ここですぐに思い出されるのは、わが日本における「裸体画論争」です。フランスに留学した黒田清輝は、帰国後の1895年、京都で開かれた第4回内国勧業博覧会に、持ち帰った自作「朝妝」[ちょうしょう]を出品します。朝起きた西洋婦人が、一糸まとわぬ姿で鏡の前に立ち、髪を整えるところをとらえています。すると、新聞を中心に裸体画であるという理由で公開を非難する声が大きくなり、物議をかもすことになりました。
続いて1900年、ふたたび渡欧した黒田は、パリで「裸体婦人像」を制作し、帰国後の1901年、第6回白馬会展にこれを出品しました。現在、静嘉堂文庫美術館が所蔵する「裸体婦人像」がこの作品です。すると裸体画問題が再燃したため――今の言葉でいえば炎上したため、下半身の部分を黒い布で覆って出品を続けることになったのです。これがいわゆる「腰巻事件」です。
「腰巻」はそのままでの展示続行と、完全な撤去の妥協案でした。ヌードを美しいものとし、均整のとれた理想的な裸体像が絵画や彫刻の主要テーマとなってきた西洋の伝統を、そのまま日本に根付かせようとした黒田らの希望は、激しい抵抗にあったのです。これは近代を迎え、裸体を性的であり、風俗を乱すものとして、政府や官権が取り締まることになったのだと説かれています。
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