2017年5月31日水曜日

国華「田能村竹田の勝利」とエルヴィス・プレスリー1


 田能村竹田は我が愛する文人画家のひとりですが、僕が文人画について教えてもらった吉澤忠先生に、「田能村竹田の敗北」という名論文があります。昭和20年代の美術雑誌『國華』に連載され、のちに論文集『日本南画論攷』に収録されています。

この書名からも明らかなように、日本の文人画は南画と呼ばなければならないというのが吉澤先生のご意見でしたが、僕は何となく文人画という言葉に愛着を感じ、このところはずっとそう呼んできました。吉澤先生、お許しください!! 

吉澤先生は、竹田の現実に対する鋭い認識や、温かい人間的愛情、誠実な自己批判を認めながらも、結局竹田が藩の役職を辞め、経世済民に力を注ぐべき公的世界からドロップアウトしたことは、敗北の烙印だったという観点に立って、あの素晴らしい論文を執筆されました。

2017年5月30日火曜日

両界曼荼羅私論補遺4




しかしもともと中国では、金剛界曼荼羅を東側に東の方を向けて、胎蔵界曼荼羅を西側に西の方を向けて掛けるのが基本であったのではないでしょうか。こうすると、両界曼荼羅の方位と陰陽の方角が正しく一致するからです。

これが日本に入ってきて、いくつかのバリエーションが生まれたのは、方角方位をあまり厳密に考えなかったためか、陰陽の観念が薄かったからに違いありません。すでに述べたとおりです。改めて中国の場合や日本の例をさらに調べることをお約束して、あまりに長くなった曼荼羅私論を一応閉じることにしましょう。
 

2017年5月29日月曜日

両界曼荼羅私論補遺3


 また東大寺両界堂といったのは、東大寺大仏殿が正しいようですが、その灌頂会図?は弘安7年(128410月に行なわれたものです。これは醍醐寺に所蔵されているそうですが、この図を見ると、蓮華座の東側に金剛界曼荼羅、西側に胎蔵界曼荼羅が掛けられたようです。つまり通常と反対の東金西胎です。

さらに文字の向きをみると、中央の蓮華座の方に文字の頭を向けていますので、金剛界曼荼羅は東側から、胎蔵界曼荼羅は西側から見るように、つまり絵の裏側を蓮華座の方に向けて掛けられたものと推定されます。

そうだとすると、醍醐寺五重塔初層壁画と同じ配置になります。日本でも僕が考える理想的配置が行なわれていたのです。このように見てくると、両界曼荼羅の掛け方に絶対的決まりはなかった――少なくとも日本ではなかったというのが実情に近いようです。

2017年5月28日日曜日

両界曼荼羅私論補遺2


ちなみに神護寺真言堂においても、東側に胎蔵界曼荼羅、西側に金剛界曼荼羅を掛けていた可能性が高く、おそらくは高雄曼荼羅であったろうと、藤井恵介さんは推定しています。これまた送ってもらった藤井さん執筆の論文「真言密教における修法灌頂空間の成立」(『仏教芸術』150)によって知ることができました。

これらは僕が考える両界曼荼羅の理想的配置と背馳!?していることになります。しかし強弁すれば、「東寺灌頂内道場図」の配置はあまりはっきりしないともいえます。また神護寺真言堂の場合は、藤井さんの推定であって、当時の配置図や記録が残っているわけじゃないということになります!?

2017年5月27日土曜日

両界曼荼羅私論補遺1

 先に三井記念美術館の「西大寺展」を紹介し、その紺紙金泥「両界曼荼羅図」を「僕の一点」に選んで駄弁を弄しました。その後、すでに紹介した三本周作さんに「饒舌館長」をご笑覧いただきたい旨メールしたところ、大変心こもるお返事をいただき、研究者としての真摯な態度に深く心を動かされました。

まず、僕が神護寺真言堂と紹介したのは、東寺灌頂内道場が正しいそうです。この「東寺灌頂内道場図」は、東寺に所蔵される重要文化財指定資料で、仁平4年(115436日に行なわれた灌頂会の様子を平面図化したものです。もっとも書写年代は南北朝時代らしいのですが……。

講演を聞きながらチラッとスライドで見ただけだったので、僕は方位などを誤認していました。三本さんから送ってもらった図をよく見ると、西側に金剛界曼荼羅、東側に胎蔵界曼荼羅の敷曼荼羅をしつらえたようです。断定はむずかしそうですが、もしそうだとすると、東胎西金という一般的な配置になりますから、先にアップしたことは、すべて削除して訂正しなければなりません。

2017年5月26日金曜日

NHKカルチャー日本美術史8


また私は、土偶が吊り下げられたであろう柱木からトーテム・ポールを想起したが、この点に関しても、すでに研究が行なわれていることを知ってうれしかった。それは谷川磐雄「石器時代宗教思想の一端」(1)(2)(『考古学雑誌』1345 19221923)で、わが国原始社会における動物信仰を通して、その基層に醸成されたトーテミズムの痕跡を摘出した論文であるという。

このほか、「甦りの世界観」や「土偶がない縄文世界」などの疑問、弥生時代に入って土偶が消滅した理由など、じつに興味深い問題がたくさん残されていることを原田氏から学んだ。土偶は奥が深いのだ。

そもそも拙論には、縄文草創期から晩期に至るクロノロジカル的視点がまったく欠落していた。原始美術を専門としない私には、如何せん手に余るが、不可避の問題であることはよく理解できた。しかしすべては、今後の考察に委ねることにしよう。

2017年5月25日木曜日

NHKカルチャー日本美術史7



 この拙論を私は、第4回国際文化フォーラムの思い出、つまりディスカッサントとして、キーノート・スピーカーの三輪嘉六先生に対し、「日本文化は東日本から東北から」と反論したことから書き出した。会場となった九州国立博物館の展示、「海の道、アジアの路」で見た土偶の東西比較をその証拠として持ち出したのだが、縄文遺跡の東高西低という分布状況がその前提となっていたことは、改めて指摘するまでもない。

ところがこのたび原田氏によって、現在のところ縄文草創期までさかのぼる唯一完形の土偶、言ってみれば現存最古の土偶は、三重県粥見井尻遺跡出土のものであることを教えられた。平成に入って間もなく発見された土偶で、それまで最古とされていた茨城県花輪台貝塚出土の早期の土偶をさらにさかのぼるという。私としてはいささか残念だが、東日本からも草創期の完形土偶が出土することを、祈る気持で待つことにしよう。

2017年5月24日水曜日

シングルモルト・スコッチウィスキー「カリラ 23年」


 ある外国人美術コレクターから頂戴した絶品です。「カリラ」のローマ字表記は”COAL ILA”――ラベルにそう書いてあります。COALはゲール語で海峡、ILAはアイラ島だそうです。アイラ島はスペイサイドと並ぶスコッチの本場です――ウィスキーファンから、「そんな分かり切ったことを、麗々しく書いたりするな!!」と怒られそうですが……。

日本ではラフロイグ、ボウモアが有名ですが、土屋守さんの『シングルモルトウィスキー大全』によると、このちっちゃな島に、9つも醸造所があるようです。これまたウィスキーファンなら常識に属することですが、アイラ島のスコッチはみなピーティです。

「カリラ 12年」はやったことがありますが、「23年」なんて初めてです。考えてみると、ほかのブランドのブレンディッドでも1回やったことがあるだけです。そもそも先の『大全』にも、18年があるとは書いてありますが、23年のことなど一言も触れられていません。

胸をときめかせてビロード張りの箱から取り出し、封を切り、ストレートで一口含んでみました。スモーキーフレーバーが口全体に広がるとともに、火矢が喉を突っ走ります。ものすごく強い!! ラベルを見ると54.6%と書いてあります。強いはずです。

オンザロックにし、グラスを回しながら氷を多めに溶かしつつやることにしました。土屋さんの「アイラモルトとしては比較的軽くドライだが、個性は強烈。スモーキーでピーティ。ピリッとした辛さが舌に残る」「加水をするとフレッシュでスィート」という評はまさに正鵠を射るものだと感じつつ、心行くまで堪能したことでした!?

NHKカルチャー日本美術史6



このような土偶懸垂説をはじめて唱えたのが誰か知らないが、土版については大野延太郎(雲外)が最初で、「土版と土偶の関係」(『東京人類学会雑誌』12131 1897)として発表されたという。土版とは、縄文晩期、おもに関東東北地方で作られた板状土製品である。携帯の便のために、土偶を簡略化した一種の護符と考えられているが、この定説も大野に始まるようだ。これは私にとってもきわめて重要な論文であるから、やや長文にわたるが、原田氏をそのまま引用する。

土版の性格を、その多くに懸垂用の孔がみられることから、これが「要スルニ一の携行品ナルガ如ク考」えられ、「何カ宗教上護身用或ハ符号ノモノナランカト推考セラルル」と指摘した。また土偶との関係については、挿図を示して「此ノ両図ヲ比較シ自ラ親密ノ関係アル事ヲ知ルベシ」と結ぶ。これは、土偶と土版のように、異種の異物間にも、文様の類似や系統を追うことで、その用途に類似性が指摘できる場合もあることを示した、最初の論文である。

2017年5月23日火曜日

NHKカルチャー日本美術史5



また「板状土偶」(縄文後期 青森県鳥井平4遺跡出土)では、「腕の表現はないが、胴体の上部が左右に張り出し、その部分には縦方向に貫通孔が穿たれていて、この土偶が懸垂できるようにもなっている」ことに注目している。

しかし、積極的には懸垂使用が認められない遺品もあるようだ。例えば「板状土偶」(縄文前期 岩手県塩ヶ森遺跡出土)について、「胴体にある円孔は、懸垂用とも考えられるが、あまり擦れた痕がある個体はなく、体部装飾の技法の一つなのかも知れない」としているのである。

なお有名な「東北のビーナス」(縄文中期 山形県西ノ前遺跡出土)の円孔に関しては、「顔面表現はなく、頭部の円孔に皮製などの仮面を被せたか、という意見もある」としている。懸垂使用は推定されていないようだ。

 

2017年5月22日月曜日

NHKカルチャー日本美術史4


私は多くを学ぶとともに、勝手に推定もしくは想像していたことが、すでに考古学の学問世界で指摘されていることを知った。また私見を再考する必要にも迫られた。これらに関しては、また改めて考えてみたいと念じているが、今は若干のメモを書き残すだけに止めよう。

 土偶は神あるいは精霊の象徴として、高い柱木に吊り下げられたのではないかと私は考えた。もちろんすべてではないが、たとえば祭祀などに際し、そのようにして祀られる場合も少なくなかったのだろうと推測した。この点に関し、原田氏は同様に懸垂の可能性を指摘している。

例えば「板状土偶」(縄文中期 青森県三内丸山遺跡出土)について、「後頭部には懸垂用のような一対の把手がつく」とする。「ハート形土偶」(縄文後期 福島県荒小路遺跡出土)では、「後頭部には複雑な突起が絡みあって、吊るすことができるような印象も与える」としている。

2017年5月21日日曜日

NHKカルチャー日本美術史3


 この「秋田の美術によせて 原始美術(2)(3)」は20101月に脱稿したが、編集の都合上、『秋田美術』46号と本47号に分載されることになった。その46号発行と相前後して、文化庁主任文化財調査官・原田昌幸氏の『土偶とその周辺』Ⅰ・Ⅱ(日本の美術526527 ぎょうせい 2010)が出版された。原田氏はすでに指摘した文化庁海外展「土偶」(THE POWER OF DOGU)と東京国立博物館特別展「国宝 土偶」を主導し、みごとな成功へと導いた研究者である。

「土偶に秘められた面白さを、考古学的な情報を主にさまざまな視点から眺めてみたい」という趣旨のもとに書き下ろされた本書は、現在望みうる最もすぐれた土偶関連単行図書であろう。啓蒙的でありながら学術的であり、実証的でありながら氏独自の新鮮な見解が打ち出されている。最新の情報を盛り込みながら、長い歴史をもつ土偶研究史への目配りもおろそかにはされていない。

 

2017年5月20日土曜日

NHKカルチャー日本美術史2



①深鉢 縄文時代前期 山梨県花鳥山遺跡出土 國學院大學考古資料館蔵

②深鉢(火炎土器) 縄文時代中期 新潟県笹山遺跡出土 十日町博物館蔵

③土偶(縄文のヴィーナス) 縄文時代中期 長野県棚畑遺跡出土 茅野市尖石考古館蔵

④土偶(うずくまる土偶) 縄文時代後期 青森県風張遺跡出土 八戸市博物館蔵

⑤朱彩壷 弥生時代後期 東京都大田区久が原出土 個人蔵

⑥袈裟襷文銅鐸 弥生時代中期 兵庫県桜ヶ丘遺跡出土 神戸市立博物館蔵

⑦冠をかぶる男子埴輪 福島県神谷作101号墳出土 福島県教育庁蔵

⑧直弧文鏡 4世紀 奈良県新山古墳出土 宮内庁蔵

⑨珍敷塚古墳壁画 6世紀 福岡・古井町教育委員会

⑩竹原古墳壁画 6世紀 福岡県教育委員会

2017年5月19日金曜日

NHKカルチャー日本美術史1


NHKカルチャー・スクール<1年で学ぶ教養講座>日本美術史①(428日) 

 僕らの館はNHKカルチャー・スクールとのコラボで、静嘉堂文庫美術館鑑賞ツアーをやっています。それが縁となって、「1年で学ぶ教養講座」で日本美術史をしゃべってほしいというオファーがきました。月1回、112回で完結する講座だそうで、始める前に、静嘉堂文庫美術館の宣伝をやっても構わないというOKをもらったので、お引き受けすることにしました。

ベストテン方式で進めることにして、今日の「原始美術」では次の10点を選びました。これにキーワードと、これまで書いた拙論やブログの一部をピックアップして配布資料を作りました。ベストテンのあとに掲げたのがその一部で、秋田県立近代美術館の紀要『秋田美術』45号から47号にわたって寄稿した「秋田の美術によせて 原始美術」の追記部分です。

2017年5月18日木曜日

三井記念美術館「西大寺展」19



僕の考えてきた曼荼羅の陰陽と自然の方角を一致させる合理的配置法が、じつは我が国でもごく普通に行なわれていたのです。裏表の問題は残っていますが……。密教美術に詳しくなかったため、これらの平面図をまったく知らず、日本の密教灌頂会では東壁に胎蔵界曼荼羅、西壁に金剛界曼荼羅と思い込んでいました。

そのため、ずいぶん回りくどい推論と証明を繰り返してきましたが、話は簡単だったのです。いずれにせよ、私見は間違っていなかった――こんなうれしいことはありません!!

このような両界曼荼羅の配置は、当然中国に発するものに違いなく、すでに指摘したごとく、そのオリジンを恵果に求めるのが正しいのではないでしょうか。この点も三本さんにお聞きしたところ、即答はむずかしいので、これから調べてみましょうと約束してくれました。そのあと美味しいお料理が待つレセプション会場に向かいましたが、じつに気分爽快、濃い目のウィスキー水割りを特注して、みずからに乾杯したことでした!?

 

2017年5月17日水曜日

三井記念美術館「西大寺展」18


これを解決する掛け方は、醍醐寺五重塔初層のように、お坊さんの方に曼荼羅の裏を向け、絵を外側にするしかありません。実際、そのように掛けられたのではないでしょうか。絵の裏側にお坊さんが座って修法を行なうなんて、ちょっと変な気がしますが、陰陽と方位方角を一致させるためには、この掛け方しかあり得ません。

表裏の問題は、さらに考えてみたいと思いますが、ともかくも、東側に金剛界曼荼羅、西側に胎蔵界曼荼羅を掛けたことを、この平面図は物語っています。

さらに三本さんは、東大寺両界堂の平面図も写し出してくれました。これも鎌倉時代のものだそうですが、中央に大日如来像が安置され、その右側つまり東側に金剛界曼荼羅、左側つまり西側に胎蔵界曼荼羅が掛けられたことが分かります。

2017年5月16日火曜日

三井記念美術館「西大寺展」17


しかし聞いていた僕が、飛び上がるほどうれしくなったのは、神護寺真言堂の平面図がスクリーンに写し出されたときでした。今はなくなってしまった真言堂の平面図で、鎌倉時代のものだそうです。そこで灌頂会が行なわれたときの平面図なのですが、東側に金剛界、西側に胎蔵界と四角に囲って書いてあるではありませんか。

発表終了後、改めて三本さんにお訊ねすると、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅を掛け、その中央にお坊さんが座って灌頂会を行なったそうです。生身のお坊さんと心柱を取り囲む壁画という違いはありますが、醍醐寺五重塔初層の荘厳とまったく同じだといってよいでしょう。

ただし、その平面図から裏表をどのように掛けたかはよく分からないようでした。普通に考えれば、お坊さんの方に絵を向けて掛けたように思われますが、すでに述べたところから明らかなように、曼荼羅の方位と自然の方角が齟齬してしまいます。

2017年5月15日月曜日

三井記念美術館「西大寺展」16


 前回でオチをつけ、曼荼羅暴論はこれで終りにするつもりでしたが、その後、とても重要な発表を聞く機会がありました。512日行なわれた鹿島美術財団賞受賞記念講演です。今年も二人の研究者が選ばれました。日本東洋部門は、和歌山県教育庁の三本周作さんで、「愛知・瀧山寺伝来の鎌倉時代初期慶派作例に関する調査研究」という発表が行われました。

瀧山寺は、名古屋大学時代、岡崎市文化財調査のときにおもむいたことがある真言宗のお寺です。ここには運慶の聖観音・梵天・帝釈天三尊像が伝えられているのですが、その造像背景を鎌倉幕府の王権志向から――ぶっちゃけていえば王権利用から読み解こうとしたとても刺激的な発表でした。


2017年5月14日日曜日

三井記念美術館「西大寺展」15


 ところで、僕も多くを学んだ正木晃さんの『マンダラとは何か』(NHKブックス)によると、胎蔵界曼荼羅で上が東になっているのは、インド人が東を尊ぶので、礼拝者から見て本尊を東に配したためだそうです。また、金剛界曼荼羅が逆になっているのは、密教者が瞑想して自分自身が曼荼羅の中に入ろうとしたため、つまり礼拝される側へと逆転したので、曼荼羅の方位も逆転したためとされています。

とくにこの金剛界曼荼羅については、曼荼羅研究の最高権威にして、「マンダラボーイ」として敬愛されて散る田中公明さんの説だそうですから、とても僕などに異を唱えられるものではありません。しかし上に述べた私見も、マンダラ、いや、マンザラではないと密かに思っているのですが……。少なくとも、「虎吉社長」にこのバージョンアップ版曼荼羅私論を諄々と説いたところ、僕の方を見ながらじっと聞いていたのですから!?

2017年5月13日土曜日

三井記念美術館「西大寺展」14


 もし大日如来像の両脇に、両界曼荼羅をこのように掛ければ――両界曼荼羅の裏面を大日如来像の方に向け、絵を外側に向けるように掛ければ、方位の観点からも陰陽思想の点からも、きわめて合理的であり、矛盾がありません。両界曼荼羅が誕生した中国では、このような荘厳が広く行われていたのではないでしょうか。それがこの五重塔壁画に残っているのだと言ってもよいでしょう。

中国のことを調べてみたのですが、この問題に言及したものは見つかりませんでした。いつか、中国仏教絵画の専門家に聞いてみたいと思いますが、僕は両界曼荼羅を創案して空海に伝えたと推定される唐の恵果が、インド伝来の方位と中国的陰陽思想を巧みに調和させる荘厳配置を編み出したのだと考えたいのです。

これが日本に入ってこなかったのは、あるいは入ってきたけれども一般化せずに、東壁に胎蔵界、西壁に金剛界を掛けることになった理由はよく分かりません。修法儀式のとき、大きな両界曼荼羅で大日如来像が隠れてしまうことを、視覚的イメージを重視する日本人が嫌ったためでしょうか。あるいは、陰陽の観念が薄かったために、理解しやすい方位だけを重視したのでしょうか。

2017年5月12日金曜日

三井記念美術館「西大寺展」13


 この金剛界を東側から、胎蔵界を西側から拝めば、すでに指摘したような両界曼荼羅と自然の方位が一致することになります。しかも僕が陽と考える金剛界が東側に、陰である胎蔵界が西側にあるわけですから、陰陽思想の観点からも、まったく矛盾がありません。

醍醐寺五重塔初層の柱絵・壁画においては、東側に金剛界、西側に胎蔵界となっていて、通常の配置とは反対になっているように見えますが、決してそうではありません。そうでないどころか、方位および陰陽の二点からみて、きわめて合理的に考えられています。以上の事実は、425日、醍醐寺で行われた『國華』清話会特別鑑賞会で拝見し、確認したことでした。

その時ある法要が行われていたのですが、中心となる一人のお坊さんは、北側の中央に座って「理趣経」を唱えていました。つまりこのお坊さんから見ても、金剛界は東側に、胎蔵界は西側にあるということになります。

2017年5月11日木曜日

三井記念美術館「西大寺展」12


 それでは、両界曼荼羅を同時に掛ける場合、方位と陰陽を齟齬なくするにはどうすればよいのでしょうか。そのヒントは、醍醐寺五重塔初層の壁画にあります。952年に完成した五重塔の初層内部は、両界曼荼羅で荘厳されています。

現在、心柱を取り囲む4本の柱は新しい素木の柱に取り替えられているのですが、本来はそこに両界曼荼羅が描かれていました。その一部が宝物館に展示されています。

「辻惟雄先生と行く敦煌・龍門の旅」以来、とくに親しくさせてもらっている有賀祥隆さんからいただいたその平面図によると、東側の2柱に金剛界が、西側の2柱に胎蔵界が描かれています。心柱を取り囲む壁画の東側は金剛界三会であり、西側は胎蔵界中央諸院の中央部分ですから、柱絵と心柱壁画を合わせて金剛界および胎蔵界となっているわけです。

2017年5月10日水曜日

三井記念美術館「西大寺展」11

 やがて敷曼荼羅を壁に懸けるようになったとき、当然のことながら、胎蔵界曼荼羅は東壁に、金剛界曼荼羅は西壁に懸けられることになります。すでに述べたように、両界曼荼羅として一対になったのは、陰陽思想が強い中国においてだと思いますが、それぞれの方位はすでにインドにおいて決まっていたのでしょう。

いずれにせよ、わが国密教寺院における東に胎蔵界、西に金剛界という配置は曼荼羅本来の方位とよく合致しています。

しかし、私見のごとく胎蔵界曼荼羅が陰、金剛界曼荼羅が陽だったとすると、陰陽思想的に胎蔵界曼荼羅は陰の西壁に、金剛界曼荼羅は陽の東壁に懸けられるべきでしょう。厳密に方位でいうと北が陰、南が陽となりますが、春に当る東が陽的であり、秋に当る西が陰的であることは、改めて言うまでもありません。

胎蔵界曼荼羅が西壁に、金剛界曼荼羅が東壁に掛けられなかった理由の一つは、曼荼羅の方位が早くインドで決定されていたからだと思います。インドでも、単独で曼荼羅を壁に掛ける場合があったとすれば、東壁に胎蔵界曼荼羅を、西壁に金剛界曼荼羅を掛けていたのではないでしょうか。

2017年5月9日火曜日

つがいの蝶は?


つがいの蝶は?(58日)

 出光美術館の昼食会で、理事の福岡正夫さんから蝶々コレクションついてお話をうかがう機会がありました。福岡さんは経済学を専攻する慶応大学の名誉教授ですが、蝶々とクラシック音楽というエレガントなご趣味をお持ちです。「蝶々は小学校から、クラシック音楽は中学校からだけれど、経済学は大学に入ってから始めたにすぎない」と自負されています!? 

以前、小泉信三記念講座でお話になったベイツ型擬態と頻度依存淘汰説に関する講演録を頂戴し、あまりにおもしろいので、秋田県立近代美術館のHPブログ「おしゃべり名誉館長」に早速取り上げさせてもらったことがあります。

今日のお話はミドリシジミ――英語でいうとゼフィルスという蝶々のグループに関するものでした。日本にはこの種がキリシマミドリシジミ以下24種いるのですが、福岡さんは24種全部をお持ちなのです!! もちろんこれだけ集めるのには、ものすごい苦労がつきまといます。

たとえばキリシマミドリの屋久島亜種を採るためには、屋久島まで出掛けなければなりません。きれいな標本を作るために、飛んでいる成虫を採取するよりも、卵を見つけて孵化させ、成虫まで育ててそれを標本にする方が望ましいそうですが、出掛ければ必ず卵が見つかるというわけでもありません。

ようやく見つけて東京まで持ち帰っても、冷蔵庫に入れて、孵化の時期を調節しなければなりません。なぜなら、幼虫が食べる食樹は決まっており、たとえばキリシマミドリシジミですとアカガシで、それ以外はいっさい食べないからです。言うまでもなく、芽が出る時期は屋久島より東京の方が遅いので、それまで孵化を遅らせなければならないのです。

あるいは、ムモンアカシジミのように、クヌギの葉だけではダメで、それにくっつくアブラムシも一緒にやらないと育たないという面倒な種もあるし、ヒサマツミドリのように、木の一番てっぺんにしか卵を産まないという変なヤツもいるそうです。ともかくも、蝶々のコレクションを作り上げるには、想像を絶する苦労がつきまとうということがよく分かりました。しかし失礼ながら、なぜそれだけ苦労されるのかについては、よく分かりませんでした!?

 先日「五山文学の春」で絶海中津の「春夢」を紹介し、蝶々はよく2匹でじゃれあうように飛んでいるけれども、これは当然オスメスのつがいにちがいないと書きました。その点を福岡さんに確認してみました。2匹で飛んでいるのを網で一緒に捕らえると――文字通り一網打尽にすると、もちろんほとんどがオスメスですが、たまにオス同士という場合があるそうです。それはともかく、やはり僕にとっては、キリシマミドリより、クロキリシマの方が何倍も魅力的なのですが……。

 5月22日、また福岡さんにお会いする機会があり、さらにいろいろとお話をうかがい、蝶々の世界は美術の世界に増して奥が深いことを知りました! これを加えて、若干の加筆訂正を加えることができました!! 福岡さん ありがとうございました!!!

 *この「饒舌館長」において、お元気な方はすべて親しみを込めつつ「さん」づけでお呼びし、鬼籍に入られた方のみ「先生」とすることにしております。というわけですので、福岡さん、お許しください!!!!
 

三井記念美術館「西大寺展」10


 ポイントとなるのは、もともと曼荼羅が地面に描かれ、あるいは床に敷かれたものであるという点です。だからこそ、自然の方位にしたがって東西南北を決めることができると言ってもよいでしょう。壁に懸けた場合、曼荼羅の左右は自然の方位に合わせることができますが、上下は不可能です。例えば、東壁に掛けるとおのずと右が南、左が北となりますが、東西は決まりません。

インドで始まった地面に描く地曼荼羅の段階で、その方位が決まったにちがいありません。インドでは太陽がすべての基準となりましたから、胎蔵界曼荼羅は日の出、金剛界曼荼羅は日の入りのイメージと結び付けられたと考えれば、このような方位に決まったのも理解しやすいでしょう。

地曼荼羅はともかく、敷曼荼羅を実際の方位にしたがって堂内に敷き、正面から諸尊を見るように密教者が座れば、胎蔵界曼荼羅では密教者が東を、金剛界曼荼羅では密教者が西を向くことになります。

2017年5月8日月曜日

出光美術館「茶の湯のうつわ」


出光美術館「茶の湯のうつわ――和漢の世界」<64日まで>(424日)

 茶の湯ブームなのでしょうか。たくさんの茶の湯展が同時に開かれています。出光美術館のほかに、東京国立博物館でも、畠山記念館でも、国立近代美術館でも……。さて、この出光美術館展は、とくに江戸時代に焦点を絞りながら、武家のみならず、公家、豪商、さらには町衆まで広く愛好されるようになった茶の湯の実態を、多種多様をきわめた「茶の湯のうつわ」によって視覚化したものです。

企画したキューレーター徳留大輔さんの、中国陶磁を含めた鳥瞰的視覚が、とても理解しやすく、魅力的な展示のうちによく感じ取れるのです。また、出雲・松平不昧公を中心として編集された茶の湯の道具帳である『雲州蔵帳』が、出光美術館には所蔵されてきました。13年ぶりの公開を兼ねた「雲州蔵帳とその美」という特集展示も必見ですよ!!

 「僕の一点」は「五彩十二ヶ月花卉文杯」です。じつは去年『國華清話会会報』に、今は亡き天羽直之さんから求められるまま、「わが愛する三点」というシリーズ・エッセーに寄稿しました。水尾比呂志さん、辻惟雄さん、小林忠さんに続いての御下命ですから、向こうを張るのは所詮無理、饒舌館長風に「ジャンクで一杯!?」という、文字通りの駄文になっちゃいました。これから河野コレクションの「花卉文杯」に関するところを、バージョンアップしながら再録することにしましょう。

「十二ヶ月花卉文碗」には、1996年、北京で出会った。あの忘れることができない1989年に続いて、再び北京日本学研究センターの講師として出かけた時である。ある日、自転車で西単の慶豊包子まで食べに出かけた。そのあと王府井のあたりを冷やかしていると、ある工芸品店でこれを売っていたのである。

もちろん煎茶碗(茗碗)であるが、一杯やるのにちょうどいい。以前、瑠璃廠<ルーリーチャン>で十二客揃いを見たことがあったが、当然かなり高かった。ところが、ここではばら売りをしている。僕は1月と12月を選んで、しっかりと包んでもらった。

清朝・康熙年間、景徳鎮官窯で焼成された組物の碗で、それぞれの月の花に、唐詩から引用した七言二句が添えられている。中国では、明代末期から旧暦2月中旬のお節句「花朝」がはやり始めた。これは各月の花の神様――花神に捧げる祭礼で、この碗はその時に使われたともいう。

日本では、出光美術館と静嘉堂文庫美術館に揃いの絶品がある。僕のはもちろんずっと下るコピーで、1月の一字を間違えているところがご愛嬌だが、なかなかよくできていて、紹興酒にも日本酒にもよく合う。詩句はほとんどが『全唐詩』から採られており、1月もそれに載る白楽天の「迎春花を玩んで楊郎中に贈る」だという。僕の戯訳で紹介することにしよう。

  春まだ寒くふるえてる 金の花房 翠[あお]い萼[がく]
  黄色い花はいろいろと あるけど黄梅ナンバーワン
  旅立つ君に贈りたい 「老眼? 目じゃない!」花眼とも
  いうから花だけ見てほしい 無粋な蕪[かぶ]など目もくれず

 『諸橋大漢和辞典』に「花眼」を求めると、「ぼんやりとかすんだ眼」とありますが、現代中国語の「花眼」は老視眼の通称、つまり老眼のことです。この白楽天の詩でも、やはり老眼の意味で使われているように思われますので、唐の時代から花眼には老眼の意味があり、それが現代中国語まで伝えられているのではないでしょうか。それはともかく、本来は煎茶碗だったとしても、僕にとってはあくまで酒杯――徳留さんが「花卉文杯」と名づけてくれたのは、僕の趣味が以心伝心で届いたからにちがいありません!?

三井記念美術館「西大寺展」9


すでに述べたように、インドにおいて二つの曼荼羅は別々の宗教的イメージしたが、これが中国へもたらされて陰陽思想と結びつき、はじめて両界曼荼羅となりました。一種の双幅となったわけですから、当然のことながら、両者を一緒に掛けようという欲求が起こってきます。その場合、どのように掛けるのがもっとも合理的でしょうか。

 もともとインドでは、曼荼羅上における方位というものが決められており、それにしたがって作図されました。もちろんこれは、中国における両界曼荼羅でも踏襲されました。胎蔵界曼荼羅は上が東で、時計回りに東南西北となることに決まっていました。したがって下が西となります。金剛界曼荼羅は上が西で、同じく時計回りに西北東南となりますから、下が東となります。

2017年5月7日日曜日

ノラネコ「虎吉社長」


 「虎吉社長」は義理の姉が餌をやっているオスのノラです。ちょっと愛想がわるいけど、よく見ているととてもカワイイ――敢えていえばブサカワかな? 去年の秋から我が家の庭に遊びに来るようになり、隣に住んでいるアネキが餌をやるようなったので、毎日1回は必ず来るようになりました。アネキが出掛ける時は、女房が食事係となります。 

先日は耳の辺りを噛み付かれたらしく、痛々しくも大怪我をしてあらわれましたが、まだ完全な男性なので致し方ありません。「俺は天下のノラだ。飼われてなんかやるもんか!!」と思っているらしく、カリカリとスープでお腹が一杯になると、トコトコと歩いてどこかに消えていきます。

ソトネコというより、ノラといった方がふさわしいでしょう。ソトネコというのは、たいていその家の周りでウロチョロしているものですから……。

昨日あとをつけて行くと、1メートルに満たないような細い「タマのみち」を、食後の散歩がてらといった風情でゆっくりと歩いていきました。以前、よくタマというネコが歩いていたので、僕が勝手にそう命名した小路です。そして武藤サンチの横の崖を上り、枯れ草にオシッコをすると下りてきて、石川サンチの向かいにあるビワの木陰の小さな草むらで居眠りを始めました。僕のことなんかまったく無視して……。

はじめ僕は「虎吉」と命名しました。ところがあるとき競馬中継を見ていると、「トラキチシャチョウ」という馬が走っているではありませんか。ネットで検索すると、296勝、中央獲得賞金が1億以上ある名馬?です。それ以来、虎吉は「虎吉社長」、あるいは略して「社長」と呼ばれるようになったのです!?

 

三井記念美術館「西大寺展」8

 このような私見をさらに押し進めると、胎蔵界曼荼羅は主観、金剛界曼荼羅は客観となって、ちょっと定説と反対になってしまいます。少なくとも、胎蔵界曼荼羅は感情、金剛界曼荼羅は理性となって、定説と基軸がずれてしまいますが、僕はこの方が理解しやすいと信じて疑わないのです。

こんな分かったようなことを言っても、『金剛頂経』には現代語訳が見つからなかったので、『岩波仏教辞典』から想像しただけですから、全身冷や汗、忸怩たるものが……。

ところで、我が国密教寺院では、儀式修法を行うとき、必ず胎蔵界曼荼羅を東側の壁に、金剛界曼荼羅を西側の壁に懸けます。なぜそうなったかについて、定説はありませんが、僕は次のように考えています。

2017年5月6日土曜日

三井記念美術館「西大寺展」7


 一方、金剛界曼荼羅のもとである『金剛頂経』では、悟るための五相成身観が中心をなしています。それは仏と行者が一体化して、行者に本来そなわる仏の智慧を発見しようとする実践法です。即身成仏に近い考え方です。

その実践法は厳しく、きわめて雄渾なもののように感じられます。また智慧そのもの、つまり真理を明らかにしようとする宗教的叡智が前面に押し出されて、慈悲などは背後に隠れています。それは光明や男性と、つまり陽と結びつきやすいでしょう。

そもそも金剛とはダイアモンドのこと、強く硬いことのシンボルですから、これも男性的です。もちろん『大日経』においても、根本をなすのは仏の智慧ですが、そのためのプロセスとして女性と結びつきやすい慈悲が必要十分条件とされているのです。また『金剛頂経』においても、仏の慈悲が無視されているわけではないようですが、もっとも重視されているのは男性的ともいうべき五相成身観です。

2017年5月5日金曜日

三井記念美術館「西大寺展」6


 先生によれば、その根幹をなす最も重要な三句があります。仏の智慧とは「さとりを求める心〔菩提心〕を原因とし、大いなるあわれみ〔大悲〕を根とし、手だて〔方便〕を究極的なものとするのである」と訳される三句です。

悟りとは悟りを求める心が大前提であり、そこに仏の慈悲が作用することによって達せられますが、最終目的は衆生救済のため活動である――ということになります。ここで重要なのは仏の大悲・慈悲であり、それはおのずと女性と結びつきます。

仏の慈悲を象徴する観音菩薩は本来男性ですが、やがて女性的イメージが強まったことを考えれば分かりやすいでしょう。そもそも「胎」とは身ごもることや子宮ですから、女性の表象なのです。母親の胎内に眠る胎児の仏性が開花するさまを描いたのが、胎蔵界曼荼羅であるという説さえあります。明らかにこれは陰と結びつきます。

2017年5月4日木曜日

三井記念美術館「西大寺展」5


しかし僕は、陰陽思想の影響を重視し、胎蔵界曼荼羅を陰、金剛界曼荼羅を陽と考えたいのです。つまり中国において、前者は女性的なもので、仏の慈悲を暗示し、後者は男性的なもので、仏の智慧を表わしていると認識されるようになったと措定してみたいのです。少なくとも、そう考えると分かりやすいと思いますが、もちろんそのもとには二つの御経があります。

僕が名古屋大学にいた時、しばしば仏教について教えを乞うた宮坂宥勝先生に、『密教経典』(講談社学術文庫)があります。重要な4つの密教経典を取り上げ、原文、読み下し、現代語訳、注釈を施した名著です。胎蔵界曼荼羅の基底をなす『大日経』のうち、中核をなす「住心品」がここに選ばれています。

2017年5月3日水曜日

三井記念美術館「西大寺展」4


両界曼荼羅で一つの密教的宇宙観を表すとはいえ、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅それぞれが、何を象徴しているかについては、さまざまな説があります。曼荼羅研究に一時期を画した石田尚豊先生は、「胎蔵界曼荼羅が拡散展開して現象界の『理』をあらわすのに対して、金剛界曼荼羅は凝集内観して精神界の『智』を示すものとして両界曼荼羅は、理智不二の密教的世界観を具現するものとされている」と述べています。

この書き方からみても、石田先生の個人的考えというより、定説のように思われます。この定説によれば、現象界と精神界ですから現実と認識、あるいは客観と主観と言い換えてもよいでしょう。

2017年5月2日火曜日

銭湯活動家・湊三次郎さん


京都の老舗銭湯を受け継いだ銭湯活動家「湊三次郎さん」

 今日の朝日新聞「ひと」欄に湊さんという方のすばらしい紹介が載っていました。湊さんは消えゆく銭湯文化を守ろうと、2年前、京都下京区の銭湯「梅湯」を受け継ぎました。明治時代から続くという老舗でしたが、廃業寸前でした。湊さんは浜松市の出身ですが、京都の大学に進み、自転車で銭湯を回りました。銭湯に魅入られた湊さんは、銭湯サークルを立ち上げ、全国800軒の銭湯を行脚、卒論のテーマももちろん銭湯に決めたそうです。

京都の銭湯も1970年の3割、140軒に激減しましたが、湊さんは、「経営者も銭湯マニアも嘆くだけ。自分でやるしかない」と、銭湯活動家を名乗り、せっかく就職したアパレル会社を10ヶ月で辞めました。そして名古屋の銭湯に1ヶ月間住み込んで修行、親御さんに400万円を借り、梅湯を整備しました。浴場でライブを催し、週末には朝風呂、大晦日は終夜営業――こうした努力の結果、若い女性や外国人も訪れるようになり、160人だったお客さんは倍に増えたそうです。

前のブログにもアップした通り、僕も銭湯ファンですが、確かに銭湯の衰退を嘆いているだけでした。「申し訳ありません! 26歳の湊さん頑張れ!!ところで先日も東逗子の「あづま湯」を訪ねて至福のひと時を過ごし、愛子さんの「花言葉 千種に敦い愛おしさ」とある俳画色紙を鑑賞して帰ってきたところです。お会いしたことはありませんが、愛子さんは近くにお住いのお年をめした女性らしい。あづま湯では、彼女の最新作が必ず入口のところに掛かっています。銭湯が美術館になっているんです!
 ところで三無主義者の僕も、もちろん湊さんと同じ自転車で銭湯へですよ!!

 

三井記念美術館「西大寺展」3


そもそも曼荼羅とは、大日如来を中心に多くの仏を配置し、密教の世界観を表したものです。はじめインドでは、いろいろな色の砂で描く砂曼荼羅でしたが、儀式が終われば消えてしまうので、これを残すために絵にするようになったのでしょう。絵にすれば何度でも使うことができます。これが現在僕たちの知っている「両界曼荼羅図」のオリジンです。つまり二つの曼荼羅は、本来別々に誕生したものであって、直接的関係は希薄でした。

それが中国にもたらされてペアとなるのですが、その原動力となったのは、中国の陰陽思想だったと思います。相反する性質の陰と陽という二種の気によって、万物は作られ変化するとする易学の考え方です。月・秋・北・夜・女などは陰、日・春・南・昼・男などは陽とされました。

2017年5月1日月曜日

三井記念美術館「西大寺展」2


曼荼羅なんて、ゴチャゴチャしてよく分からないし、仏さんがたくさん描いてあるだけだなんて言わないでください。こんなおもしろい仏画はめったにありません。確かに美術としてみると、みんな同じで個性がなく、美的感動が薄いかもしれませんが、この世界の成り立ちや、僕たちがいかに物事を認識するかを考える時に、とても役立つのです。それは美術を考える時にも、援軍となってくれることでしょう。

 曼荼羅が生まれたのは古代インドです。まず『大日経』という御経をもとに「胎蔵界曼荼羅」が作られました。次に『金剛頂経』という御経によって「金剛界曼荼羅」が生まれました。はじめ「胎蔵界曼荼羅」は「胎蔵曼荼羅」といって、「界」の字がなかったのですが、のちに「金剛界曼荼羅」に合わせて、「胎蔵界曼荼羅」というようになりました。たった一字ですが、ここには重要な意味があります。

岩波ホール「山の郵便配達」2

  名古屋大学につとめていたころ、名古屋シネマテークで勅使河原宏の「アントニオ・ガウディ」がかかり、見に行こうと思っているうちに終っちゃったことがありました。そのころ映画への関心が薄れ、チョット忙しかったこともあるのかな?  そんな思い出はともかく、名古屋シネマテークが閉館に...