2018年2月19日月曜日

鎌近「堀文子展」7


 このカタログには、企画キューレーター・山本丈志さんが、素晴らしいオマージュ「五月の空と柴田安子」を寄稿しています。それによると、「柴田安子はその明確な理由を示さないまま自ら自作を焼き、その画業を知る術を後世に残さなかった」のです。死に臨んで、みずからの作品をすべて火の神・祝融に捧げたというのです。

事実、秋田県立近代美術館に所蔵されるスケッチを除けば、先の「堀文子略年譜」にも出てくる「めらはど」が、ほとんど唯一の作品だといってよいでしょう。現在、個人コレクションに収まるただこの一作によって、柴田安子は永遠の画家になったのです。

じっとながめていると目頭が熱くなるのは、安子の夭折を知っているからではありません。もちろん、あまりにも美しい安子のモノクロ・プロフィールが、網膜に焼き付いているからでもありません。それをまったくは否定できないとしても、作品によって揺さぶられる心が、目頭を熱くさせるのです。
柴田安子がもう少し生きてくれたら、必ずや「安子×文子展」が実現したことでしょう。それを見てみたかった!!

2018年2月18日日曜日

鎌近「堀文子展」6


柴田安子 1907年(明治40)―1947年(昭和22

東京都に生まれたと推定される。父は秋田県大仙市の素封家最上広胖。幼名義枝。1919年義枝を安子に改名。1925年麹町千代田高等女学校卒業。在学中、日本画家松岡映丘の画塾に通う。1930年映丘を顧問とする子木社が創立され、同人となる。

1931年東洋史学者柴田宣勝と結婚。1935年第7回青龍社展に「牧帰」を初出品初入選。1936年第4回の春の青龍社展に「めらはど」他を出品し、日本画家福田豊四郎に注目される。豊四郎らの新日本画研究会に参加。

1938年新美術人協会の結成に参加。1939年夫宣勝の朝鮮半島滞留にともない、安子も一時朝鮮に行く。1940年堀文子との交流が始まる。第3回新美術人協会展で「灑衣」[さいい]が研究会員賞を受賞。

1943年朝鮮慶州・楽浪などで写生。決戦美術展に「木材供出」を出品、朝日新聞社賞を受賞。1945年山梨県に疎開。終戦後、帰京。1947年逝去。遺骨は郷里角間川の最上家菩提寺浄蓮寺に埋葬される。

2018年2月17日土曜日

鎌近「堀文子展」5


 堀さんにこんな強い感銘を与えた柴田安子であっても、ほとんどの方がご存じないことでしょう。柴田安子――それは秋田が生んだもっとも魅力的な閨秀画家です。もちろん僕も、心から愛して止まぬところです。

2007年夏から秋にかけて、秋田県立近代美術館では特別展「描かれた秋田 ふるさとは我が胸にあり――福田豊四郎『我がうた』より」が開催されました。ちょうど秋田で国体が開催されたこともあり、秋田のすばらしい絵画を――版画や写真も含めて、改めて振り返ってもらおうと企画したのです。

まず秋田出身のアーティスト10人を選びました。福田豊四郎、紺野五郎、千葉禎佑、櫻庭藤二郎、横山津恵、渡部栄子、佐々木良三、勝平得之、堀川達三郎、そして柴田安子です。これを2部に分けて代表作を展示しました。秋田でしかできない展覧会です。

さて、柴田安子とはどんな画家だったのでしょうか? そのときのカタログから、経歴の部分をそのまま紹介することにしましょう。

 

2018年2月16日金曜日

鎌近「堀文子展」4


 カタログに付された「堀文子 略年譜」をみると、柴田安子の名前が、少なからず眼に入ります。悲しいことに、堀さんの若いころだけですが……。

1936(昭和11)年 18
4月、女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科日本画部に入学。春の青龍社展で最上(柴田)安子《めらはど》《女仲士》に、10月の再興院展で小倉遊亀《浴女》に感銘を受ける。

1939(昭和14)年 21
6月、第2回新美術人協会展に《原始祭》を出品、初入選。柴田安子《叢林》に感銘を受ける。

1940(昭和15)年 22
2月、11歳年上の柴田安子を訪ねる。同年、長野・大門峠の安子の山荘で過ごすなど親交を結ぶ。

1945(昭和20)年 27
春、山梨に疎開した柴田安子の世田谷の留守宅に移居する。

1946(昭和21)年 28
4月、内田巌、本郷新らが結成した日本美術会に福田豊四郎、柴田安子らとともに参加。
7月、柴田安子没。外交官・箕輪三郎と結婚。

2018年2月15日木曜日

出光美術館「色絵」5


日本国 古くは倭奴国といったが、日(太陽)が出る所に近いので、日本と改めた。絵画もあることにはあるが、画家の名前は分からない。その国の風物・山水・小景(小画面のおだやかな風景画)が描かれている。彩色は濃厚で、多く金碧を用いており、その「真」という点からみると不十分で、ただ彩色燦然たるを求め、「観美」を第一としている。しかし他の国や地域に比べれば、人品卑しからず、一応のしきたりもあるのだが、山間僻地ともいうべき礼儀も知らないような未開の土地である。それにもかかわらず、よく絵画というものに興味をもっているのは、なかなか見上げたものである。

中華思想の見本のようで、徽宗周辺の人々は日本のことをこんな風にみていたんだぁと笑ってしまいますが、「観美」とあるのが興味深く感じられます。一部、文意がよくとれないところがあったので、私意にしたがって訳してみましたが、大きくは間違っていないと思います。

 ところで「観美」を『諸橋大漢和辞典』に求めると、「徒らに外面の美だけを務めて、内実が充実しないこと。表面を飾る」とあり、出典として『孟子』があげられています。しかし、本来の意味であったにちがいない「観て美しい」と解釈すれば、日本絵画の特質とされる装飾性を鋭く突いた批評にもなるのではないでしょうか。それはともかく、日本文化は「色好み」の文化なのです(!?)


2018年2月14日水曜日

出光美術館「色絵」4


もっとも、中国画はモノクロームを主体とする絵画であり、日本画はポリクロームを愛用する絵画であると規定して、それとのパラレルな関係にまで筆を進めるならば、それは行きすぎだと思いますが……。

この問題を考えるとき、「五彩菊花文輪花皿」(出光美術館蔵)ほど、興味深い作品はありません。清時代、景徳鎮窯で焼成された皿で、明らかに出光美術館が所蔵する古伊万里の、同じモチーフ同じデザインの皿を写しているんです。このようなやきものは、チャイニーズ・イマリと呼ばれていますが、かの景徳鎮がコピーした日本のやきものは、「色絵」だったのです。もっとも、このころの景徳鎮は、昔日の勢いを失っていたそうですが……。

また、徽宗絵画コレクションの著録『宣和画譜』の巻12にみえる日本絵画に対する次のような批評は、このような日本の色絵を考える際にも、ある示唆を与えてくれるように思われます。

2018年2月13日火曜日

出光美術館「色絵」3


もちろん、まったくなかったわけじゃありません。伊万里にも鍋島にもちゃんと青磁の完器がのこっています。時代が下れば、波佐見でも立派な青磁が焼かれています。僕も戦前に焼かれたと思われる三田青磁の小皿を愛用しています(!?) 柿右衛門や大川内山鍋島藩の窯跡からは、白磁の陶片も出土しています。

陶片だけではありません。静嘉堂文庫美術館の山田正樹さんに聞いたところ、柿右衛門にも伊万里にも白磁の完器はたくさんあるそうです。しかし、これらをもって中国の逸品と対抗させるのには無理があることを、誰しも認めざるをえないでしょう。

ところが、この特別展に出陳されているような傑出せる色絵なら、充分中国の白磁や青磁、青白磁、また青花にチャレンジすることができるのではないでしょうか。あるいは、凌駕することも不可能ではないでしょう。こんなところから、僕は「色絵」こそ日本を象徴するやきものだと主張したい気分になったのです。割り切っていえば、中国のやきものは単色釉に最高のものがあり、日本のやきものは色絵に最高のものが求められるのではないでしょうか。


鎌近「堀文子展」7

  このカタログには、企画キューレーター・山本丈志さんが、素晴らしいオマージュ「五月の空と柴田安子」を寄稿しています。それによると、「柴田安子はその明確な理由を示さないまま自ら自作を焼き、その画業を知る術を後世に残さなかった」のです。死に臨んで、みずからの作品をすべて火の神・...