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2026年10月17日土曜日

出光美術館<門司>「水墨画の巨匠たち 雪舟から鉄斎まで」9

  

 そもそも「不至之指」のもとになった「指は至らず、至るも絶えず」という命題は、詭弁家の恵施と、桓団や公孫龍などの弁者が論じ合ったものでした。これは「卵にはすでに羽毛がそなわっている」に始まる「弁者十二事」のうちの一つで、この前にある恵施の「歴物十事」とセットになっています。 

これらの詭弁は、時間と空間に存在するすべての差別を否定するものだそうです。ですから荘子の考えと基本的に通じ合うわけですが、荘子はこのような詭弁の遊戯性をきらい認めませんでした。言葉では人に勝つことができても、人の心を動かすことはできなかったからです。


「歴物十事」や「弁者十二事」の解釈はいろいろとあるそうですが、以上は森三樹三郎氏の見方です。これにしたがえば、荘子は命題の本質的部分は認めても、詭弁の人を驚かせようとする遊戯性や牽強付会を否定していたわけですが、大典和尚もまったく同じであったと思います。

2026年10月16日金曜日

出光美術館<門司>「水墨画の巨匠たち 雪舟から鉄斎まで」8

 

その点で指は「無用」ですが、指は日々実際に役立ち、指がなければ大典和尚もこの賛を書けませんでした。「無用之用」にならっていえば、指は「有用之無」だといってもよいでしょう。


「漫すずろに相倚る」というのは、無用之用と有用之無は何となく、仲良く昔から補完関係を保っていると解釈したのが戯訳です。つまり何かで何かを支配したり抑圧することなど不可能で、すべては持ちつ持たれつだというわけです。


これは「有無相通ず」という格言に近く、鬼面人を驚かすというような賛とはいえません。最初の質問に答えず逃げているといえば大典和尚に失礼ですが、とくに人をアッといわせる奇抜な答えではありません。この点に僕はとても興味がわいてくるのです。

2026年10月15日木曜日

出光美術館<門司>「水墨画の巨匠たち 雪舟から鉄斎まで」7

 


 しかし大典和尚がこの賛を書いたとき、頭にあったのはむしろ如拙の「瓢鮎図」だったのではないでしょうか? この国宝画をよく見てください。瓢箪を持つ乞食僧が鯰を指差しているように、少なくとも指を差し伸べているように見えるでしょう。


事実、島尾新さんは著書『如拙筆瓢鮎図――ひょうたんなまずのイコノロジー』<絵は語る5>(平凡社 1994年)で、おもしろいことを指摘しています。瓢箪はしっかりホールドされず、上から押さえつけられているだけだというのです。確かに瓢箪は手に吸いついているだけで、乞食僧は指を鯰の方へ差し出しているようにみえるのです。


大典和尚はこの大雅の作品から古来有名な如拙画を思い浮かべ、『荘子』の「不至之指」を想起した可能性を考えてみたいのです。指で鯰を指差すことはできても、鯰の本質をとらえることは不可能だとでも言いたかったのでしょうか。

2026年10月14日水曜日

東文研「研究フォーラム第1回<日本の画論の形成と展開>」マイ特別講演無事終了❣❣❣


  先日お知らせした東京文化財研究所「研究フォーラム第1回<日本の画論の形成と展開>」が無事終わりました。僕は「日本の画論と坂崎坦」と題して特別講演なるものをやらせてもらいました。35000字ほどの完全原稿は用意したのですが、与えられた時間は60分です。読み上げてたらとても終わりそうにないので、PPTを60分のスライドショーにセットしてもらい、サワリだけをアドリブで話すことにしました。内容はともかく、時間内にピタリと終わったことが自慢です。

  ヤジ「スライドショーなら当たり前田のクラッカーじゃないか❣❣❣」

 僕のあと基調講演、コメント、質疑応答、情報交換と続き、終了後場所を移して打ち上げとは相成りました。ともかくも役目を果たした僕は、解放感から秋田の銘酒「旅人」でカンスイ、上掲のごとくに……。「画論」に合わせて締めて行ったネクタイにもご注目あれ❣❣❣

 

出光美術館<門司>「水墨画の巨匠たち 雪舟から鉄斎まで」6

 


しかし「無用之用」という言葉自体は、『老子』じゃなく『荘子』から採られているようです。その内篇<人間世篇じんかんせいへん>に「人はみな有用の用を知ってはいるが、無用の用を知るものはない」とあるからです。つまり瓢箪は、普通であれば何の役にも立たない空間(無用)に効用(用)があることになります。


それではどうして鯰が「不至之指」になるのでしょうか? 「不至之指」は『荘子』の雑篇<天下篇>にあり、僕が愛用する森三樹三郎訳注の中公文庫版では「物をさす指は、物の本質に到達することはできない」と訳されています。鯰に指などないのですから、これだけではどうしても鯰と結びつきません。

2026年10月13日火曜日

出光美術館<門司>「水墨画の巨匠たち 雪舟から鉄斎まで」5

 


A=口+号、B=卵+心という字ですが、さすがに『諸橋大漢和辞典』には載っています。Aはうつろで大きいさま、B子は肥えた人をいうとありますから、A然は瓢箪を、B子は鯰を暗示しているようです。そうすると「無用之用」は瓢箪と、「不至之指」は鯰と関係する言葉とみなくてはなりませんが、無用之用の解釈は簡単でしょう。


瓢箪は瓢箪そのものではなく、中の空洞にこそ存在意義があります。そこに水やお酒を入れられるからです。古くはお米も入れました。これをもっともストレートに教えてくれるのは『老子』の第11章です。小川環樹先生はその部分を「粘土(埴)をこねて、容器をつくる。その何もない空間に容器の有用性がある」と訳しています。瓢箪もこれとまったく同じですね。

2026年10月12日月曜日

出光美術館<門司>「水墨画の巨匠たち 雪舟から鉄斎まで」4


  さすが大典和尚、七言絶句にみえて七言絶句にあらず、ワードじゃ出てこない変な字を使っています。当然意味はサッパリ分からず、まったくお手上げでした。ところが出光論文により、芳澤勝弘さんが正しく解読していることを知ったのです。それを参照しながら例のごとく、マイ戯訳を作ってみました。けっきょく絶句というか、四行詩みたいになっちゃいましたが……。

 何来A然 触着B子 孰知無用之用 孰知不至之指 咦 千古万古漫相倚 


    鯰を丸い瓢箪で 捕らえることはできますか?

   無用の用の真の意味 誰一人として知りません

   指が本質 指せぬこと 誰一人として知りません

    (有用の無の意味もまた 誰一人として知りません)

   両者は仲良く昔から 補完関係 保ってる

    (だから最初の質問は 自体ハナからナンセンス)


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出光美術館<門司>「水墨画の巨匠たち 雪舟から鉄斎まで」9

    そもそも「不至之指」のもとになった「指は至らず、至るも絶えず」という命題は、 詭弁家の恵施と 、 桓団や 公孫龍などの弁者が論じ合ったものでした。これは「卵にはすでに羽毛がそなわっている」に始まる「弁者十二事」のうちの一つで、この前にある恵施の「歴物十事」と セットになっ...