2018年2月28日水曜日

渡辺京二『逝きし世の面影』1


渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー 2005年)

先に渡辺京二さんの『逝きし世の面影』から「ネコ」の箇所を引きましたが、この名著を改めて紹介したいと思います。1930年生まれの日本近代史家・渡辺京二さんが、近代以降の日本が失ってしまったもの――つまり幕末明治までは確かに存在していた我が国の美しさや素晴らしさを掘り起こし、その意味と背景を虚心坦懐に、一切の先入観なく考察した大著です。

その際、渡辺さんがとった方法は、幕末明治にころ我が国へやってきた異邦人による膨大な著作を渉猟し、それを素直に読み込むことでした。このような方法論の根底について、渡辺さんは次のように述べています。

滅んだ古い日本文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らねばならない。なぜなら、私たちの祖先があまりにも当然のこととして記述しなかったこと、いや記述以前に自覚すらしなかった自国の文明の特質が、文化人類学の定石通り、異邦人によって記録されているからである。文化人類学はある文化に特有なコードは、その文化に属する人間によっては意識されにくく、従って記録されにくいことを教えている。


2018年2月27日火曜日

横浜美術館「石内都展」と山口百恵7


それとともに、山口百恵が恐怖を覚えた理由が分かるような気がしました。「自分の意識の中での私自身は、あの街にいる。あの坂道を駆け、海を見つめ、あの街角を歩いている。私の原点は、あの街――横須賀」と絶唱する山口百恵にとって、絶対見たくはなかったはずの横須賀が、そこに繰り広げられているからです。

しかし、もし山口百恵が写真集ではなく、このヴィンテージプリントを見たとしたら、表層を超えた写真としてのエネルギーに、ちょっと、あるいはまったく異なる感慨をもったかもしれません。少なくとも、現在、幸せな家庭生活を営む山口百恵なら、40年もまえ石内都によって写し撮られた横須賀に、もう哀しみも怖れも感じることはないでしょう。

山口百恵様、ぜひ34日までに、横浜美術館をお訪ねくださいませ!!

「石内都 肌理と写真」から選ぶ「僕の一点」は、「Apartment」№004のパジャマを着て布団の上に横座りする男のポートレートです。なぜかって? 男のうしろの壁に、篠山紀信が撮影した山口百恵の大きなピンナップが、無造作に画鋲で止めてあるからです(!?) 

2018年2月26日月曜日

横浜美術館「石内都展」と山口百恵6


とはいっても、僕には初期の「横浜」がもっとも好ましく感じられました。たとえば「金沢八景」は、遅すぎた青春の思い出というわけじゃないけれども、何かとても懐かしい感じが僕を惹きつけるのです。「Apartment」も「yokohama互楽荘」も「連夜の街」も、実際は住んだことはない空間なのに、こういう風景が僕らの世代にとって、決して別世界のストーリーではないのです。

同時に逢坂さんは、美術館のコレクション・ギャラリーで、収蔵作品の「絶唱、横須賀ストーリー」55点を展示して、重層的構成に高めています。もちろん、ヴィンテージプリントです。今まで写真集なんか見ないでよかった! 小さい画面なのに、圧倒的迫力で迫ってきます。

いっぺんに石内都という写真家が好きになりました。いや、尊敬の念が湧いてきました。美は人間の好悪を180度転換させてしまうこともあるんだと思いました。そこでは、醜を超越した美が存在を主張していました。山口百恵をあんなに哀しませたことも、許せるような気持ちになりました。

2018年2月25日日曜日

横浜美術館「石内都展」と山口百恵5


しかし関心の的はもっぱら木村伊兵衛でしたので、またもやこの写真集を手にとることなく、そのうち忘れるともなく忘れてしまいました。そして結局、木村伊兵衛展もいろいろな理由で、ポシャッてしましました。

この「石内都 肌理[きめ]と写真」は、館長である逢坂恵理子さんが、みずからチーフ・キューレーターとなって企画した特別展のようです。すごいなぁ! うらやましいなぁ!! いつか僕も静嘉堂文庫でこういう風にやってみたいなぁ!!! 

逢坂さんは「肌理」というテーマのもと、従来とは異なる視点で構成することを試み、「横浜」「絹」「無垢」「遺されたもの」という4章仕立てにまとめています。これよって、40年間のバラバラに見える石内都の仕事が、一つのパースペクティブのうちにきっちり収まり、会場をあとにする鑑賞者を、自分もその延長線上にいるんだという感覚で満たしてくれるのです。「肌理」は逢坂さんが見出した見事な補助線です。

このおススメ特別展を、テルモ生命科学芸術財団がサポートしていることも、ぜひ書き添えておきたいと思います。この公益財団法人が、本来専門とする医療分野だけでなく、芸術にも支援を惜しまないというのは、何と素晴らしいことでしょうか。両者の融合が、現代ほど強く求められる時代はありません。


2018年2月24日土曜日

横浜美術館「石内都展」と山口百恵4


そのころは写真に結構興味をもつようになっていましたし、興味なんかなくたって、かの傑作「秋田おばこ」は早くから網膜に焼き付いていました。それを今は亡き天羽直之さんに話すと、親切にも木村伊兵衛の写真集を、朝日新聞社の図書室から「国華」編集室へ借りだして来てくれました。天羽さんも木村伊兵衛が大好きでした。というよりも、「秋田おばこ」が大好きだったんです。

早速ページを繰ると、もうこれは秋田県立近代美術館でやらなければならないという使命感に駆られました。そこで木村伊兵衛のことを少し調べてみると、逝去翌年の昭和50年(1975)、その業績を記念して木村伊兵衛写真賞が設定されたのですが、その受章者のなかに石内都がいたのです。昭和54年、石内都は第4回木村伊兵衛賞を受賞していました。

対象作品は、前年に発表した『APARTMENT』でしたが、その後の略歴には、『絶唱、横須賀ストーリー』もあげられていたので、アッと気がついたのです。あの山口百恵を哀しませた写真集は、石内都という女性写真家の作品だったのです。

2018年2月23日金曜日

横浜美術館「石内都展」と山口百恵3


そもそも、そのころ僕は写真というものに興味がありませんでした。近現代美術史において、写真がきわめて重要な位置を占めていることを認識するようになったのは、もうちょっとあとのことでした。やがて何かの機会に知った、スーザン・ソンダクの「今日、あらゆるものは写真になるために存在する」という名言――「インスタ映え」を的中させた名言も、まだ僕の言語記憶中枢に収まっていませんでした。

しかも最初は、高橋由一や浅井忠、竹内栖鳳のような近代の画家が、写真を利用して作品をこしらえたという事実に興味をもったのです。つまり、写真そのものではありませんでした。山口百恵を哀しませたことはもとより、この写真集にまったく関心が向かなかったのも、当然だったのです。

『絶唱、横須賀ストーリー』と写真家・石内都の名前が結びついたのは、その発表から4半世紀も経ってからでした。郷里である秋田の県立近代美術館の仕事を正式にやるようになる2年前から、アドバイザーというような立場になりました。そこで、美術館でやってみたい特別展をいろいろと考えることにしたのですが、そのうちの一つに「木村伊兵衛展」がありました。

2018年2月22日木曜日

横浜美術館「石内都展」と山口百恵2


坂道も、草原も、ドブ板横丁も、米軍に入りこまれたことによって仕方なく変らざるを得なかったあの街の、独特の雰囲気が、その写真の中では、陰となって表わされていた。哀しかった。恐怖さえ抱いた。
同じ街が見る側の意識ひとつでこんなにも違う。私の知っている横須賀は、これほどまでにすさまじくはなかった。
今にも血を吐き出しそうな写真にむかって私は呟いた。
この街のこんな表情を知らずに育ってこられたことに、わずかな安心感を抱いていた。

 何という写真集なんだ。僕の山口百恵をこんなにも哀しませるなんて。血を吐きそうになる恐怖のどん底に陥れるなんて。たとえこれを書いたのが残間里江子だとしても……。言うまでもなく僕は、『絶唱、横須賀ストーリー』を見てみたいとも、その写真家の名前を聞きたいとも、それが男なのか女なのかを知りたいとも思いませんでした。

2018年2月21日水曜日

横浜美術館「石内都展」と山口百恵1


横浜美術館「石内都 肌理と写真」<34日まで>と山口百恵

 横浜美術館協力会の講演会で、「饒舌館長『琳派絵と近代日本画』口演す」と題して90分しゃべりました。「饒舌館長琳派絵と 近代日本画口演す」と七五調にしたところがミソです(!?) 

そのあと、はじめて石内都の世界を堪能しました。昭和54年(1979)石内都が発表した、ほとんどデビュー写真集といってもよい『絶唱、横須賀ストーリー』の名前だけは、記憶の底に沈殿していました。いくら憧れても憧れ足りない山口百恵が書いた、あまりに早すぎる自叙伝『蒼い時』に登場するからです。山口百恵はその「序章・横須賀」に、つぎのように描写しています。

ある日、私のもとに、手紙を添えて一冊の写真集が届けられた。
『絶唱、横須賀ストーリー』と題されたその写真は、全て、私の知らない表情をした横須賀だった。
あの街に、これほどのあざとさが潜んでいたのだろうか。これほどの哀れさが匂っていたのだろうか。
恐ろしいまでの暗さ、私があの街で光だと思っていたものまでが、全て反転してしまっていた。

2018年2月20日火曜日

鎌近「堀文子展」8


カタログのために、僕も「描かれた秋田」という拙文を書きました。秋田の画家は、ひとしなみに「望郷の念」を創作エネルギーの源泉にしていたという趣旨に沿って、柴田安子も眺めてみたのですが、恥ずかしながら、ちょっとこれも紹介しておくことにしましょう。

わたしは柴田安子について何も知らない。この特別展「描かれた秋田」が、その遺作に接する最初の機会になるのだが、昭和11年に発表されたほとんどデビュー作に近い作品のタイトルが「めらはど」であった点は、きわめて強い興味を掻き立てる。言うまでもなく、北東北の方言で娘たちの意味である。もちろんこのとき、安子はすでに東京にあって松岡映丘に就き、川端龍子の青龍社に出品したりしていたという。やがて安子は、造形的問題に果敢に挑戦するようになったようだが、その後に発表し、豊四郎が深く打たれたという山上の沼を主題とした作品などは、望郷の念に寄り添うような画趣を示すものだったのではないだろうか。

 この特別展「描かれた秋田」は、サンザンな興行成績に終わりましたが、あとで秋田のポン友から言われちゃったことでした。

「秋田で<秋田>と銘打ったら、人は絶対に来ない!!」  


2018年2月19日月曜日

鎌近「堀文子展」7


 このカタログには、企画キューレーター・山本丈志さんが、素晴らしいオマージュ「五月の空と柴田安子」を寄稿しています。それによると、「柴田安子はその明確な理由を示さないまま自ら自作を焼き、その画業を知る術を後世に残さなかった」のです。死に臨んで、みずからの作品をすべて火の神・祝融に捧げたというのです。

事実、秋田県立近代美術館に所蔵されるスケッチを除けば、先の「堀文子略年譜」にも出てくる「めらはど」が、ほとんど唯一の作品だといってよいでしょう。現在、個人コレクションに収まるただこの一作によって、柴田安子は永遠の画家になったのです。

じっとながめていると目頭が熱くなるのは、安子の夭折を知っているからではありません。もちろん、あまりにも美しい安子のモノクロ・プロフィールが、網膜に焼き付いているからでもありません。それをまったくは否定できないとしても、作品によって揺さぶられる心が、目頭を熱くさせるのです。
柴田安子がもう少し生きてくれたら、必ずや「安子×文子展」が実現したことでしょう。それを見てみたかった!!

2018年2月18日日曜日

鎌近「堀文子展」6


柴田安子 1907年(明治40)―1947年(昭和22

東京都に生まれたと推定される。父は秋田県大仙市の素封家最上広胖。幼名義枝。1919年義枝を安子に改名。1925年麹町千代田高等女学校卒業。在学中、日本画家松岡映丘の画塾に通う。1930年映丘を顧問とする子木社が創立され、同人となる。

1931年東洋史学者柴田宜勝と結婚。1935年第7回青龍社展に「牧帰」を初出品初入選。1936年第4回の春の青龍社展に「めらはど」他を出品し、日本画家福田豊四郎に注目される。豊四郎らの新日本画研究会に参加。

1938年新美術人協会の結成に参加。1939年夫宜勝の朝鮮半島滞留にともない、安子も一時朝鮮に行く。1940年堀文子との交流が始まる。第3回新美術人協会展で「灑衣」[さいい]が研究会員賞を受賞。

1943年朝鮮慶州・楽浪などで写生。決戦美術展に「木材供出」を出品、朝日新聞社賞を受賞。1945年山梨県に疎開。終戦後、帰京。1947年逝去。遺骨は郷里角間川の最上家菩提寺浄蓮寺に埋葬される。

2018年2月17日土曜日

鎌近「堀文子展」5


 堀さんにこんな強い感銘を与えた柴田安子であっても、ほとんどの方がご存じないことでしょう。柴田安子――それは秋田が生んだもっとも魅力的な閨秀画家です。もちろん僕も、心から愛して止まぬところです。

2007年夏から秋にかけて、秋田県立近代美術館では特別展「描かれた秋田 ふるさとは我が胸にあり――福田豊四郎『我がうた』より」が開催されました。ちょうど秋田で国体が開催されたこともあり、秋田のすばらしい絵画を――版画や写真も含めて、改めて振り返ってもらおうと企画したのです。

まず秋田出身のアーティスト10人を選びました。福田豊四郎、紺野五郎、千葉禎佑、櫻庭藤二郎、横山津恵、渡部栄子、佐々木良三、勝平得之、堀川達三郎、そして柴田安子です。これを2部に分けて代表作を展示しました。秋田でしかできない展覧会です。

さて、柴田安子とはどんな画家だったのでしょうか? そのときのカタログから、経歴の部分をそのまま紹介することにしましょう。

 

2018年2月16日金曜日

鎌近「堀文子展」4


 カタログに付された「堀文子 略年譜」をみると、柴田安子の名前が、少なからず眼に入ります。悲しいことに、堀さんの若いころだけですが……。

1936(昭和11)年 18
4月、女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科日本画部に入学。春の青龍社展で最上(柴田)安子《めらはど》《女仲士》に、10月の再興院展で小倉遊亀《浴女》に感銘を受ける。

1939(昭和14)年 21
6月、第2回新美術人協会展に《原始祭》を出品、初入選。柴田安子《叢林》に感銘を受ける。

1940(昭和15)年 22
2月、11歳年上の柴田安子を訪ねる。同年、長野・大門峠の安子の山荘で過ごすなど親交を結ぶ。

1945(昭和20)年 27
春、山梨に疎開した柴田安子の世田谷の留守宅に移居する。

1946(昭和21)年 28
4月、内田巌、本郷新らが結成した日本美術会に福田豊四郎、柴田安子らとともに参加。
7月、柴田安子没。外交官・箕輪三郎と結婚。

2018年2月15日木曜日

出光美術館「色絵」5


日本国 古くは倭奴国といったが、日(太陽)が出る所に近いので、日本と改めた。絵画もあることにはあるが、画家の名前は分からない。その国の風物・山水・小景(小画面のおだやかな風景画)が描かれている。彩色は濃厚で、多く金碧を用いており、その「真」という点からみると不十分で、ただ彩色燦然たるを求め、「観美」を第一としている。しかし他の国や地域に比べれば、人品卑しからず、一応のしきたりもあるのだが、山間僻地ともいうべき礼儀も知らないような未開の土地である。それにもかかわらず、よく絵画というものに興味をもっているのは、なかなか見上げたものである。

中華思想の見本のようで、徽宗周辺の人々は日本のことをこんな風にみていたんだぁと笑ってしまいますが、「観美」とあるのが興味深く感じられます。一部、文意がよくとれないところがあったので、私意にしたがって訳してみましたが、大きくは間違っていないと思います。

 ところで「観美」を『諸橋大漢和辞典』に求めると、「徒らに外面の美だけを務めて、内実が充実しないこと。表面を飾る」とあり、出典として『孟子』があげられています。しかし、本来の意味であったにちがいない「観て美しい」と解釈すれば、日本絵画の特質とされる装飾性を鋭く突いた批評にもなるのではないでしょうか。それはともかく、日本文化は「色好み」の文化なのです(!?)


2018年2月14日水曜日

出光美術館「色絵」4


もっとも、中国画はモノクロームを主体とする絵画であり、日本画はポリクロームを愛用する絵画であると規定して、それとのパラレルな関係にまで筆を進めるならば、それは行きすぎだと思いますが……。

この問題を考えるとき、「五彩菊花文輪花皿」(出光美術館蔵)ほど、興味深い作品はありません。清時代、景徳鎮窯で焼成された皿で、明らかに出光美術館が所蔵する古伊万里の、同じモチーフ同じデザインの皿を写しているんです。このようなやきものは、チャイニーズ・イマリと呼ばれていますが、かの景徳鎮がコピーした日本のやきものは、「色絵」だったのです。もっとも、このころの景徳鎮は、昔日の勢いを失っていたそうですが……。

また、徽宗絵画コレクションの著録『宣和画譜』の巻12にみえる日本絵画に対する次のような批評は、このような日本の色絵を考える際にも、ある示唆を与えてくれるように思われます。

2018年2月13日火曜日

出光美術館「色絵」3


もちろん、まったくなかったわけじゃありません。伊万里にも鍋島にもちゃんと青磁の完器がのこっています。時代が下れば、波佐見でも立派な青磁が焼かれています。僕も戦前に焼かれたと思われる三田青磁の小皿を愛用しています(!?) 柿右衛門や大川内山鍋島藩の窯跡からは、白磁の陶片も出土しています。

陶片だけではありません。静嘉堂文庫美術館の山田正樹さんに聞いたところ、柿右衛門にも伊万里にも白磁の完器はたくさんあるそうです。しかし、これらをもって中国の逸品と対抗させるのには無理があることを、誰しも認めざるをえないでしょう。

ところが、この特別展に出陳されているような傑出せる色絵なら、充分中国の白磁や青磁、青白磁、また青花にチャレンジすることができるのではないでしょうか。あるいは、凌駕することも不可能ではないでしょう。こんなところから、僕は「色絵」こそ日本を象徴するやきものだと主張したい気分になったのです。割り切っていえば、中国のやきものは単色釉に最高のものがあり、日本のやきものは色絵に最高のものが求められるのではないでしょうか。


2018年2月12日月曜日

出光美術館「色絵」2


しかし、楽しませくれるだけではありません。日中比較美術史の観点からも、実に興味深い展覧会だといわなければなりません。会場に足を踏み入れれば、すぐ眼に飛び込んでくる「色絵熨斗破魔弓文皿」(サントリー美術館蔵)や「色絵松竹梅文大皿」(出光美術館蔵)から、柏木さんの解説を聞きながら一つずつ見ていきました。

はじめは「いいなぁ」「すばらしいなぁ」という感嘆だけだったのですが、やがてこれこそ日本のやきものなんだという確信めいたものに、高まっていく心の変化を感じたのです。

その対極には、中国・宋代の白磁や青磁、影青(青白磁)といった単色釉のやきものがありました。あるいは、元代や明代の青花(染付)でした。その染付はともかく、白磁や青磁では、日本はとても中国にかなうものではありません。そもそも我が国には、まともな白磁や青磁などなかったという方が正しいでしょう。


2018年2月11日日曜日

出光美術館「色絵」1


出光美術館「色絵 Japan CUTE!」<325日まで>

 色絵――といっても、色絵具で描いた絵ではありません。『新潮世界美術術辞典』には、「日本の工芸用語。釉薬をかけて焼きあげた陶磁器の表面に、諸色の上絵具をつかって絵や文様を描き、窯に入れて妬きつけたもの。いわゆる上絵付のことで、赤絵・五彩などとほぼ同義である」とあります。具体的にいえば、古九谷・柿右衛門・鍋島などの磁器や、野々村仁清・尾形乾山の京焼に代表される、江戸時代に花開いたカラフルな焼物です。

しかしキューレーターの柏木麻里さんは、板谷波山の葆光彩磁までを含め、カラフルな色彩の美が最大のチャームポイントとなるやきものを広く色絵と見なして、この企画展を構成しています。

サントリー美術館から招いた3点を加えて、160点ほどの「色絵」を、「季節を祝う、慶びを贈る」「ファッションと文学 流行をシェアする――やきものとファッション」「Japan CUTE 世界を駆ける 伝言ゲームの柿右衛門」「かたち・色 百花繚乱」「色彩茶会 カラフル・ティーパーティー」の5章に分けて楽しませてくれます。

2018年2月10日土曜日

鎌近「堀文子展」3


以前、秋田県立近代美術館の仕事をしていたとき、堀文子展を開きたいなぁと夢みたものでした。この白寿記念展にも出陳されている、初期のシュール的な「廃墟」と「八丈島風景B」はこの館のコレクションでした。1949年、親しくなった土門拳の誘いを受け、洋画家の岡田謙三夫妻とともに、堀さんは八丈島を訪れました。

「見るもの聞くもの全てが珍しく感動の連続で、生命力あふれる激しい色や形の南国の植物や、水桶を頭にのせた少女の姿にも惹かれました」と、堀さんは『ホルトの木の下で』(幻戯書房 2007年)に書いているそうです。また、夭逝した秋田出身の画家・柴田安子は、堀さんのあこがれでした。

そんなこともあって、是非やりたいなぁと思ったのですが、微力にして実現には至りませんでした。閨秀画家の研究者でもある後任の仲町啓子さんに、すべて託すことにしましょう。最後に「僕の一点」として、ネコ好き館長の立場から「月と猫」(米八グループ蔵 1950年頃)をあげたいと思います。土門拳にしては、対象の美に心奪われたような「堀文子と猫」(1949年)のネコがモデルにちがいありません。 



2018年2月9日金曜日

鎌近「堀文子展」2


それは絵のそとに書かれた賛文のようなものでしょう。その意味で、堀さんの絵は文人画的性格を秘めているのではないでしょうか。それだけではありません。その自由な生き方も、どこか文人画家を思わせるところがあります。親しくさせてもらっている写真家・飯島幸永さんの『堀文子 美の旅人 画家のまなざしと心を追って』(実業之日本社 2010年)は、その生き方をレンズ越しにとらえて秀逸です。

ところで、「霧氷」に見入っていた僕の耳には、橋幸夫の同じタイトルの名曲が三半規管の奥からか流れてきたのですが、上流家庭に生まれた堀さんは、歌謡曲などにご興味もご趣味もないことでしょう。年譜によると、その誕生は191872日のこと、したがって今は99歳、堀さんの白寿をことほぎつつ、全画業をクロノロジカルに見せてくれる素晴らしい記念展です。

僕は堀さんのように元気に、そして美しく老いたいものだなぁと思いつつ、開会式に臨みました。水沢勉館長の挨拶は、堀芸術の「生命のリアリズム」を語って、とても印象深いものでした。

2018年2月8日木曜日

鎌近「堀文子展」1


神奈川県立近代美術館「白寿記念 堀文子展」<325日まで>

 堀文子さんは、僕の大好きな閨秀画家の一人です。いかにも女性らしい――などというと今やバッシングを受けるかもしれませんが、カタログの表紙を飾る「霧氷」(神奈川県立近代美術館蔵 1982年)のような繊細にしてナイーブな風景画を、男の画家が描けるものでしょうか。

カタログには『堀文子画文集 命といふもの』(小学館 2007年)からの一節が引かれていますが、そのきらめくような言語表現は、造型表現と美しい共鳴を起こして、見るものを魅了します。この絵に心をあずけるためには、さらに深く絵のなかに入って行くためには、どうしても次のような文章が必要であるように感じられました。

厳冬の二月。この木の梢は、精緻なガラス細工に変わるのだ。夜の中に、レースをかけたように細い枝が氷に包まれ、朝日を浴びて輝く霧氷の森となる。その神々しさは此の世のものではない。陽が昇るにつれ、枝のガラスはキラキラと身を躍らせ散り落ちる。歩く度に氷の梢が虹色に変り、ふりしきるガラスの糸に見とれて、私は気もそぞろに歩き廻る。

2018年2月7日水曜日

『逝きし世の面影』のネコ3


 だが彼女によれば、化猫にはずいぶんと愛らしいのもいた。土井山城守の居城刈屋城には、いつしか小犬ほどの猫が棲みついていた。ある春のこと、ある春のこと、「花の盛りいつよりも出来よく、日もすぐれて長閑」だったので、御番の侍たちは申し合わせて、外庭の芝生で花を見ながら弁当をつかっていた。そこへどこから現れたか、「えもいわれず愛らしき小猫の毛色見事にぶちたるが、紅の首たが掛けて走りめぐり、胡蝶に戯れ遊ぶさま、あまり美しかりし故、いずれも見とれて居たりしが」、そのうち「首輪をかけたのは飼猫の証拠、こんな小猫がどうやって城中まで迷い来たのか、怪しい怪しい」と言いながらある者が焼お握りをひとつ投げてやると、小猫はたちまち大猫の正体を現わしてそれに喰いついた。正体を見せたのを羞じたのか、お城に棲むその大猫はその後二度と人前に姿を見せなかったという。


2018年2月6日火曜日

『逝きし世の面影』のネコ2


 アンベールは言う。日本の「猫は鼠を取るのはごく下手だが、ごく怠け者のくせに人に甘えるだけは達者である」。そしてリュードルフによれば、日本の「可愛らしい猫」が鼠を全然捕えないのは、「婦人たちの愛玩物」であって「大事にされすぎて」いるからなのだ。そして鼠といえば、中勘助を育てた例の伯母さんの家運が傾いたのも、ひとつには、白鼠を大黒様のお使いだといって「お福様、お福様と後生大事に育て」た結果、鼠算でふえたそいつらに「米櫃の米を食い倒され」たからだった。

只野真葛は『赤蝦夷風説考』の著者として知られる工藤平助の長女であるが、彼女の書きのこした『むかしばなし』には化物・妖怪のたぐいがしきりに登場する。むろん彼女はその実在を信じていたのである。人を化かすのは狐狸ばかりではない。猫もまた化かすのである。仙台藩が袖ヶ崎に江戸藩邸を構えたとき、長屋に石が打ちこまれたり、蚊帳の釣手が落ちたり、妖異が絶えなかったが、長屋の廂に昼寝している大猫の姿が小面憎いというので、ある人が鉄砲で仕留めたところ、その後異変ははたとやんだと彼女は書いている。


2018年2月5日月曜日

三井記念美術館「国宝雪松図と花鳥」4


しかもこの紀要には、いわゆる腰巻が巻かれ、図録として購入することもできるんです。グッドアイディアですね!! 二人の清水さん――清水実さんと清水真澄さんからこの紀要を頂戴し、拝読すると僕の拙論が詳しく紹介されているではありませんか。うれしく感じるとともに、ちょっと穴があったら入りたいような気分になりました。

清水実さんは、全巻をカラーで紹介し、詳しい解説論文を執筆しています。全46紙をモノクロ図版で掲載し、一つ一つに番号を振ったあと、その下に留書き(画中の書き込み文字)の翻刻と見解を加えて完璧を期しています。

僕の間違いを正し、よく分からなかった鳥の同定を進められたことも感謝しなければなりません。「鳥類真写図巻記載の鳥の名称一覧」も至極便利です。さらに清水さんは、新たな知見を加えて作った克明な「正誤表」を送ってくれました。

それらを携えて会場を訪ねれば、清水さんがお住まいの栃木を中心に撮った鳥の美しい写真が、図巻のそこここに添えられて、始興の写生力を実証するとともに、展示効果を高めています。美術館における研究と展示の、すばらしいモデルケースだといってよいでしょう。

それはともかく、考えてみると拙論を発表したのは45年も前のことです。あのころ僕も真面目だったのだ(!?)




2018年2月4日日曜日

三井記念美術館「国宝雪松図と花鳥」3


実際に見ると、本絵にまとめられる前のヴィヴィッドな感覚に、深く心を動かされました。この作品が昭和47年の秋、東京国立博物館で開催された特別展「琳派」に出陳されて、広く知られるようになったのも、とてもうれしいことでした。

一応の調べを終えた翌年、東京国立文化財研究所の機関誌である『美術研究』の290号にと291号の2号にわたって、紹介することができました。僕にとって、青春の忘れがたき拙文の一つ、もちろん琳派400年記念祭のときに出した『琳派 響きあう美』に、ソク収めたことでした。

この作品が、今回の企画展に全巻展示されることになりました。展示されるだけではありません。同時に『三井美術文化史論集』11号に、清水実さんの「三井記念美術館蔵『紙本着色 鳥類真写図巻 一巻 渡辺始興筆』」という、意を尽くした研究論文が発表されたのです。

2018年2月3日土曜日

三井記念美術館「国宝雪松図と花鳥」2


「僕の一点」は、渡辺始興筆「鳥類真写図巻」です。始興研究上きわめて重要なこの写生図巻は、僕にとって忘れることができない作品でもあるんです。昭和46年(1971)、東京国立文化財研究所に採用された僕は、江戸絵画における「写生」に関心を集めていました。というより、それは卒論や修論の延長線上にある問題でしたから、きわめて安直な研究テーマ設定だったんです。

そんなとき、新町三井家の三井高遂[たかなる]氏が、渡辺始興の「鳥類真写図巻」を所蔵されているということを、辻惟雄さんから聞きました。高遂氏は東京帝国大学大学院で動物学を専攻されましたが、鳥類、特に鶏に関心が高く、図鑑を出版されるほどでした。鶏の画家・伊藤若冲を研究していた辻さんは、大先輩である高遂氏に、鶏研究家の立場からみた意見を尋ねたことがあり、そのとき始興写生図巻を見せていただいたとのことでした。

それと思われる数種と落款が、中野其明編『尾形流百図』に載っていることを思い出した僕は、こりゃー面白そうだ、ちょっと調べてみたいなぁという気持ちが高まりました。早速、高遂氏に調査依頼のお手紙を出し、快諾を得ると、写真師の橋本弘次さんを伴って私邸をお訪ねしました。高遂氏は母校の近くにお住まいでした。

2018年2月2日金曜日

三井記念美術館「国宝雪松図と花鳥」1


三井記念美術館「国宝雪松図と花鳥 美術館でバードウォッチング」<24日まで>

 三井記念美術館コレクションのなかから、鳥をモチーフにした絵画や工芸を選りすぐって構成した、とてもおもしろい企画展です。モチーフにした作品ばかりではありません。「鵺」という銘をもつ楽茶碗まで、加えられています。静嘉堂文庫美術館でもすぐパクることができそうなアイディアです。

しかし、三井家には代々禽鳥を愛し、研究した人が多く、それがこの企画展を発想させる原動力となったということをパネルで知ると、だからこそこんな充実した内容に高まったんだなぁと、よく腑に落ちたことでした。円山応挙のご存知「雪松図屏風」は、客寄せシャンシャンみたいなもので――事実この国宝の前が一番混み合っていましたが――今回見るべきは断然「花鳥」の方です。



2018年2月1日木曜日

『逝きし世の面影』のネコ1


 渡辺京二さんの名著『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー 2005年)には、幕末明治のネコが登場します。「生類とコスモス」の章です。「ネコ好き館長」としては、無視できません。いや、ネコ文化史上とても重要な文献だと思いますので、ここに掲げておくことにしましょう。

マーガレット・バラは夫とともに、文久元年から神奈川宿の成仏寺に住んだが、「コウモリや鳥や昆虫が、ぶんぶん、ちゅうちゅう、ひゅうひゅうと絶え間なく鳴く声、飢えた狼のように犬が吠える声、ずうずうしく物をさらってゆく悪がしこいカラスの鳴き声」にはうんざりだった。彼女の考えでは、「市場に出かけた召使が買い物を入れた籠を頭にのせて帰れないのは、このカラスどものせい」だった。この古寺では、夜中になると鼠たちが走りまわって、「地震」を起した。小猫は鼠がよほどこわいらしく、「物音がしただけで飛んで逃げ」る。日本の猫は「大きくてつやつやと肥えていますが、怠惰で、ネズミをとって食べる気はないのです。ここのネズミは猫と同じくらい大きいものですから、猫のほうは飛びかかっても無駄だと知っているのでしょう。ネズミはおかげでしたい放題、とても横暴です」。

サントリー美術館「琉球」1

サントリー美術館「琉球 美の宝庫」< 9 月 2 日まで> 琉球国は南海の勝地にして 三韓の秀を鍾[あつ]め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯[しんし]となして 此の二つの中間に在りて湧出する蓬莱島なり 舟楫[しゅうしゅう]を以て万国の津梁[しんりょう]...