩野元信なんて、だれも知らないじゃないか。これは苦労するぞ。河野元昭の方がまだ知られている!!」と叫んじゃったのでした。

ところが先日行ってみると、予想以上に賑わっており、しかも皆さんとても熱心に見入っています。最近も海北友松展で大はずれをやらかしましたが、今回はとくに見立て違いをうれしく感じたことでした。天下を治めた絵師としての元信については、担当キューレーターの池田芙美さんが編集したみごとなカタログにすべてをゆだねて、基底としての「日本中近世絵画と日蓮宗」といった観点から私見をアップしたいと思います。

実は2年前、『中外日報』という宗教新聞の102日号に書いたところなのですが、このときは字数が決まっていたので、今回はこれを大幅に改訂増補して、独断と偏見をお目にかけたいのです。ただし『中外日報』をすでにお読みになった方は、もちろん飛ばしていただいてけっこうです。


2017年10月22日日曜日

美郷カレッジ「美は育み癒し健やかにする」4


つぎの美郷町郷土資料館では、このあたりで出土した縄文土器や、みごとな遮光器土偶――現物は東京国立博物館に寄託しているそうでパネルだけでしたが、それらを拝見しているうちに、かつて『秋田美術』に寄稿した冷や汗ものの秋田縄文論を思い出したことでした。

「名水百選」にも選ばれた美郷町にはかつて40軒以上の造り酒屋があったそうですが、いまやわずかに2軒となってしまっているそうです。この2軒が醸した「奥清水 美郷雪華」と「春霞」を、大原さんご夫妻とともにご馳走になりましたが、前者が芍薬なら後者は牡丹、いずれおとらぬ名醸ぶりでした。

芍薬・牡丹に引っ掛けて、「名嬢ぶり」と書きたい誘惑に駆られますが、「来るものは拒まず去るものは追う」とばかりに痛飲、最後は芍薬と牡丹の区別もつかなくなってしまったことでした(!?)

2017年10月21日土曜日

美郷カレッジ「美は育み癒し健やかにする」3


大原美術館の歴史とコレクションの理念、子供教育やアーティスト・イン・レジデンスなど新しいプロジェクトのコンセプトから始まった大原さんのお話は格調高く、きわめて示唆的なものでした。僕も見習ってやろうとしたのですが、やはり地は隠せません。

静嘉堂文庫美術館のことを話しているうちに、いつもの館長おしゃべりトークになり、ついに例の「この俺に温ったかいのは便座だけ」まで飛び出しちゃいました。しかし、最後の盛大な拍手を聞きながら、やはりこれでよかったのだと、みずからうなずいたのでした。

終了後、僕が大好きな大正ロマンの画家・橘小夢[たちばな さゆめ]ゆかりの諏訪神社にお参りしました。小夢は6歳から10歳にかけ、お姉さんが養女となっていた諏訪神社に預けられました。この体験が、その後の小夢芸術に決定的影響を与えるところとなりました。やがて「日本のビアズリー」とたたえられ、妖しくエレガントな浪漫的感傷性をもって、一世を風靡することになったのです。

みずから立ち上げた夜華異相画房から最初に売り出し、発禁となった新版画「水魔」こそ、その代表作だといってよいでしょう。葛飾北斎からイメージを借りながら、小夢独自のロマンティズムを生み出しています。僕にとっては、東大時代、弥生門の前にある弥生美術館で触れて以来、心の片隅でちょっとセクシーな微光を発し続けている画家なんです。

去年、古巣の秋田県立近代美術館で開催された特別展「橘小夢とその時代――幻の画家、ふるさとに咲く」は、見る機会を逸してしまいましたが……。これを担当したキューレーターの奈良香さんが、鹿島美術財団から研究助成を受けて、小夢研究を進めています。こんなうれしいことはありません。もっと多くの人に、小夢の素晴らしさが分かってもらえる日の来ることを祈って、諏訪神社をあとにしました。

*本日、夜10時からテレビ東京「美の巨人たち」で、「奇跡の国宝”曜変天目”七色の彩 茶碗に映る宇宙の謎」が放映されます。宇宙の謎だけじゃなく、僕も映ります。もしカットされていなければ(!?)

2017年10月20日金曜日

美郷カレッジ「美は育み癒し健やかにする」2



 会場は美郷町宿泊交流館「ワクアス」、いよいよ2時から開始です。司会役というか、聞き出し役というか、ともかくも僕が口火を切ることになったので、持論をちょっとしゃべることにしました。

人間が理想とすべき妥当普遍なる価値に、真善美があります。つまり認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美です。分かりやすくいえば、人間は真を探求し、善を遂行し、美を創造すべきなのです。人間が創造した美のいただきに位置するのが美術にほかなりません。

先史古代にあって、美術は神や仏に捧げられました。つまり、美術は神や仏のための創造であり、美術を享受し楽しんだのは神仏だったのです。やがて享受者は王侯貴族となり、大名武士へ拡大し、ついに庶民市民へ拡散していきました。

現代において、美術を享受し楽しむ中心は庶民市民ですが、その目的のために考え出されたのが美術館だといってよいでしょう。美術館は美術を収集し、保管し、展示するセンターですが、対象はあくまで庶民市民なのです。このような観点に立ちながら、美術館のディレクターである大原さんと僕が、実際の体験と理想像を飾ることなくお話したいと思いますと言って、イントロダクションを終えました。

2017年10月19日木曜日

美郷カレッジ「美は育み癒し健やかにする」1


美郷カレッジ「美は育み癒し健やかにする」(1014日)

 美郷町は秋田・大曲に近い小さな町ですが、昔からIQが高い町として知られてきたと聞いたことがあります。我らが高階秀爾さんの出身地であるこの美郷町では、「秋田の元気を美郷から」と題して「美郷カレッジ」が開かれてきました。ご多聞にもれず、美郷町も少子高齢化が進んでいるとのことですが、その中にあって、このようなプロジェクトを積極的に推進するチャレンジ精神は、何とすばらしいことでしょうか。

その目的は、「美郷町民および美郷町のファンが、創造的で充実した人生を送り、地域づくりや地域文化の創造に主体的に参加するための学習機会を提供し、町民憲章に定める『自然を愛し、心豊かに健やかに、未来にひらく美しいまちをともにつくる』ことにある」と書かれています。

このような高邁なる趣旨に、秋田県出身とはいえ、この僕が役に立つものかどうか、ちょっと自信はありませんでしたが、高階さんからオファーがかかったのですから、いやとは言えません。しかも、親しくさせていただいている大原美術館名誉館長・大原謙一郎さんとの対談でやってほしいとのこと、これなら気が楽だと快諾してしまいました。

2017年10月18日水曜日

東京国立博物館「運慶展」8




不動明王はヒンドゥ教の神が仏教に取り入れられ、如来の使者となったものです。つまりインドに起こり、中国で展開した仏様ですが、きわめて盛んに造像作画が行なわれ、不動信仰が高まり広まったのは我が国においてでした。

その理由は、不動明王がもともと子供だったことにあるというのが私見です。善無畏訳『大日経』には、「不動如来使者は慧刀・羂索を持ち、長髪左肩に垂れ、一目にしてあきらかに見、威怒身で猛炎あり、磐石上に安住している。額に水波の相があり充満した童子形である」とあります。実際には壮年の形に作られますが、童子形であったという記憶は、8人の子供という珍しい眷属のなかに生きているのです。

エドワード・モースをはじめ、近世以降わが国に来た西洋人は、子供が大切に育てられていることに驚きの声をあげています。その根底には、子供を純粋無垢なるものと考える日本人の伝統的感覚があったのです。

静嘉堂文庫美術館所蔵の浄瑠璃寺旧蔵十二神将立像7体も出ています。しかも、東京国立博物館所蔵の5体と一緒に、つまり12体そろった完全な形で……。最近、ふたたび注目されているこの優品については、そのうち稿を改めて、いや、ブログを改めて……。 

2017年10月17日火曜日

東京国立博物館「運慶展」7


「僕の一点」がちょっと変化球のようになってしまったので、旧ブログ「おしゃべり館長2014」にアップした、<サントリー美術館「高野山の名宝 高野山開創1200年記念」>を再録して、お許しいただくことにしましょう。この運慶展にも出陳されている「八大童子立像」を、「僕の一点」に取り上げているからです。

唐で密教を学んで帰国した弘法大師空海は、弘仁7年(816)勅許を得て高野山を開きました。やがて高野山は仏教美術で満たされることになりますが、これは曼荼羅に代表されるごとく、密教においてもイメージが重視されたからでしょう。これを記念して60件もの名品が六本木に集いました。

「僕の一点」は「不動明王坐像」+「八大童子像」です。前者は藤原時代の作ですが、これに合わせて運慶が眷属である後者を造ったのではないでしょうか。いずれにせよ、両者が相まって不動世界を形成しているのです。

2017年10月16日月曜日

東京国立博物館「運慶展」6



僕もそうだと思いますが、そもそも春日明神をはじめ神のつかいとする思想の原点は、かの国宝「袈裟襷文銅鐸」(神戸市立博物館蔵)などに陽刻された鹿、多くの弥生土器に描かれた鹿に求められるように思います。

弥生人が鹿を好んで造形化した理由として、よく引用されるのは、『播磨国風土記』讃容郡の一節です。それは、生ける鹿を捕り臥せ、その腹を割き、その血に種モミを蒔いたところ、一夜にして苗が生えたので、それを取って植えたという、種籾賦活伝説です。

このように鹿と弥生文化の象徴である稲作とが結びついた背景として、牡鹿の角が繰り返す袋角→落角という周期性と、稲作の周期性が呼応するからだという興味深い見解も発表されています。

奈良県立橿原考古学研究所の橋本裕行さんは、鹿が単なる稲作の神や地霊などでなく、それらを包括し、生と死、創造と復活とを司る、より高次な観念によって神格化されたものだと指摘しています。明恵上人がこのようなことまで考えていたかどうかは分かりませんが、『播磨国風土記』などを知っていたことは疑いないでしょう。

2017年10月15日日曜日

東京国立博物館「運慶展」5


頭頂に角を挿した痕跡が残る牡鹿は、耳を立てて口をつぐみ、一点を凝視するかのようだ。一方、腹部に乳房が表わされる牝鹿は、前足を伸ばして坐り、口を開いて鳴くような姿で表現され、巧妙に対比が意識されている。いずれも茶褐色に彩色され、目に水晶を嵌める玉眼の効果も相まって、生きた鹿のつがいがそこにいるかのようである。

通常の宗教彫刻では選ばれることの少ないモチーフですが、西木さんは明恵上人との関係に注目しています。春日信仰で知られる明恵は、東大寺の門前において、鹿を通じ春日明神から宣託を受けたことがありました。

また、目の前で30頭におよぶ鹿が膝を屈するのを見て、自分を引き止めるためだと思い、念願であったインドへの渡航を断念したそうです。一般的な仏教彫刻とは異なり、経典や伝統といった規定が存在しない動物彫刻の制作背景に、明恵独自の信仰があったにちがいないと、西木さんは考えています。

2017年10月14日土曜日

東京国立博物館「運慶展」4



「僕の一点」は高山寺所蔵の「神鹿」です。もっとも運慶の作品ではなく、運慶の長男に生まれ、明恵上人ゆかりの高山寺とも関係の深かった湛慶の作と考えられています。

鎌倉時代は美術に写実主義を志向した時代であって、その社会的背景として、この時代が実力でのし上がってきた現実主義的な武士の時代であったことが挙げられます。これを僕は「鎌倉リアリズム」と呼んでいます。

リアリズムといっても、かのギュスターブ・クールベが唱えたリアリズムとは別物ですが、鎌倉美術が現実主義的であったことは否定できません。そのような意味で、鎌倉リアリズムと名づけることは間違いじゃないと思います。

もちろん、運慶こそ鎌倉リアリズムの象徴的存在ですが、湛慶の「神鹿」は、それを分かりやすい形で教えてくれる傑作です。それがいかに写実的か、実際の作品を見ていただければ一目瞭然です。もっとも僕が説明すれば、鎌倉リアリズム論に立ってながめるから、そうなっちゃうんだと言われそうですから、ハードカバーのすぐれたカタログから、東京国立博物館・西木政統さんの解説を引用することにしましょう。

 

2017年10月13日金曜日

東京国立博物館「運慶展」3




運慶は生涯にたくさんの仏像を造ったと推定されますが、運慶作もしくはその可能性が高い現存の仏像は31体であるというのが、研究者の間の定説であるといってよいでしょう。日本各地で深い信仰を集めながら、守られてきたこれら運慶仏ののうち、この特別展には実に22体が馳せ参じてくれました。

チラシには、「天才仏師の傑作、結集」と大きく書かれています。空前にして絶後となるにちがいない運慶展です!! これを見ずして、日本彫刻史を語ることは絶対できなくなるでしょう。

これまたチラシには、「展示される約70体の作品のほとんどが国宝および重要文化財という特別な空間で、普段お寺では見られない角度からも仏像をたっぷりとご堪能いただけます。史上最大の運慶展、どうぞお見逃しなく」とありますが、嘘じゃありません。
 

参加するタレントさんもハンパじゃありません。いまや展覧会に必須の音声ガイドは小野大輔、ファンクラブサイト「運慶学園」には、みうらじゅん、和田彩花、パックンことパトリック・ハーラン、エグスプロージョン、篠原ともえの5人も名を連ねているんです!!
 

謹啓 朝日新聞社殿

貴運慶展は社運を賭け被遊遂行候様の観あり、勿論衷心ゟ其の成功大捷を祈念致居り候。乍去、慈愛憐憫の御心ニて、是非々々吾が國華も不被遊忘却様、平身低頭恐懼して誠意懇請する次第ニ御座候。御心は常々腑に落る処ニ御座候得共、今斯に敢て千嘱萬託の情を開陳する非礼、宜敷御寛恕の程奉願候。恐惶謹言(!?)
 



2017年10月12日木曜日

東京国立博物館「運慶展」2


しかし一般的には、今春、奈良国立博物館で特別展が開催され、「饒舌館長」でも取り上げた快慶の方が人気を集め、安阿弥様と呼ばれて広く流布したのです。運慶様式に比べると、快慶様式の方がやさしく、優美で、視覚的に美しかったからです。とてもおもしろい現象だと思います。

もちろん、鎌倉新様式としてくくられる快慶様式にも、力強い有機的構成の美しさは秘められているのですが、運慶様式に比べると、定朝様式に舞い戻ったような感じがするのです。つまり、運慶と快慶だけの比較でいうと、運慶は益荒男ぶりであり、快慶は手弱女ぶりであったということになります。

基本的に日本文化は手弱女ぶりの文化だというのが、僕の個人的見解ですが、手弱女ぶりの快慶の方が、益荒男ぶりの運慶より広く愛好されたという事実もその傍証になるはずです。2008年開催の『國華』120年記念特別展「対決 巨匠たちの日本美術」は、「運慶VS快慶」からスタートしましたが、両方のファンでディベートをやったら、どんなにおもしろいことでしょうか。

 

2017年10月11日水曜日

東京国立博物館「運慶展」1


東京国立博物館「興福寺中金堂再建記念特別展 運慶」(925日)

 運慶――日本が生んだもっとも偉大な彫刻家ですね。彫刻家にはまちがいありませんが、ちょっと違和感が残ります。僕的には、もっとも偉大な仏師、あるいは大工房の棟梁といった方がしっくりきますが、現代ではやはり彫刻家と呼ぶのがベストでしょうか。

 奈良仏師の系統を引く康慶の子に生まれ、平安時代末期から鎌倉前期にかけて活躍した彫刻家として、必ず教科書に出てきますから、日本人でその名を聞いたことがない人はいないでしょう。かの定朝が完成したエレガントな藤原彫刻の対極に位置する、エネルギーに満ちあふれた鎌倉新様式を生み出した彫刻家です。

つまり、定朝様式が手弱女ぶりであったとすれば、運慶様式は益荒男ぶりであったことになります。力強い立体感とみごとな写実性、高い精神性を兼ね備えたとたたえたれるのが運慶です。運慶およびその一派がいかに偉大であったか、いや、偉大でありすぎたか、岡倉天心の『日本美術史』の一節を引用しておきましょう。

此の時代(鎌倉時代)の彫刻は、其の初期に当たりて運慶の一派より巨手輩出して一時の盛をなしたれども、絵画に比ぶれば漸を以て衰頽し、見るべき作品また少なしとす。

2017年10月10日火曜日

小澤優子文化交流サロン7


   日本の生活曲線は、アメリカの生活曲線のちょうど逆になっている。それは大きな底の浅いU字型曲線であって、赤ん坊と老人とに最大の自由と我儘とが許されている。幼児期を過ぎるとともに徐々に拘束が増してゆき、ちょうど結婚前後の時期に、自分のしたい放題のことをなしうる自由は最低線に達する。この最低線は壮年期を通じて何十年もの間継続するが、曲線はその後再び上昇してゆき、六十歳を過ぎると、人は幼児とほとんど同じように、恥や外聞に煩わされないようになる。アメリカではわれわれはこの曲線を、あべこべにしている。幼児には厳しいしつけが加えられるが、このしつけは子供が体力を増すに従って次第にゆるめられてゆき、いよいよ自活するに足る仕事を得、世帯をもって、立派に自力で生活を営む年ごろに達すると、ほとんど全く他人の掣肘を受けないようになる。われわれの場合には、壮年期が自由と自発性の頂点になっている。年をとってもうろくしたり、元気が衰えたり、他人の厄介者になったりするとともに、再び拘束が姿を現わし始める。
                         ルース・ベネディクト『菊と刀』

2017年10月9日月曜日

小澤優子文化交流サロン6


   この子は五、六歳になると、土で仏像を造ったり、草や木で仏堂に似たものを建てたりしていたが、ある時、八葉の蓮華の中に多くの仏がおいでになり、自分と語り合われた、という夢を見た。だが、この夢を父母に話さない。まして他の者には話すわけもなかった。
                                                            『今昔物語集』11-9

   するとその時、諸宗の多くの学者たちが、この宗の即身成仏の教義に疑問をもち論難する。そこで大師は、その疑問を断とうがために、清涼殿において南に向かい、大日如来の入定の印を結び深く念じ入ると、顔の色が黄金のようになり、身体から黄金の光を放った。すべての人はこれを見て頭をたれて礼拝した。
                                                            『今昔物語集』11-9

   いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致することがある。それは日本が子供達の天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少なく、気持ちのよい経験の、より多くの変化を持っている。赤ん坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人なりの背に乗っている。刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、五月蝿く愚図愚図いわれることもない。日本の子供が受ける恩恵と特典から考えると、彼等は如何にも甘やかされて増長してしまいそうであるが、而も世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること日本の子供に如くものはない。
                     エドワード・モース『日本その日その日』

 

2017年10月8日日曜日

小澤優子文化交流サロン5




そして何よりも、幕末明治のころ、日本へやってきた西欧人が、ひとしなみに我が国が「子供の天国」であると感嘆したという事実を指摘する方が手っ取り早いでしょう。渡辺京二氏が名著『逝きし世の面影』に「子供の天国」という一章を設けて実証したような、日本人の子供に対するやさしい態度であり、幼児を見るあたたかいまなざしです。

僕は「稚児大師像」に直接関係する『今昔物語』の一節をまず引用しました。本来であれば、大師晩年の『御遺告』[ごゆいごう]を掲げるべきかもしれませんが、大師信仰という観点からは、むしろ『今昔物語』の方がふさわしいでしょう。というよりも、『御遺告』は手元になく、『今昔物語』は「日本古典文学全集」本が書架にあったからです。

つぎに、西欧人が見た日本人の幼児観を示す文章を2つばかり引用して配布資料を作りました。それをそのまま以下に掲げておきたいと思います。「饒舌館長」にアップした「奈良国立博物館『快慶 日本人を魅了した仏のかたち』」から、地蔵菩薩に関する私見も引用しましたが、これは「饒舌館長」で見ていただくことにしましょう。

美味しいフランス料理とワインをご馳走になったあと、このような日本人の子供純真観、幼児聖性観に加えて、密教の現実をそなまま肯定する即身成仏思想と、岡倉天心の日本美術仏教哲理論に言及しながら、このおしゃべりトークを楽しく終えたのでした。

 
 

2017年10月7日土曜日

小澤優子文化交流サロン4


しかし少なくとも仏教美術において、誕生仏以外に、釈迦幼児時代の姿を独立して造形化する伝統があったかどうか、専門家に訊いてみたいと思っています。あるいは、「過去現在絵因果経」の中のワンシーンを、独立させたような絵画作品がたくさんあるのかもしれませんから、聖なる幼児独立像である稚児大師像が日本独特のイメージであると断言することは憚られます。

しかしそこに、子供純真観や幼児聖性観があった事実は、否定できないように思われます。すぐれた幼児独立像が作られた聖徳太子と弘法大師が、ともに日本の宗教者であることを、僕はとても興味深く感じるのです。

それは『万葉集』に採られる山上憶良の有名な一首「銀も金も玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも」に象徴されています。あるいは『梁塵秘抄』の「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さえこそ動がるれ」を思い起こせば充分でしょう。

2017年10月6日金曜日

小澤優子文化交流サロン3


我が国では、弘法大師の5、6歳像である稚児大師像や、聖徳太子の2歳像である南無仏太子像、16歳像である孝養像など、すぐれた宗教者の幼児や童子の姿が好んで造形化されてきました。聖徳太子には12歳像もあったと思います。その根底には、子供純真観、幼児聖性観があったというのが私見です。

もちろん、幼児に聖性を見出すのは、日本に限りません。例えば西欧のキリスト教美術では、キリストの幼年時代が重要なモチーフとなっています。キリスト誕生以前の受胎告知から、降誕を経て、キリストの洗礼以前までの諸場面です。

また広く仏教美術においても、麻耶夫人の右腋の下から生まれると、7歩進んで、「天上天下唯我独尊」と宣言した釈迦の姿は、誕生仏として造形化されてきました。これらの背景に、幼児聖性観があったことは、疑いを容れません。稚児大師像も誕生仏とまったく無関係ではないでしょう。

2017年10月5日木曜日

小澤優子文化交流サロン2


半世紀の間、親しくさせてもらってきた朋友・帰空庵さんは、優子さんと成城大学の上原和研究室でともに学んだ同窓生とのこと、古美術の世界で帰空庵さんを知らない人はモグリです。今年の春先、お二人で静嘉堂文庫美術館をお訪ねくださり、帰空庵さんから優子さんを紹介されました。
 そのとき頂戴した『いとおしい植物たち』(文化交流サロンの家 2012)は、優子さんの文章とイラストに、名シェフ・柘植末利さんの手になる逸品の写真が添えられた、眼と脳と舌を活性化させてくれるご本でした。

河口湖にある文化交流サロンの家で、帰空庵さんご所蔵の「稚児大師像」を前に、話をしてほしいとお二人から頼まれたのです。この「稚児大師像」は、かつて『國華』1325号に関口正之さんが紹介した鎌倉仏画の名品です。香雪美術館所蔵の別バージョンは重要文化財に指定されていますが、そのクオリティは甲乙つけがたいでしょう。

近世絵画専門の僕にとって、ちょっと手ごわい相手ですが、ぜひ僕にやってほしいというたっての希望です。悪い気がするはずもなく、おしゃべりトークでよければ……と引き受けてしまいました。引き受けた瞬間に、もうトークのポイントは決まっていました。それは日本における子供純真観、あるいは幼児聖性観です。

2017年10月4日水曜日

小澤優子文化交流サロン1


小澤優子文化交流サロン「『稚児大師像』にこめられた日本人の感性をひもとく」924日)

 この「文化交流サロン」は、小澤栄太郎夫人の小澤優子さんが主宰する、とてもおしゃれなサロンです。サロンというのは、上流婦人が客間で催す、あまり大きくない社交的な集まりだといってよいでしょう。

言うまでもなく、小澤栄太郎さんは戦前から亡くなる1988年まで、舞台に映画にテレビにと活躍を続けたスターですね。いや、演技派性格俳優といった方が正しいでしょう。僕的に言えば、もっとも強く印象に残っているのはテレビドラマ「白い巨塔」ですね。

ご夫妻は晩年逗子にお住まいでしたから、僕も何回か、ご一緒のところをお見かけしたことがあります。小澤優子さんは長く国際文化交流につくされ、そのための企画やプロデュースに手腕を発揮してきました。とくにこの文化交流サロンは30年にわたって続けられ、ロシアのプーチン大統領からは、「サンクトペテルブルグ建都300年記念メダル」が贈られたそうです。

2017年10月3日火曜日

東京国立博物館「フランス人間国宝展」5


これらを撮影していたフランスのテレビ局の方からは、中国の陶磁が何で日本の国宝に指定されるのか?という、至極マットウなる質問が出ました。僕はつぎのように答えました。

それはとても古い時代に日本へもたらされたものであり、大切に伝えられてきました。しかもそれは、日本人の審美眼と美意識によって選ばれ、高い評価を与えられてきたものであって、たまたま入ってきて、そのまま偶然残ったというようなシロモノではありません。したがって、誕生地は中国であっても、日本で育った日本の美術なのです。「生みの親より育ての親」ということわざが日本にありますが、まさにそれだといってよいでしょう。

こんな風に一応は答えたのですが、この問題は機会を改めて「饒舌館長」にアップしたいと思います。

 最後にジレルさんと奥様から、すばらしいジレル天目をプレゼントされました。見込みで微妙な光を発する曜変は、近くに生える栗の葉を焼いた灰で作り出したものだそうです。

ちょっと小振りなフォルムに、フランスのエスプリを感じさせるそのジレル天目は、いま館長室の立派な丸テーブル――きっと岩崎小弥太が愛用していたにちがいない丸テーブルの上に、一つだけチョコンと乗っかっています。その小さな曜変の斑紋は、あたかもジレルさんの涙のようです。

 



2017年10月2日月曜日

東京国立博物館「フランス人間国宝展」4


じっと見ていたジレルさんの目から、突然涙があふれ始めました。やがて顔をくしゃくしゃにしながら、「40年間夢に見てきた曜変天目に今こうして……」とつぶやくようにおっしゃり、奥様の差し出したハンケチで何度も何度も涙を拭われました。周りにいた人たちはみんな、ジーンと来てしまいました。もちろん僕も……。

それは単なる特別観覧などというものではありませんでした。ジレルさんが空から舞い降りてくる女神と邂逅し、啓示を得るというおごそかな瞬間でした。その瞬間に立ち会うという僥倖に、僕たちは恵まれたのです。そのあと、ジレルさんのお話を聞きました。

ジレルさんは自邸の庭の土と近くで入手できる木や草だけを使って、ジレル天目を焼成しているそうで、中国まで出かけて材料を求めようとは思わないとのことでした。何と素晴らしいことでしょう。やはりジレルさんはあくまでフランスのアーティストであって、曜変天目復元家じゃないんです。

またジレルさんは、曜変天目を意図的に作り出したものである、つまり単なる窯変ではないとお考えのようでした。僕のいう「日本限定現象」とも関係する興味深い点なので、もう少し詳しくお聞きしたいと思いましたが、その時間はありませんでした。

2017年10月1日日曜日

東京国立博物館「フランス人間国宝展」3


ジレルさんはみずから道具や窯を考案して執拗に実験を繰り返し、完璧を求めて止むことがありません。そして常に革新的精神を忘れることなく、驚嘆すべき作品を生み出してきました。その根底にあるのは、西洋の技術と東洋の伝統のハイブリッドだと言ってよいでしょう。

 ジレルさんは40年以上にわたり、曜変天目から与えられた深い感動をもとにみずからの茶碗を焼成してきました。その集大成として101個の茶碗を、この特別展に出陳しています。東京国立博物館・表慶館の入り口を抜ければ、すぐ左の大きな一室がジレル・ルームです。真っ白な布の上に並べられ、スポットライトを浴びたジレル天目は、壮観の一語に尽きます。

 913日、ジレルさんは奥様と一緒に、東京国立博物館副館長・井上さん同道のもと、静嘉堂文庫美術館をお訪ねくださいました。ご希望の作品は改めて言うまでもありません。わが「曜変天目」が箱から出され、机の上に置かれました。

岩波ホール「山の郵便配達」2

  名古屋大学につとめていたころ、名古屋シネマテークで勅使河原宏の「アントニオ・ガウディ」がかかり、見に行こうと思っているうちに終っちゃったことがありました。そのころ映画への関心が薄れ、チョット忙しかったこともあるのかな?  そんな思い出はともかく、名古屋シネマテークが閉館に...