2019年3月31日日曜日

静嘉堂文庫美術館「春のコンサート」4


すでにアップしましたように、先日『朝日新聞』の声欄に、浅井洋子さんという愛知県に住む80歳の主婦の方が、「誰でも口ずさめる歌があれば」と題して投稿されていらっしゃいました。「川の流れのように」が登場するとてもいい文章だったので、一部を紹介することにしましょう。 

私は昨年8月に亡くなった夫とともに、同年代でもある美空ひばりさんの歌に生きる力をもらってきました。夫の病室で「川の流れのように」のCDをかけると、点滴をして眠ってばかりのように見えた同室の患者さんが反応して目を開けました。何か共有できた思いでした。

このような日本の曲がとくに心にしみたのは、もちろん僕が日本人だからでしょうが、木管楽器が日本の曲にとてもふさわしいからだったような気もします。金管楽器とは異なって、やわらかく落ち着いた音色、そしてときどき哀感を帯びる音の調子が、日本の童謡や歌謡曲にピッタシカンカンだという風に感じられたのです。これが金管五重奏だったら――金管五重奏というものがあるのかどうか知りませんが、こうはいかなかったでしょう。

2019年3月30日土曜日

サントリー美術館「河鍋暁斎展」3


先日、テレビ東京の「美の巨人たち」で、西新井大師総持寺が所蔵する葛飾北斎の「弘法大師修法図」が取り上げられ、僕もコメンテーターとして出演しました。

そして既報の永田生慈さんが再発見したこの傑作について、北斎が没する少し前に大流行した疱瘡(天然痘)と関係するのではないか、もしそうなら右側の犬は、十二神将のうちのバサラ大将に見立てることもできるという、最初に見たときの思い付きを開陳(?)しました。

暁斎の「鍾馗図」も、鍾馗さんが朱で描かれているところから、疱瘡絵と見ることもできそうです。本来の疱瘡絵とは、疱瘡よけのまじないとして、鍾馗や鎮西八郎為朝などを赤摺りにした浮世絵のことですので、これは広義の疱瘡絵というべきかもしれませんが……。これを拡大解釈すると「弘法大師修法図」も広義の疱瘡絵ということになりますが、ちょっと前に思い付きをしゃべったばかりだったので、暁斎の「鍾馗図」がとくに強く印象に残ったというわけです。

言うまでもなく、朱や赤は、疱瘡を防いでくれる色と考えられていました。しかしもしそうなら、「弘法大師修法図」で疱瘡をイメージする鬼が赤鬼なのは矛盾しているじゃないか、犬こそ赤犬であるべきじゃないかなどと突っ込まれそうですが……。


2019年3月29日金曜日

サントリー美術館「河鍋暁斎展」2


しかし、これからこのような伝統性が美的評価の大きな潮流になるかどうか、成り行きが注目されます――そういえば、最近この手の「ナリチューカイセツ」は、とんと見かけなくなりましたね()

 「僕の一点」はプライベート・コレクションの「鍾馗図」です。端午の節句に立てられる大きなノボリに描かれた朱色の鍾馗さんが、本当の鬼を捕まえているところが、いかにも暁斎的なユーモアを感じさせます。一方、鯉のぼりの鯉は、本当の鯉みたいに、あるいは長崎派の鯉みたいに写実的に描かれています。それは描かれた鍾馗が動き出したという虚構と、飾りの鯉が現実化したという虚構の間で、みごとな共鳴を起こすことになります。

「さすが暁斎先生!!」と掛け声をかけたい気分になりましたが、「僕の一点」に選んだ理由はもう一つあります。

2019年3月28日木曜日

サントリー美術館「河鍋暁斎展」1


サントリー美術館「河鍋暁斎 その手に描けぬものなし」<331日まで>

 チラシには、「多様な分野で活躍した画鬼・河鍋暁斎。その画業については、長らく風刺画や妖怪画などに焦点が当てられてきました。しかし近年の研究により、駿河台狩野家の伝統を受け継ぐ筆法と、独特な感性をもとに活躍の場を広げていった姿が明らかになりつつあります」とあります。

僕は純狩野風暁斎をあまり評価しない立場ですが、ニーチェが言ったように、「この世に事実というものは存在しない。存在するのは解釈である」わけですから、どちらを評価するかなんて、重要な問題じゃーありません。

重要なのは、暁斎の伝統性を重視する見方が生まれ始めているという事実です。保守化する現代日本の反映がそこに看取される――なんて大げさなことを言おうとは思いませんが……。

2019年3月27日水曜日

静嘉堂文庫美術館「春のコンサート」3


昭和の終焉を予見するがごとくに、この詩を作った秋元康も、やはり卓越した詩人ですね。もちろんAKB48の「365日の紙飛行機」も悪くありませんが、秋元康の名はこの「川の流れのように」という一曲によって伝えられ、そして残るような気がします。「レグロ」の演奏が始まると、思わず知らず僕は秋元康の詞を口ずさんでいました。

知らず知らず歩いて来た 細く長いこの道 振り返れば遥か遠く 故郷が見える
でこぼこ道や 曲がりくねった道 地図さえない それもまた人生
ああ 川の流れのようにゆるやかに いくつも 時代は過ぎて
ああ 川の流れのようにとめどなく 空が黄昏に 染まるだけ  

先日、『朝日新聞』の声欄に、浅井洋子さんという愛知県に住む80歳の主婦の方が、「誰でも口ずさめる歌があれば」と題して投稿されていらっしゃいました。「川の流れのように」が登場するとてもいい文章だったので、一部を紹介することにしましょう。

2019年3月26日火曜日

静嘉堂文庫美術館「春のコンサート」2


この前の日曜日に、僕は「饒舌館長<光琳と抱一の春>口演す」という館長講座を、いや、おしゃべりトークをやりました。その配布資料に、「春が来た」の歌詞をぜひアップしたかったのですが、必ずA3一枚裏表に収めるということにしているので、あきらめざるを得ませんでした。

しかし、今日「春のメドレー」を聴きながら、僕の駄文なんか少しカットして、やはり載せておくべきだったと後悔したことでした。後悔先に立たずですが、ここに引いておくことにしましょう。

はるがきた はるがきた どこにきた 山にきた さとにきた 野にもきた
はながさく はながさく どこにさく 山にさく さとにさく 野にもさく
とりがなく とりがなく どこでなく 山でなく さとでなく 野でもなく

アンコールは美空ひばりの「川の流れのように」――これまた実によかった!! 発表されたのは昭和63年(1988)、いまから振り返ると、昭和という時代を懐かしむ挽歌のように聞こえます。

2019年3月25日月曜日

静嘉堂文庫美術館「春のコンサート」1


静嘉堂文庫美術館「春のコンサート“木管五重奏”でたのしいひとときを!」(323日)

 今日は企画展「岩崎家のお雛さまと御所人形」にちなむ春のコンサートです。出演は2017年、東京藝術大学内にて結成された「クィンテット レガロ」――正木知花(フルート)、裵紗蘭(オーボエ)、福井萌(クラリネット)、梅島洸立(ホルン)、安井悠陽(ファゴット)の皆さんです。ちなみに、「レガロ」とはイタリア語で「贈り物」の意味だそうです。

プログラムは「イベール/3つの小品より第一楽章」「じゅんばん協奏曲」「ハイドン/ディヴェルティメント」「春のメドレー」「ビゼー/カルメン組曲」でしたが、やはり「春のメドレー」がよく知っている曲ばかりで、軽やかに耳へ飛び込んできました。とくに「春が来た」や「春の小川」こそ、わが国の春を親しみやすく表現した名曲だと思いますが、その作詞を担当した高野辰之は、僕がもっとも尊敬する近代詩人の一人です。正しくは国文学者というべきかもしれませんが、僕にとってはあくまで詩人ですね。

2019年3月24日日曜日

國華特輯号「屏風絵新考」9


すぐれた若き研究者五人が選らんだ作品は十六世紀から十八世紀にわたり、また実証方法や個別的関心の向け方、また理論化のベクトルも異なるようである。しかし、我が国独自の画面形式ともいうべき屏風、一種特徴的な様式を有する屏風絵に対する強い興味が、通奏低音のごとく流れているのを聞くことができよう。この特輯号が、屏風絵研究に新しい地平を拓くことを願ってやまない。

以上が、『國華』<1480>特輯号「屏風絵新考」のために僕が書いた序文です。ちょっと加筆してありますが……。そのあとすぐ、畏友・榊原悟さんから、『屏風と日本人』(敬文舎 2018)という大著をいただきました。腰巻には、「榊原美術史学の最高傑作、誕生‼」とあります。しかも書き下ろしで607ページです‼ 榊原さんは僕より5歳若いだけ、もう想像を絶する絶倫ぶりです‼ そのうち機会を改めて、紹介させてもらうことにしましょう。

2019年3月23日土曜日

國華特輯号「屏風絵新考」8


以下解説に移って、畑靖紀はこれまで図版等で紹介されることのなかった、いわゆる周文系山水図屏風を取り上げ、モチーフの特徴ある描写から、これを周文に学んだと伝えられる鑑貞の作品とする。その有機的な山水構成から、鑑貞が大画面構成力にすぐれ、障壁画をもこなすことができる、職業的能力を有する画家であったと推定している。

山本英男氏は、京都国立美術館で開催する特別展「海北友松」を準備するなかで見出した「海北友松筆檜図屏風」を改めて取り上げ、金碧画でありながらもその得意な金地構成や筆法は水墨画と密接に関係していること、現存する金碧画中もっとも早い制作時期の作であることを明らかにした。

岡田秀之氏は伊藤若冲生誕三百年を祝うがごとく再出現した「花鳥図押絵貼屏風」をテーマに、これとほぼ同時期の初期作と推定される押絵貼屏風五点と描かれたモチーフを比較し、リストにまとめてその特徴を抽出している。そこには「動植綵絵」と同じく、対象を執拗なまでに観察する若冲の姿勢が看取されるという。

2019年3月22日金曜日

國華特輯号「屏風絵新考」7


第一論文は畑靖紀氏の「狩野内膳の南蛮屏風――旧川西家本の再出現をうけて――」である。南蛮屏風の多くが筆者を特定できないなか、豊臣家に仕えた狩野内膳の落款を有する作品が五点知られている。そのうち、長らく行方不明であった旧川西家本が八十年ぶりに出現したのを機に、内膳筆南蛮屏風を総合的に考察した論考である。特に当該屏風については、制作に内膳本人のすぐれた関与を認め、慶長年間後半の制作時期を推定して結論としている。

第二論文は、久野華歩氏の「静岡市新収蔵本『東海道図屏風』をめぐって」である。東海道図屏風は現在十五点ほどが知られているが、久野氏は当該屏風の景観年代を分析して十七世紀半ばから後半、制作時期もその後半として、諸本のなかでも早い時期を推定している。併せて、絵地図や版本、洛中洛外図屏風をもとに東海道図屏風が成立した可能性を指摘して、これまでの通説に見直しを迫っている。

2019年3月21日木曜日

國華特輯号「屏風絵新考」6


伝狩野光信筆「肥前名護屋城図屏風」、俵屋宗達筆「雲龍図屏風」、能阿弥筆「水墨花鳥図屏風」などの屏風絵特輯号も、学界に寄与するところ少なくなかった。また、昭和六十四年(一九八九)春、『國華』創刊百周年を記念し、東京国立博物館で開催した「室町時代の屏風絵」は、水墨画中心であった室町絵画の見方を百八十度転換させる画期的特別展であった。

このような伝統はその後も受け継がれてきたが、ここにまた充実せる内容の屏風絵特輯号を加えることになった。題して「屏風絵新考」という。近年再び世にあらわれて話題を集め、あるいはいまだよく考究されていない屏風五点について、論文および解説を寄稿してもらい、その美的特質をより一層深く掘り下げようと企図した特輯号である。

2019年3月20日水曜日

國華特輯号「屏風絵新考」5


またジェームズ・ホイッスラーは「紫と金の協奏曲№2」に、アルフレッド・ステヴァンスは「別れの手紙」に、欠くべからざるモチーフとして、日本の屏風を登場させたのだった。それだけではない。ピエール・ボナールは、「兎のいる風景」という油彩画の屏風を創り出してしまった。三曲一双という我が国ではあり得ない形式なのが愉快だが、これらは屏風が日本美術独自の画面形式として認識された事実を物語っている。

我が『國華』も、創刊翌年の明治二十三年(一八九〇)、第六号に周文筆「瀟湘八景八景図屏風」と啓書記筆「竹林七賢図屏風」(共に松平茂昭侯爵蔵)をコロタイプで紹介して以来、数多くの出来映えすぐれる屏風を『國華』アーカイブに加えてきた。

2019年3月19日火曜日

國華特輯号「屏風絵新考」4


安土桃山時代、我が国へやってきたイエズス会宣教師は、屏風を「ビオンボ」と呼んでオマージュを捧げたが、それは今もポルトガル語やスペイン語のなかに生きている。

ガスパル・ビレラが故国のパードレたちに宛てた手紙は、京都・本圀寺で見た四季花鳥図屏風に強い興味を示しつつ、その詳細を伝えている。あるいは、ルイス・フロイスの『日欧文化比較』にも、「われわれの部屋は綴織の壁布[タベサリア]、ゴドメシス、フランドルの布で飾られる。日本のは鍍金または黒い墨で画かれた紙の屏風beobusでかざられる」という、とても印象深い比較がある。

それから三百年ほど経って、ヨーロッパにジャポニスムの嵐が巻き起こったとき、エドゥアール・マネは「エミール・ゾラの肖像」に日本の屏風を重要なモチーフとして描きこんだのだった。

2019年3月18日月曜日

國華特輯号「屏風絵新考」3


 この屏風がいかなるものであったかも不明だが、私たちは正倉院に伝えられる「鳥毛立女図屏風」や「唐詩屏風」によって、少しく想像することができよう。


それらは独立する六面のパネルを、接扇とよばれる一種の紐で結び合わせたものであった。やがて二面を一単位とする縁取りとなり、さらに六面一括の縁取りとなって、真なる意味での大画面が成立する。それを推進したのは、紙による蝶番[ちょうつがい]の発明で、十四世紀、我が南北朝時代のことであった。以上は主に、武田恒夫氏の大著『近世初期障屏画の研究』(吉川弘文館)が教えてくれるところである。


この大画面確立以降における屏風絵の飛躍的展開については、改めて述べるまでもないが、それが日本近世絵画を――あるいは日本絵画を特徴づける画面形式であったことに、異国の人々が注意をむけた事実は、大変興味深く感じられるのである。

2019年3月17日日曜日

國華特輯号「屏風絵新考」2


しかし、後漢から三国時代の画像石には、鍵型や人物を取り囲むように立てられる障屏具があらわれる。これこそ屏風のプロトタイプだといってよいであろう。その後、中原の地で屏風という形式が確立したことは、唐時代の長安、いまの西安に遺る韋家墓の「樹下美人図壁画」からある程度想像できるが、その実態となると、これまた闇に包まれている。

いずれにせよ、中国で誕生した屏風が、朝鮮を通して我が国へもたらされたのは、白鳳時代のことであった。『日本書紀』天武天皇の朱鳥元年(六八六)四月十九日の記事は、よく知られるところである。その日、新羅の奉る調が筑紫から貢上されたのだが、これとは別に智祥・健勲らが献上した金・銀・霞錦[かすみにしき]・綾羅[あやうすはた]・金の器・鞍の皮・絹布・薬物など六十余種のうちに、屏風が見出されるのである。

2019年3月16日土曜日

國華特輯号「屏風絵新考」1


 美術雑誌『國華』については、何回かアップしたところですが、最近発行された1480号は「屏風絵新考」と題する特輯号です。編集担当となった僕は、「特輯にあたって」を、つまり序文を書く羽目になりました。例のごとく、大ぶろしきの気味はありますが、改めて多くの方に『國華』を知っていただきたいと思い、ここに再録することにいたしました。もちろん、すでに『國華』をご覧になった方は、スルーしていただいて結構です。

 屏風――それは中国で発明されたものだったらしい。諸橋轍次『大漢和辞典』は、「屏風」という語が、早くも『史記』や『漢書』に出ること、つまり前漢時代には存在したことを教えてくれるが、実態は不明というしかない。それはただ風を屏[ふせ]ぐものという意味であって、さらにさかのぼって古代から用いられていた衝立を指す「扆」[]と厳密に区別することは、ほとんど不可能であるように思われる。

2019年3月15日金曜日

東京都美術館「奇想の系譜展」8


 『奇想の系譜』が出版されてから半世紀、この間に、これら6人の画家は奇想でなくなり、アヴァンギャルドでなくなり、傍流でなくなりました。江戸絵画の主流派に、バージョンアップされたのです。その火付け役こそ辻惟雄さんとされていますが、僕的にいえば、辻惟雄さんは放火魔です() 

 いまや古典的名著となり、文庫本にも収められた『奇想の系譜』の集大成を目指すとともに、新しく禅画の白隠慧鶴と江戸琳派の鈴木其一を加え、昭和・平成の次に訪れる新時代の<奇想の系譜>を楽しんでもらうべく企画されたのが、この「奇想の系譜展 江戸絵画のミラクルワールド」です。

もちろん辻惟雄さんが特別顧問を買って出てくれましたし、監修は辻さんの弟子で、いまや美術ファンで知らない人はモグリとされ、また最近は「初老耽美派」としてデビューした山下裕二さんです。現在の江戸絵画ブーム、いや、日本美術ブームを象徴する、絶対見逃せない特別展です!!

2019年3月14日木曜日

東京都美術館「奇想の系譜展」7


ピンキーとキラーズ、寺山修司、沢村忠、高倉健と藤純子、コント5号、永井豪『ハレンチ学園』、つげ義春『ねじ式』、橋本治「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへいく」などの写真が目に入ります。先日亡くなった橋本治さんをはじめとして、多くの方が鬼籍に入られていますが……。

それらは単に懐かしいだけじゃーありません。振り返ってみると、因習の破壊であり、新しい文化の誕生だったことが再確認されます。

『奇想の系譜』は、このような日本社会における大きな変化の潮流に棹差すようにして生まれ出たのでした。いや『奇想の系譜』は、その大きな変化を生み出すのに与って力あった、すぐれた知的結晶の一つだったと言う方が正しいでしょう。

2019年3月13日水曜日

東京都美術館「奇想の系譜展」6


昭和41 (1966)年度の「国民生活白書』によれば、東京都内に住む主婦の9割近くが中流意識をもつに至っています。それは不思議な高揚感をもって、あのバブル狂乱へと少しずつわれわれを駆り立てていくことになるのです。

しかし社会には、さまざまなひずみが生じていました。ある種の閉塞感 も漂っていました。これらを打破すべく、新 しい価値の追求が始まっていました。政治的な場合もあったし、ノンポリ的な立場もありましたが、いずれにせよ伝統的体系に対する懐疑でした。

いま僕は『20世紀年表』(毎日新聞社) を引っ張り出し、昭和43年のページを開いて写真を眺めています。もちろん圧倒的に多いのは、<政治的>イメージの方ですが、それらに混じって……

2019年3月12日火曜日

東京都美術館「奇想の系譜展」5


国芳は美人画と役者絵の両方面に数多くの作品を残したとはいえ、初代豊国の示した退廃的傾向をよりいっそう推し進めた浮世絵師の一人にすぎないのです。

もちろん僕は、『日本美術全史』の欠点をあげつらっているのではありません。それどころか、本書は当時の最高水準をいく啓蒙書でした。学部の専攻課程に進んだとき、まず初めに通読を勧められたのが本書でした。だからこそ、当時における江戸絵画史の研究や評価の状況を知るためには、何をおいても参照されなければならない本なのです。

 『奇想の系譜』が書かれたころ、日本社会は大きな転換期を迎えていました。昭和31(1956)年の「経済白書』が、「もはや、<戦後>ではない」と宣言してから10年ほどが経ち、この間わが国は、驚くべき経済発展を続けていました。

2019年3月11日月曜日

東京都美術館「奇想の系譜展」4


  『奇想の系譜』の10年ほど前に出版され、 教科書のように使われていた日本美術史の通史に『日本美術全史』(美術出版社) があります。あの懐かしい海老茶色の表紙を開いてみましょう。

すると又兵衛は江戸時代初頭に出たスケールの小さい異色画家の典型であり、山雪は桃山様式の固定化に陥って画致硬く、平板でうるおいを失った画家となっているのです。さすがに若沖は注目すべき画家と見なされていますが、 円山・四条派の終わりにちょっと顔を出すだけです。

蕭白に至っては、奇矯にすぎてこの時代の退廃的な一面を反映するものと斬って捨てられています。今や京都奇想派の双璧と称えられる蕭白がこの扱いです。芦雪の評価は低くありませんが、 円山応挙(173395)の弟子として 源崎(174797)や月僊(17411809)、渡辺南岳(17661823)と併記されるに止まっています。

2019年3月10日日曜日

東京都美術館「奇想の系譜展」3


日本ばかりじゃーありません。2012年、ワシントンDCのナショナル・ギャラリーで開催された若冲展――「色彩王国」と題された若冲展の国際シンポジウム第2部「江戸時代のアーティスト」には、僕も参加させてもらいましたが、展覧会の方はものすごい人気でした。ご興味のある方は、秋田県立近代美術館HP→おしゃべり名誉館長→過去のおしゃべり→2012年4月をご笑覧くださいませ。

去年、「ジャポニスム2018」の一環として、パリのプチ・パレ美術館で開催された「若冲――動植綵絵を中心に」展も大成功だったそうです。アドバイザーをつとめて現地におもむいた辻さんや、小林忠さんから直接お聞きしました。今や海外における若冲人気は、葛飾北斎をもしのぐものがあるように感じられます。

しかし『奇想の系譜』が書かれたころ、状況はまったく違っていました。彼らは江戸時代のマイナー・ペインターでした。単なる異端の画家でした。近世絵画史のトリックスターにすぎなかったのです。

2019年3月9日土曜日

東京都美術館「奇想の系譜展」2


 それは江戸時代における表現主義的な画家――奇矯で幻想的なイメージの表出を特色とする画家――の系譜をたどった本でした。

今でこそこの6人は、江戸時代を代表するマイスターとなっています。とくに若沖などは、江戸時代、いや日本最高の画家と評価する人も少なくありませんし、江戸時代画家の人気投票を行ったら、間違いなくトップにランクされるでしょう。その人気ぶりは、ヤフーやグーグルで検索をかけてみれば一目瞭然なのです。

一昨年、辻さん監修のもと、東京都美術館で開かれた若冲展では、5時間半待ちの行列ができ、昏倒するご老人がたくさんでたことが、新聞やテレビで報じられたほどでした。

2019年3月8日金曜日

東京都美術館「奇想の系譜展」1


東京都美術館「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」<47日まで>

 奇想――奇想天外の奇想です。辞書には奇想天外=普通の人の思いもつかない考えなどと書いてあります。奇抜な考えが、 天から降ってくるようにわいてくることです。昭和43(1968)年、そんな奇想天外なる江戸時代の画家たちを集めて、評伝「奇想の系譜 江戸のアヴァンギャルド」が美術雑誌の『美術手帖』に連載されました。去年がちょうどその50周年という記念の年でした。著者は新進気鋭の美術史家・辻惟雄さんでした。

選ばれたのは岩佐又兵衛(15781650)、狩野山雪(15901651)、伊藤若沖(17161800)、曽我蕭白(173081)、 歌川国芳(17971861)の5人でした。その2年後、もう一人長沢芦雪(175499)が加えられ、蕭白描く墨龍の奇妙な寄り目がハード・カバーを飾る『奇想の系譜』(美術出版社)が出版されました。

懐かしくなり、いま書架から引っ張り出してパラパラとページを繰っていると、朝日新聞・昭和45421日版に載った書評と、「著者と一時間」というインタビュー記事の茶色く変色した切り抜きが出てきました。「東京国立文化財研究所で」というキャプションをつけられた辻さんの写真がすごく若々しい――というより、すごくカワイイ‼

2019年3月7日木曜日

追悼ドナルド・キーン先生 7


 キーン先生は、先日も「饒舌館長」に登場願った永井荷風が真率慰められたという、枕山の安政元年詠七絶を掲げています。確かにすごくいい!! 例により、僕の戯訳で……

  戦いを詠む杜牧の詩 賞揚するな そんなもん

  陶淵明の飲酒の詩 も一度読んでみてごらん

  小さな部屋をカーテンで 暗くし往時をしのぶべし

  端本と樽の残り酒 人生それで充分だ‼

「戦いを詠む杜牧の詩」とは「烏江亭に題す」を、「陶淵明の飲酒の詩」とは、かの有名な「菊を採る東籬の下……」を含む20首を指しているにちがいありません。いまごろキーン先生は、親しかった川端康成や三島由紀夫や安部公房と、天上で日本文学談義に花をさかせていらっしゃることでしょう。

2019年3月6日水曜日

追悼ドナルド・キーン先生 6


ドナルド・キーン先生ご逝去の報に接し、さまざまな思い出がよみがえるとともに、書架から『日本文学散歩』(朝日選書 1975)を引っ張り出してきて、はじめて読んだ時もっとも強い印象を受けた「大沼枕山」の章を再読しながら、先生をしのびました。枕山は幕末明治に活躍した漢詩人、その生き方については、キーン先生をそのまま――篠田一士先生の訳によって引用しておきましょう。

枕山は明治維新のもたらした変化を余りにも慨嘆したので、明治十一年にいたるまで彼の町を江戸と呼び続けた。またその悲しみを酒にまぎらした。門人のひとりは、枕山が死ぬまで盃と縁を切らなかったと書いている。晩年、彼は、もう誰も着ない服装をして、まだ髷を結んでいたために人から嘲られる、滑稽な風采の人となった。明治二十四年、七十三歳で病んだ時は、薬を拒み、もう十分に生きたと言った。その通りだった。彼は彼の時代より長生きをし過ぎたので、彼の周囲の世界は悲しくも堕落したようにみえたのだ。知識階級の武士の用語だった漢詩で書かれた彼の詩は、伝統的漢詩には稀な鋭い観察に満ちている。それは今もって面白く、また新しい日本の最初の瞥見をわれわれに与えてくれるのである。

2019年3月5日火曜日

追悼ドナルド・キーン先生 5


2008年は源氏物語一千年紀という節目の年にあたっていました。キーン先生はそれを記念するプロジェクトの呼びかけ人となって活躍されましたが、その前年に、僕もちょっとお手伝いしている鹿島美術財団の美術講演会に、特別講師をお願いしたのです。

その講演会のテーマが『源氏物語』に決まったので、お忙しいことは重々承知のうえで、どうしてもキーン先生にご登壇いただきたかったのです。この美術講演会が大変な人気を集めたことは、改めていうまでもありません。

もちろん、『源氏物語』一千年紀プロジェクトも成功裏に終了し、『源氏物語』がはじめて『紫式部日記』に現れるという111日が、「古典の日」に決まったのでした。2015111日から2日にわたり、京都国際会館で開催された琳派400年記念祭フォーラムと国際シンポジウムについては、すでに「K11111のブログ」にエントリーしたことがありますね。

2019年3月4日月曜日

追悼ドナルド・キーン先生 4


ふたたびキーン先生にお会いしたのは、2004年のことでした。僕は美術雑誌『國華』の編集委員をつとめていますが、その國華社が中心となって、毎年すぐれた美術史の研究業績に対し國華賞を差し上げています。

 2004年度16回國華賞には、玉蟲敏子さんの大著『都市のなかの絵――酒井抱一の絵事とその遺響――』と、石松日奈子さんの論文「雲崗中期石窟新論――沙門曇曜の失脚と胡服供養者の出現――」が選ばれましたが、その贈呈式に際し、キーン先生には「渡辺崋山の肖像画について」という特別講演をしていただいたのです。すでに追悼の辞をアップしたことがある國華事務局長・天羽直之さんが、キーン先生と親しかったことから生まれた企画でした。

この示唆に富む講演は、翌年の『國華』1321号に活字化されましたが、その2年後、キーン先生はこれを含めて『渡辺崋山』と題するモノグラフを新潮社から出版されました。最初に特別講演をお願いした際、ある古美術商さんのもとへ先生を案内し、与謝蕪村の傑作「峨嵋露頂図巻」を見ていただいたことも忘れることができません。

2019年3月3日日曜日

追悼ドナルド・キーン先生 3


シンポジウムでは、ローゼンフィールド先生のキーノートスピーチに続いて、僕の発表となりました。ローゼンフィールド先生は東洋美術の偉大な研究者でしたが、すばらしいユーモアのセンスに溢れています。僕を紹介してくださった最後に、一言付け加えました。「東京大学では教授も家元制度によって選ばれるんです」――間髪を置かず大爆笑がおこりました。

キーン先生の発表は、能と狂言の家元制度に関するものでした。あぁこれが有名なキーン先生なんだと耳をそばだてて聴きましたが、英語のため、よく分かりませんでした(!?)

7人の発表が終わり、そのあとのレセプションも時過ぎにお開きとなりました。タクシーを呼んで、「ハーバード・クラブまで……」というと、連れて行かれたのは、原色のネオンまたたく「ハーバー・クラブ」というボストン港を望むバーでした。これも何かの縁とばかりに一杯ご馳走になり、改めてハーバード・クラブに向ったことはいうまでもありません(!?)

2019年3月2日土曜日

追悼ドナルド・キーン先生 2


ロサンジェルス経由で夜の9時にボストン空港に着くと、ローゼンフィールド先生がみずからクルマで迎えに来てくださっていました。恐縮の至りとは、こういうことを言うのでしょう。

指定された宿舎は、ハーバード大学卒業生会館とでもいったらよいのでしょうか、格式を誇るハーバード・クラブでした。その建物は1913年に建てられたそうで、その重厚な感じは、一般的なアメリカのホテルには求めることができないものです。

その朝、食堂に下りていくと、キーン先生はすでに席につかれていらっしゃいました。もちろんすぐに分かりましたし、キーン先生も発表されることを知っていましたので、「おはようございます。失礼ですが、今回先生と一緒に発表させていただく河野元昭と申します。よろしくお願いいたします」と、自己紹介をさせてもらいました。もちろん日本語で(⁉)

2019年3月1日金曜日

追悼ドナルド・キーン先生 1


 ドナルド・キーン先生が、この224日に96歳でお亡くなりになりました。ご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

早くから先生の御著書のいくつかは拝読しておりましたが、はじめてお会いしたのは1993123日のことでした。この日、ボストンのイサベラ・スチュワート・ガードナー美術館で、”Competition and Collaboration: Hereditary Schools in Japanese Culture”という国際シンポジウムが開かれました。ブッチャケていえば、「日本の家元制度」ということになります。

コーディネーターのハーバード大学教授ジョン・ローゼンフィールド先生から招待状をいただいた僕は、狩野派におけるワークショップ・システムについて発表することにして、4日前に成田空港からユナイテッド航空でボストンに向いました。

渡辺浩『日本思想史と現在』8

  渡辺浩さんの『日本思想史と現在』というタイトルはチョッと取つきにくいかもしれませんが、読み始めればそんなことはありません。先にあげた「国号考」の目から鱗、「 John Mountpaddy 先生はどこに」のユーモア、丸山真男先生のギョッとするような言葉「学問は野暮なものです」...