2019年2月28日木曜日

そば太田 5


そういえばあの台風はひどかったし、ぜひやりたいという後継者もいないまま、閉鎖することになったのではないでしょうか。台風はしかたないとしても、こうして良心的な食材店がまた一軒、我が日本から消えていってしまったわけです。以前、秋田でもときどき聞いたような話ですが、これも世の流れというヤツで、どうしようもないことなのでしょうか。

仕方がないので、春菊天うどんを関東風汁でご馳走になりましたが、メニューを見ると、お酒はもちろん、砂肝やタコ天や唐揚げなど、美味しそうなツマミもありまです。いざとなれば、天抜きも作ってもらえるのではないでしょうか――路麺店じゃ無理かな? いや、路麺店といっても、ちゃんと椅子のあるお店だから大丈夫かな? それはともかく、今度はぜひ夕方にでも見舞いに来ようと思いつつ、國華社に向ったことでした(!?) 

2019年2月27日水曜日

そば太田 4


オススメは「じゃこ天そば」「じゃこ天うどん」で、デッカイじゃこ天が一つ、ドーンと乗って出てきます。必ずこれを食べることにしていたのですが、この間も今日も、券売機の「じゃこ天」に白いテープが貼られています。やはり人気メニューのため、すぐ売り切れちゃうのかなと思ってご主人に訊いてみました。

すると、長いあいだ広島の小さな製造所から仕入れていたけれども、そこが去年の台風でひどくやられ、ついに廃業してしまったので、残念だけれども出せなくなってしまったとのことでした。それじゃーほかから仕入れれば、問題ないんじゃーないのと僕がいうと、あんなに大きくて、美味しくて、しかも安いじゃこ天はなかなかほかにないという答えでした。

2019年2月26日火曜日

そば太田 3


「そば太田」の最寄り駅は、都営地下鉄浅草線・西馬込駅――その南口改札を出ると、「食事処 そば・うどん」と書かれた大きな緑色の看板が目に飛び込んできます。券売機で食券を買うような、いわゆる路麺店ですが、うれしいのは、関東風と関西風のだし汁が用意されていて、好きな方を選べることです。ちなみに、電話番号は03-5709-3901ですが、予約なんかしなくたって大丈夫だと思います(!?)

それに加えて店内に流れる音楽が、なつかしいグループ・サウンズやニュー・フォークだというのも特筆大書に価するところで、しばし「プレーバック青春」といった気分に浸らせてくれます。今日は何年かぶりで、かぐや姫の「神田川」と、ウィークエントの「岬めぐり」を聞き、セブンティーズへ、つまり僕的にいえば東京国立文化財研究所時代へ舞い戻ったことでした。

2019年2月25日月曜日

そば太田 2


お袋は5年ほど前から、むかし文士村で有名だった大田区馬込の老人ホームに入っています。100歳になった人間に、純銀杯なんか贈っても無駄といえば無駄ですが、やはりエセ銀杯じゃーねー。むしろ星の王子さまが言ったように、「いちばん大切なことは目に見えない」のですから、安倍首相には、100歳に達した国民を💛で祝っていただくだけの方がいいのではないでしょうか。

そもそも、洋銀杯に替えることによって浮く予算など、本当に微々たるものでしょう。それに<純銀杯>であれば、「大黒屋」や「大吉」、あるいは「おたからや」で買い取ってもらえるにちがいありません――やはり本音が出ちゃったかな(!?)

お袋も最近はさすがにちょっと弱ってきましたが、ありがたいことに、まだまだ元気で毎日を送っています。ときどき僕は昼前に見舞いに行き、「そば太田」でそばかうどんのランチをとり、静嘉堂か國華社に向うことにしています。

2019年2月24日日曜日

そば太田 1


 僕のお袋は去年100歳を迎え、阿倍晋三首相からお祝いの銀杯を拝領しました。以前は<純銀杯>だったそうですが、もう100歳なんて目出度くもなんともなくなり、「老人は死んでください国のため」という川柳が詠まれるご時世のせいか、あるいは国家財政不如意のせいか、はたまた上に立つ日本人がせこくなったせいか、3年前からエセ銀杯になっちゃいました。

裏に<純銀>ならぬ<準銀>と刻印されているので笑っちゃいましたが、よく見ると「洋銀」でした。聞いたことがない言葉なので、『広辞苑』を引いてみると、「合金の一。銅5070パーセント、ニッケル530パーセント、亜鉛1030パーセントを配合した合金。柔軟性・屈曲加工性・耐食性に富み、銀白色の美しい光沢がある。装飾器具・電気抵抗線・バネ材料に用いる。洋白」と書いてありました。

2019年2月23日土曜日

水田宗子編『比較メディア・女性文化研究』8


水田さんが名前を挙げる桑原武夫氏には、「現代詩第二芸術論」という「俳句第二芸術論」の続編があります。尊敬する桑原氏とはいえ、この見方には反対ですが、和歌が好きな僕には、どうしても定型詩の方が好ましく感じられてしまうのです。たとえばこの『詩集』でも、「<くちなし>の巻 佐川亜紀との四行連詩」の方に惹かれちゃうのですが、やはりこれも現代詩の何たるかがまったく分かっていないためなのでしょうか?

 昨日は白かったのに 今日はもう土色
  狡猾なくちなし
  時の先回りをして
  死をやり過ごそうとの変身術
    *
  メール送信にしっぱい
  指と頭をつなぐ古びた回線のトラブル
  しまい込んできたわたしの告白は
  超特急で見知らぬひとへ落雷

 *鬼籍に入られた方のみ「先生」と呼ぶという「饒舌館長」の慣例にしたがって、水田宗子先生を「さん」づけにしたことをお許しくださいませ。

 

2019年2月22日金曜日

水田宗子編『比較メディア・女性文化研究』7


また、第1回水田三喜男記念賞を受賞したジョー・プライスさんのご夫人・悦子さんと水田宗子さんの対談「日本人として、日系アメリカ人として、女性として生きること」からも、改めて多くのことを学びました。

『比較メディア・女性文化研究』はすでに第2号も発刊されています。中沢けいさんと水田宗子さんの対談「フェイクニュースとフィクション」は、トランプ・アメリカ大統領とそのツイッターに振り回される現代社会を考える際にも、大きな示唆を与えてくれるでしょう。

水田宗子さんからは、これまで詩集も少なからず頂戴していますが、いま机の上にあるのは、『水田宗子 詩集』(「現代詩文庫」223 思潮社 2016)です。その瑞々しい感性に心を動かされますが、僕にとって現代詩という文学は、どこか遠くから仰ぎ見るといった感じであることを告白せずにはいられません。


2019年2月21日木曜日

水田宗子編『比較メディア・女性文化研究』6


戦後の日本現代詩の「和歌的抒情」(小野十三郎)と俳句第二芸術論(桑原武夫)に表明される詩的伝統の否定は、それが思想的に、日本、東洋思想から西欧思想へ内的基盤を移すことを意味しているわけではない。既に西欧近代はヨーロッパからの脱却として東洋思想と文芸に大きな影響を受けながら西欧近代を形成して来ているので、それは日本、東洋と西欧が、世界的な自文化の断絶経験を通して結びついたということなのだ。

 「特集 大学・人文科学・女性学の『現在』」には、かつて同じ空間で仕事をした上野千鶴子さんの講演録「人文科学の危機と女性学は今」や、ユキオ・水田・リピットさんの講演録「ハーバード大学における人文科学と教養教育」が収録されています。

2019年2月20日水曜日

水田宗子編『比較メディア・女性文化研究』5


僕も大学の学長なるものを3年間つとめましたが、雑用とはいわないまでも、管理運営に多くの時間がとられ、どうしても研究の時間や自分の余暇は少なくなってしまいます。それを確保するため、潔い決断をされた水田さんに、心からのオマージュを捧げたいと存じます。

世の中には恩を仇で返すような人間もいて、腸の煮えくり返る思いをされたとも仄聞しましたが、水田さんが世の道に外れたことをされるはずもなく、これまでどおり、そしてこれからも、心底より僕は信頼申し上げております。

その研究所機関誌『比較メディア・女性文化研究』の創刊号こそ、水田さんが新しい世界に歩みだした第一歩です。詩のノーベル文学賞といってもいい「チカダ賞」を受けた詩人でもある水田さんは、「現代女性詩論序説Ⅰ」を寄稿しています。現代の女性詩をフェミニズム批評の観点から論じて、とても刺激的ですが、もっとも僕が興味深く感じたのは、和歌と俳句に代表される詩的伝統に関する、次のような鋭い指摘でした。

2019年2月19日火曜日

水田宗子編『比較メディア・女性文化研究』4


留学期間を終えると、リピットさんはハーバード大学へ戻り、博士号を取得するとすぐに教員に採用されました。現在は同大学美術史建築史学部教授やラドクリフ高等研究所アート・ディレクターをつとめるとともに、欧米を代表する日本美術史研究者として、縦横の活躍を続けています。これまた実にうれしいことです。

その後も水田宗子さんには、学生を推薦させてもらったり、水田美術館や城西国際大学・日中連携大学院の仕事を手伝わせていただいたり、さんざんお世話になってきました。『國華清話会会報』の巻頭インタビューにご登場いただいたことも忘れられません。改めてお礼申し上げる次第でございます。

その水田宗子さんが大学理事長の職を退いて、20171月、国際メディア・女性文化研究所を立ち上げ、この分野の研究を深めるとともに、詩人としての創作に更なるエネルギーを注がれることになりました。

2019年2月18日月曜日

水田宗子編『比較メディア・女性文化研究』3


早速リピットさんに確認すると、確かにそのとおりだというので、小林さんと僕のほか数人で、埼玉県坂戸にある城西大学・水田美術館へお邪魔することになりました。水田先生は大政治家でしたが、教育こそ国家の根幹であることを抜かりなく見抜いた偉大な教育者でもあり、城西大学と城西国際大学を創立して、その実践に乗り出しました。

また大浮世絵収集家としても知られ、そのコレクションをもとに、両大学に水田美術館が開かれることになったのです。

はじめて拝見する水田浮世絵コレクションは、とてもクオリティが高く、素晴らしい作品ばかりでした。とくに僕が心を動かされ、また興味を覚えたのは、宮川長春の「見立て東下り図」で、その後『國華』1416号にこれを紹介し、見立てに関する私見を述べることができたのは、実にうれしいことでした。


2019年2月17日日曜日

水田宗子編『比較メディア・女性文化研究』2


僕らの世代で、水田先生を知らない人はいないでしょう。日本の戦後経済発展をリードした名大蔵大臣でした。今の財務大臣とは、ちょっと存在感がちがうような感じもします。大蔵大臣中の大蔵大臣でした。

そもそも、2001年、大蔵省を財務省に変え、大蔵大臣を財務大臣なんて呼ぶようにしたことが、日本の経済を決定的におかしくしてしまいました。雄略天皇以来以来の伝統をもつ「大蔵」、律令制以来の歴史を誇る「大蔵省」のどこがいけないんですか? 名前を変えれば、何か改革を行なったように思うのは幻想にすぎません。改革どころか、かえって悪くしちゃったじゃーありませんか。

話が飛んだ方に行っちゃいましたが、その後しばらくすると小林忠さんが、リピットさんはどうも水田三喜男のお孫さんらしい、もしそうなら水田浮世絵コレクションをよく見せていただこうじゃないかと言ってきました。

2019年2月16日土曜日

水田宗子編『比較メディア・女性文化研究』1


水田宗子編『比較メディア・女性文化研究』創刊号

 水田宗子[みずたのりこ]さんについては、ご存知の方も多いと思いますが、この『比較メディア・女性文化研究』創刊号の巻末に載る「執筆者紹介」をそのままに掲げておきましょう。

比較文学、女性文学、フェミニズム批評。研究者、批評家、詩人。学校法人城西大学前理事長、日本スウェーデン協会会長。

 長いあいだ僕も大変お世話になってきました。それはご子息のユキオ・水田・リピットさんが、ハーバード大学から東京大学文学部美術史研究室へ、琳派を研究したいといって留学してきた時に始まります。最初の面談で、ものすごく優秀な青年であることはすぐに分かりましたが、水田三喜男先生のお孫さんだとは知りませんでした。

2019年2月15日金曜日

森アーツセンターギャラリー「新・北斎展」7


すぐに私は、「しばらくお会いしていませんでしたが、記事によると病気療養中とのこと、びっくりするとともに、一日も早くあの元気な永田さんに戻られることを願い、また一緒に仕事のできる日が来ることを、一日千秋の思いで待っています」と、マイブログ「饒舌館長」にアップしました。年が明けて、二月六日、全国美術館会議の理事会が日暮里のホテルで行なわれました。その席で私は、島根県立美術館館長・長谷川三郎さんから、早朝永田さんが幽明界を異にされたことを聞いたのでした。

永田生慈さん、貴兄はまことに真摯な北斎研究家であり、情熱的北斎収集家であり、そして稀世のアートディレクターでした。これが三位一体となった永田さんのような浮世絵人間が、再び世に現われることは絶対にないでしょう。安らかにお眠りください。

 

2019年2月14日木曜日

森アーツセンターギャラリー「新・北斎展」6


実をいうと、永田さんのお蔭で、この太田記念美術館や氏家コレクションの仕事を、微力ながら手伝わせてもらえるようになったのです。私が浮世絵に関する本当の勉強ができたのは、その賜物にほかなりません。

去年秋の朝日新聞に、「北斎画千点 島根県に寄贈 川崎の研究者・永田さん」という記事が載りました。永田さんが、松江市の島根県立美術館に、所有する北斎や弟子の全作品、約1000点を寄贈したことをこの記事は伝えています。浮世絵界の快挙です。永田さんが北斎の収集を始めたのは、じつに十六歳のときだったそうです。津和野町の葛飾北斎美術館には、私もお邪魔してそのすぐれたコレクションを堪能したことがあります。そのとき見せてもらった「鍾馗図」は、北斎が春朗と号していた青年時代における唯一の肉筆画だそうです。

2019年2月13日水曜日

森アーツセンターギャラリー「新・北斎展」5


特に二〇一四年、パリのグラン・パレで行なわれた北斎展では、三十五万七千人もの美術ファンがその魅力に酔いしれました。これらの功績をたたえて、フランスからは芸術文化勲章オフィシエが贈られることになりました。その準備中、永田さんはフランス・ギメ美術館所蔵の「龍図」と、太田記念美術館の「雨中の虎図」が本来双幅であるという新知見をえました。北斎研究上画期的な大発見です。

「龍図」を里帰りさせ、100年ぶりに本来の双幅として展示した太田記念美術館の「ギメ美術館所蔵浮世絵名品展」は、美術界の話題を集め、たくさんの浮世絵ファンを原宿へと向かわせました。普通はスリッパに履き替える美術館ですが、このときはとても不可能で、シートを敷いて土足にしたというのは、よく知られたエピソードです。早速私は永田さんにお願いして、編輯委員をつとめる美術雑誌『國華』に、その研究成果を報告してもらいました。

2019年2月12日火曜日

森アーツセンターギャラリー「新・北斎展」4


 そのあと永田さんは、楢崎先生の招請を受けて太田記念美術館の設立に尽力し、キューレーターから副館長となり、目を見張る活躍を始めました。刺激的な展覧会を次々に企画し、北斎に関する学術的な研究誌『北斎研究』を創刊し、『葛飾北斎年譜』をはじめとするたくさんの研究書や啓蒙書を精力的に出版しました。この間、みずからもコレクションにつとめ、ついに郷里である津和野町に葛飾北斎美術館を開館させるに至りました。誰も真似のできない浮世絵界の偉業でした。またアートディレクターとして、多くの北斎展を企画しましたが、一九八〇年以降は、ヨーロッパでこれを開催し、ジャポニスムとは異なる北斎の真の魅力をもって、かの地の人びとをとりこにしました。

 

2019年2月11日月曜日

森アーツセンターギャラリー「新・北斎展」3


永田生慈さんが平成三十年二月六日にお亡くなりになりました。享年六十六、あまりにも早いご逝去を心から悼み、ご冥福を胸底よりお祈り申し上げます。

 永田生慈さんとは、ほぼ半世紀にわたり、親しく交流させてもらってきました。私が東京国立文化財研究所につとめていたころ、第二研究室長・岡畏三郎先生のもとでお手伝いをしていた石田泰弘さんと、東京浮世絵研究会なるものを立ち上げたことがあります。この研究会に永田さんは、最初から参加してくれました。浮世絵界の泰斗・楢崎宗重先生に憧れて立正大学に入学し、その厳しくも温かな薫陶を受けた永田さんは、すでに仲間うちで葛飾北斎研究家としてよく知られていましたが、北斗書房という本屋さんを営みながら、研究と収集に邁進していました。

2019年2月10日日曜日

森アーツセンターギャラリー「新・北斎展」2


永田先生のことは、すでにこの「饒舌館長」にアップしたことがありますが、今日26日は、最初の祥月命日です。夕方5時から、展覧会場の森アーツセンターギャラリー直下にあるレストランで「永田生慈先生をしのぶ会」が開かれたので、改めて永田コレクションをじっくり拝見してから、その会に臨みました。

永田先生の業績をしのぶ10分ほどのビデオを展覧会場で見たことも加わって、求められた献杯の挨拶も言葉に詰まることが多く、さすがの饒舌館長も饒舌とはいきませんでした。ご逝去のあと、国際浮世絵学会の機関紙『浮世絵芸術』176号に悼辞を寄稿する機会があったので、それを再録し、改めて永田先生のご冥福をお祈りすることにしましょう。

2019年2月9日土曜日

森アーツセンターギャラリー「新・北斎展」1


 森アーツセンターギャラリー「新・北斎展」<324日まで>(26日)
 


 インフォーメーション・リーフレットには、「みどころ」として「永田コレクション最後の東京公開」とあり、次のように書かれています。

北斎研究の第一人者である故・永田生慈氏の2000件を超えるコレクションから選りすぐりの作品を展示。本展に出品された後は、島根県のみで公開されることとなり、東京で見られる最後の機会です。

 そうなんです!! この「新・北斎展」は、「永田北斎展」と呼ばれてしかるべきでしょう。西新井大師総持寺所蔵の「弘法大師修法図」や、米国・シンシナティ美術館の「向日葵図」、個人所蔵の「冨嶽三十六景」なども集められ、全出品数は480件という大規模かつ網羅的な葛飾北斎展ですが、中核をなすのは永田生慈コレクションです。

そして何よりも、永田先生が生涯をかけて研究から帰納された北斎という天才の実像が、見るものの心を鷲づかみにするような特別展なんです。
2月10日(日)9:00 NHK・Eテレ「日曜美術館」を是非見てくださいね!!!!!!!!

2019年2月8日金曜日

静嘉堂文庫美術館「お雛さま展」9


 藤田東湖はこれを知っていたにちがいなく、灘の銘酒「剣菱」から、中国は唐の銘酒「剣南之暁春」を思い出し、「剣菱春」としたのではないでしょうか。現在、中国十大銘酒の一つに「剣南春」がありますが、これも「剣南之暁春」からつけられた酒名なのでしょう。

僕は中国十大銘酒を暗記しているので、よくこれもおしゃべりトークで笑いネタに使います。「茅台酒 汾酒 董酒 五糧液 瀘州老窖 西鳳酒 古井貢酒 剣南春 洋河大曲 水井坊」と御経のように唱えると、みんなポカンとしています。そこで「たいていここで拍手が起こるもんなんですけどねー」というと、笑いと拍手がいっせいに起こるんです(!?)

2019年2月7日木曜日

静嘉堂文庫美術館「お雛さま展」8


  灘の剣菱銘酒なり 一斗ばかりをぐいぐいと……

  愁いは雲散霧消して 心頭鋭く冴え渡る

  笑わんでくれ!! 満足に 壁もないよなボロ書斎

  酒飲みイコール清貧と 古来決まってるんだから

 もともとの起句は「傾来一斗剣菱春」です。その「春」は季節じゃなく、お酒の意味、『諸橋大漢和辞典』に「春」を求めると、第二義として「酒。唐代の通語」と出てきます。しかも、『国史補』という書の引用があり、当時「剣南之暁春」という酒があったことを教えてくれます。剣南というのは、長安南方の大剣・小剣という二つの山のさらに南に広がる地、現在の四川省から甘粛省にまたがる地域だそうです。

2019年2月6日水曜日

静嘉堂文庫美術館「お雛さま展」7


設えられたバー・カウンターをみれば、懐かしい銘酒「剣菱」があるじゃーありませんか。今日やると5連チャンになっちゃうので、心を鬼にしてソフトドリンクにしようと決めていましたが、思わず知らず「これを」と指差していました。少し口に含めば、昔やった剣菱と風味が違っています。ちょっと芳醇甘口になっているんです。あぁ、天下の剣菱も世の流行におもねっているのかとラベルを見れば、「超特撰 17.5度」と書かれています。

むかし飲んだのは、もちろん普通の剣菱だったでしょうから、きっとランクのせいなのでしょう。心に残る剣菱とはちがっていましたが、もちろんこれはこれで実にうまい!! 脇にあった立派な化粧箱を見れば、頼山陽と藤田東湖の漢詩が、墨痕淋漓と印刷されています。より一層心に沁みたのは、有名な山陽より東湖の方でした。例により戯訳で紹介することにしましょう。


2019年2月5日火曜日

静嘉堂文庫美術館「お雛さま展」6


 28日の午前中はメディア内覧会です。今回、オーディオガイドをお願いしたのは、天下の名女優・八千草薫さんです。さっそく1台借りて試聴すれば、あのエレガントな声が、僕の耳元でささやいてくれるんです!! 

とはいっても、映画で拝見したのは「男はつらいよ 寅次郎夢枕」のみ、テレビでは、女房が見ていた「やすらぎの郷」でちょっとお会いしただけです。むしろ、山口百恵ファンである僕の記憶によく残っているのは、テレビドラマ「赤い疑惑」で示された、大女優としての毅然たる態度ですね。

夕方からはオープニング・パーティが開かれ、桐村喜世美さんとお嬢さんも福知山から駆けつけてくださいました。挨拶に立った僕は、心を尽くして感謝の辞を述べましたが、司会者から2分以内でと厳命されていたので、饒舌館長としてはしゃべり足りないフラストのままに降壇したことでした(!?) 

2019年2月4日月曜日

静嘉堂文庫美術館「お雛さま展」5


もしその時、何か祈りや願い、あるいは清浄なる気持ちが皆さまのなかに芽生えるならば、やはりお人形さんが根源的にもっている霊力のゆえにほかならないでしょう。もうこんなに美しくソフィストケートされたお人形さんに、呪詛や厄除けを期待する人はいないでしょうが、意識されることもないかすかな記憶の底に、精神作用として沈殿しているように思います。

 27日は午後からトークショーがおこなわれました。登壇したのは日本人形研究所所長の林直輝さんと、ご存知!「青い日記帳」を主宰するカリスマ・ブロガー中村剛士さん、加えて担当学芸員の長谷川祥子さんの3人です。とくに林さんからは、5世大木平蔵によるこれらの作品が、いかに精緻に、いかに高い技術をもって、いかに贅を尽くして作られているか、専門家の立場からの解説があり、なるほどなぁとよく腑に落ちたことでした。

2019年2月3日日曜日

静嘉堂文庫美術館「お雛さま展」4


 その桐村喜世美さんが、このたび我が子にも等しいお雛さまとお人形さんを、静嘉堂文庫美術館に寄贈してくださいました。この英断快挙に、どのようにお礼申し上げてよいものやら、言葉も見つかりません。本当にありがとうございました。胸底より感謝の辞を捧げるとともに、ここにも喜世美さんの祈りと願いが込められているものと拝察しております。 

 5世大木平蔵作の名作お雛さま、お帰りなさいませ!! もちろん、静嘉堂文庫美術館から出ることのなかった小弥太還暦祝いの木彫彩色御所人形にも、登場してもらうことにしました。桐村喜世美さんに改めてお礼申し上げつつ、皆さまと一緒に、そして天上の小弥太・孝子ご夫妻にも加わってもらい、心行くまで堪能することにしたいと思います。

2019年2月2日土曜日

静嘉堂文庫美術館「お雛さま展」3


 だからこそ静嘉堂文庫美術館を発展させた三菱第4代社長・岩崎小弥太は、人形師として世にうたわれた5世大木平蔵に、後世に残るお雛さまを作ってもらおうとしたのです。孝子夫人も夫の還暦をことほいで、同じ作者に木彫彩色御所人形の制作を依頼したにちがいありません。お二人は力を合わせて、さらに時代をさかのぼる雛人形を蒐集したのでしょう。そこに心底からの祈りや願いが込められていたことは疑いありません。

このお雛さまは、いつのころか故あって散逸することになりましたが、また一つずつ心を尽くし、呼び集めてくださったのが桐村喜世美さんです。桐村家は江戸時代から丹波漆の集荷と卸売りを家業としてきた福知山の名家、ここに嫁いだ喜世美さんは、日本人形の素晴らしさに目を開かされ、心血を注いでコレクションにつとめ、茂照庵と名づけた美術館でこれを公開展示されてきました。

2019年2月1日金曜日

静嘉堂文庫美術館「お雛さま展」2


やがて古代後期から中世に入ると、これが子供のために飾ったり、また子供自身が遊んだりする造形物に変化していきます。現在、人形というと、もっぱら玩具的性格を強めた後者を指すために、前者と分けて考えることも行われているようですが、両者は分かちがたく結ばれているはずです。

現在のお雛さまと、神送りのための流し雛の密接な関係を考えてみれば、それは明らかだというべきでしょう。それは仏像の誕生を考えてみると、重要なヒントがもらえるような気がします。土着の信仰から仏教という宗教へと発展したとき、仏像というきわめて美しい造形へと昇華したからです。あるいは垂迹美術を考えてもいいような気がします。いつか機会があったら、「饒舌館長」に雛人形私論をアップすることにしましょう。

渡辺浩『日本思想史と現在』12

  そのとき『君たちはどう生きるか』の対抗馬 (!?) として挙げたのは、色川武大の『うらおもて人生録』(新潮文庫)でした。京都美術工芸大学にいたとき、『京都新聞』から求められて、就職試験に臨む受験生にエールを送るべくエッセーを寄稿したのですが、本書から「九勝六敗を狙え」を引用し...