2019年9月30日月曜日

追悼エオンちゃん(山本勉さんの愛猫)続4



陸游「畜猫を嘲[あざけ]る」<『剣南詩稿』巻38

 ネズミが盆ひっくり返して大暴れ
 でもキミは爆睡グーグー高いびき
 腹いっぱい食べるご馳走夢に見て……
 好き勝手ネズミがやるのを横目で見
 身上はパッとセミ捕る敏捷性
 でも好きはのんびりすること木の上で
 ク山とは一体どこにあるのやら
 名猫がそこにはたくさんいるのにね

  ク山の「ク」は「月+句」という、僕のワードでは出てこない変な漢字です。

2019年9月29日日曜日

追悼エオンちゃん(山本勉さんの愛猫)続3

陸游「粉鼻に贈る」<『剣南詩稿』巻28
 愛猫 毎晩 ネズ公を 血祭りにする何匹も
 武者震いしてヒゲを立て 残りの米蔵 護ってる
 「どうしてそんなに金持ちの ため懸命に働くの?」
 「そうすりゃ毎日ご馳走と フカフカベッドがワテのもの!!
*この「粉鼻」という調子のいいネコは、一海知義先生によると「鼻ジロ」とされていますが、ゴマシオみたいな鼻だったとも考えられるかな?

2019年9月28日土曜日

出光美術館「奥の細道330年 芭蕉」


出光美術館「奥の細道330年 芭蕉」<929日まで>

 いよいよあと2日です!! 元禄2(1689)3月下旬、松尾芭蕉は弟子の河合曽良をともなって旅に出ました。元禄2年は尊敬する西行の500回忌にあたる年、芭蕉はこの年を選んでこの大旅行に出発したのです。言うまでもなく、このときの紀行文が「奥の細道」ですが、今年は元禄2年から数えてちょうど330年、これを記念して開かれた久々の大芭蕉展です。

 「僕の一点」は芭蕉に憧れ私淑した与謝蕪村の「奥の細道図巻」(京都国立美術館蔵)です。蕪村の筆になる「奥の細道図巻」は3点知られており、これに屏風が1点加わります。それぞれ特徴がありますが、いずれも蕪村の代表作に数えられています。かつて海の見える杜美術館が所蔵する北風来屯旧蔵の一本を、『國華』に紹介したことを、いま僕は懐かしく思い出しています。

このほかにも蕪村は奥の細道図を描いたことでしょう。そこには、芭蕉に対する絶対的尊敬の念があったはずです。

もちろん、蕪村が繰り返し同工異曲ともいうべき奥の細道図を制作した理由に、経済的事情や日々の生活があったことは言うまでもありません。例えば、来屯に宛てた安永71221日付け書簡を見れば、金銭工面の腐心は痛々しいほどです。また当時における熱狂的芭蕉リバイバル運動も、理由の一つであったにちがいありません。

しかしそれらは、蕪村にとって二義的理由と言うべきものだったのではないでしょうか。奥の細道図は、あくまで蕪村の芭蕉に対するオマージュだったのです。

追悼エオンちゃん(山本勉さんの愛猫)続2


 まず最初は、すでにアップした「十一月四日風雨大作」ですが、「渓柴」の意を活かしてちょっとバージョンアップしましたので……。

陸游「十一月四日風雨大作」<『剣南詩稿』巻26
 風は川水 巻き上げて 雨がこの村 昏[くら]くする
 周りの山は山鳴りし 湖[うみ]の波涛が吠えまくる
 粗末な毛氈 谷川で 集めた柴 焚きゃあったかい
 ネコとオイラの二人きり じっとしている家の中

2019年9月27日金曜日

追悼エオンちゃん(山本勉さんの愛猫)続1




 畏友山本勉さんが愛猫エオンちゃんを亡くしたとき、すぐに僕はマイブログ「饒舌館長」に哀悼の意を表し、それまで書いた梅尭臣や陸游や祇南海の漢詩をまとめてアップしました。もちろん原文じゃ~なくマイ戯訳の方ですが……。

ところがエオンちゃんの人気ゆえか、はたまた山本さんがもつ研究者としての存在感ゆえか、ちょっと前に「追悼 エオンちゃん(山本勉さんの愛猫)1」がアクセス数№1に躍り出たのです❣ これまで1000話くらいアップしていると思いますが、その№1ですよ❣

そこで続けてネコ詩の大詩人・陸游の『剣南詩稿』から、まだアップしていない名吟を、またまたマイ戯訳で天上のエオンちゃんに献呈させてもらうことにしました。けっしてアクセス数稼ぎじゃ~ありませんよ()

2019年9月26日木曜日

諸橋轍次博士と石井茂吉氏6



『諸橋大漢和』の巻末「大漢和辞典製作関係者」のトップに、「原字・文字盤製作 石井茂吉」と掲げられているのは、むしろ当然のことです。1960年、この業績を中心として、石井氏には第8回菊池寛賞が贈られることになりましたが、これまた当然のことでしょう。

虚栄を嫌う石井氏も、この受賞はことのほかうれしく感じ、生涯に受けた数多くの賞のなかでも、これをもっとも喜んでいたそうです。そして「半生をかたむけ来つる文字の道なほきわめなん命のかぎり」詠んで、さらなる精進を誓ったのでした。

石井氏は写真植字機の発明者として、また石井明朝体や石井ゴシック体など、かずかずの石井書体――いま風にいえば石井フォントを編み出した文字デザイナーとしてむしろ有名だそうです。ウィキペディアによると、現在の漫画に使われている吹き出し部分の漢字は、たいてい石井ゴシックだそうです。しかし静嘉堂の饒舌館長にとっては、あくまで『諸橋大漢和』の写植原字創作者としての石井茂吉先生ですね!!

2019年9月25日水曜日

諸橋轍次博士と石井茂吉氏5



人情と責任感と二つのもつれに私も苦しんだ。その結果、窮余の一策、やむなくばこれ以後の字母は誰かお弟子中のすぐれた人に書かせて下さいと申し入れたが、石井さんはがんとしてきかない。

自分が引き受けたのだから自分でやると、ついに最後まで人手には任さなかった。多分病を押してのことも多かったであろう。私はその時、その責任感の深さと友情の厚さに深く感激した。おかげによって大漢和辞典は整斉にして雅味ある石井式の細明朝体の文字をもって内容を飾ることができたのである。


2019年9月24日火曜日

諸橋轍次博士と石井茂吉氏4


 半ば公刊をあきらめていた大漢和辞典が石井さんの助力を得られると聞いた時、私は再生の思いがした。……そこで、いつも石井さんには催促がましいお願いをした。当時石井さんは他に幾多有利の事業をかかえていたにもかかわらず、それをさしおいてまで私の事業のために全力を傾けてくれた。

 さて、いよいよあと一年ほどで完成に至ると思う頃、突如石井さんは病臥の身となった。かねてからじゅうぶんの健康体でないことは万々承知はしていたが、さりとて一面事業の完成期は日々日に迫ってくる。

2019年9月23日月曜日

諸橋轍次博士と石井茂吉氏3



石井氏は完全といえない自身の健康を理由にいったん断りました。そこには、いく夫人の夫を思う気持ちが強く働いていたようです。しかし石井氏は懇請と熱意に負けて遂にこれを快諾、47500字におよぶ写植原字を、たった一人で、しかもわずか4年のうちに完成させるという契約を結んだのです。完璧主義者の石井氏は、結局8年間をそれにかけることになるのですが……。

僕が存じ上げている、あるタイポグラファーは、パソコン黎明期に、そのための原字を10センチ四方の枠のなかに烏口で製作していましたが、どう頑張っても1日に10字が限度であると語っていたことを思い出します。

それが4年間で47500字ですよ!! 実際は8年間だったとしても、石井氏の全身全霊を傾けた刻苦、血のにじむような勉励――それはいかばかりであったことでしょう。そのころの事情について、諸橋先生は次のように述べています。

2019年9月22日日曜日

諸橋轍次博士と石井茂吉氏2



やがて石井氏は星製薬に転じましたが、この会社に問題を感じて即刻退社、森沢信夫氏――後に袂を分かつことになるのですが――と協力し、試行錯誤を重ねて写真植字機第1号を完成させたのです。その後いく多の困難に打ち勝ち、また紆余曲折を経ながら、写真植字機の改良を重ね、事業として発展させるとともに、タイポグラファーとして新しい石井書体を編み出していきました。

ちょうどそのころ、諸橋轍次先生のもと『大漢和辞典』の編集が進められ、第1巻の刊行までこぎつけましたが、すでにアップしたように、その鉛原版と資料が東京大空襲により、すべて失われてしまいました。出版を推進していた大修館書店の鈴木一平氏は、以後これをすべて写植によることとし、石井氏にその原字の製作を依頼しました。

2019年9月21日土曜日

諸橋轍次博士と石井茂吉氏1




先日「諸橋轍次博士」であげたDVD「諸橋轍次博士と『大漢和辞典』」によって、この辞典の完成には、もう一人、きわめて重要な役割を果たした方がいらっしゃった事実を知りました。石井茂吉氏(18871963)という発明家にしてタイポグラファー、そして事業家です。

さっそく僕は、「日本の古本屋」で石井茂吉伝記編纂委員会編『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 1969年)を求めて読み始めました。島田寛という方が書いた文章は平易にして流れるごとく、一気に読了するとともに、石井氏の偉大な功績と血のにじむような努力、また人間としてのすぐれたあり方を、はじめて知ったのです。

明治20年、東京の王子に生まれた石井氏は、東京帝国大学機械工学科を卒業すると、すぐ神戸製鋼所に入社しました。

2019年9月20日金曜日

静嘉堂文庫美術館「入門 墨の美術」+饒舌口演5


「万里橋図」南禅寺・九淵龍賝[きゅうえんりゅうちん]七言詩+戯訳
  武侯曾此送行人  諸葛孔明ここに立ち 旅立つ人を見送った
  三国興亡一聚塵  魏呉蜀の興亡も 果かなき夢のごとく消ゆ
  玉色梅花金鏤柳  玉にも似たる梅の花 輝く金糸は柳の芽
  風光猶似旧時春  風景だけは今もなお 昔の春と変らずに……

「巣雪斎図」建長寺・玉隠英璵七言詩+戯訳
  鳳雛憩処忘多寒  鳳凰の雛 安らいて ひどい寒さも忘れてる
  只補旧巣将雪団  古い棲み家に積雪で ちょっと補強を加えたよう
  潜蟄玉龍応産鳳  地に住む玉龍この雛を 産み落としたにちがいない
  安心不覓一枝安  安心得るため木の上に 住んだ巣父[そうほ]を真似せずに……

2019年9月19日木曜日

静嘉堂文庫美術館「入門 墨の美術」+饒舌口演4



マイベストテンのなかに、「聴松軒図」と「万里橋図」、そして賢江祥啓筆「巣雪軒図」という詩画軸の名品3点をあげました。それぞれに加えられた詩賛のうちから、主要な一首に戯訳をほどこして配布資料を作りましたので、それを改めて紹介しておくことにしましょう。

「聴松軒図」相国寺・竺雲等連七言詩+戯訳
  登々履嶮路縈山  険しい道を登り行きゃ 山をめぐってまだ続く
  架屋青渓翠壁間  青き渓流 苔の岩 茅屋建てて住む君が……
  靖退由来真小節  しかし隠遁なるものは 下らぬ生き方 過し方
  松声雖好莫耽閑  松風の音すぐるとも 閑居に耽っちゃなりませぬ


2019年9月18日水曜日

静嘉堂文庫美術館「入門 墨の美術」+饒舌口演3



最初中国では松煙墨でしたが、五代のころ油煙墨が開発され、それへ移行していったようです。ちょっと異説もあるようですが……。しかしわが国では、ずっと松煙墨が使われ、油煙墨になったのは、室町時代初めに、興福寺の二諦坊[にたいぼう]がこれを作り出してからのことでした。つまり、松煙墨という、中国の古い文化がずっとあとまで日本に残っていたことになります。

柳田国男の名著『蝸牛考』の結論を敷衍して、中央の文化は遅くまで周辺に残存するというテーゼを導き出すことが許されるなら、まさしく墨も例外じゃ~なかったということになりそうです。

このあと、書画一致思想に関する独断と偏見をしゃべってから、マイベストテンへと移りました。


2019年9月17日火曜日

静嘉堂文庫美術館「入門 墨の美術」+饒舌口演2



もともと墨も中国で発明されたもので、殷代甲骨文のなかに、墨で書いたものがあるそうです。いわゆる彩陶の文様にみる黒い部分が墨ということになれば、さらにさかのぼることになりますが、これは今のところ何ともいえないようです。

墨が我が国に伝えられたのは推古天皇の18年(610)、高句麗の僧・曇徴が紙の製法とともにもたらしてくれました。推古天皇が出れば、当然「ジンム・スイゼイ・アンネイ・イトク……キンメイ・ビダツ・ヨウメイ・スシュン・スイコ」とジュゲムジュゲムをやることになります。

キツネにつままれた感じの皆さんに、間髪を入れず「大抵ここで拍手が起こるもんですが……」とツッコミを入れて笑いをとりました。饒舌口演をいつも聞いてくれている方は、「凝り性もなく又やってるわ~」と白けたかもしれませんが( ´艸`)


2019年9月16日月曜日

静嘉堂文庫美術館「入門 墨の美術」+饒舌口演1



静嘉堂文庫美術館「入門 墨の美術――古写経・古筆・水墨画」<1014日まで>+「饒舌館長ベストテン――好みの墨絵――」を口演す(914日)

 静嘉堂文庫美術館が所有する6500点の美術品のなかから、墨という用材に焦点を絞り、その美しさをもっともよく発揮する3つのジャンル――古写経と古筆と水墨画を取り上げて名品を選び、通奏低音のように流れる<墨美>を堪能していただこうと企画した展覧会です。

コーディネーターは去年わがスタッフに加わってくれた浦木賢治さん、彼のデビュー展です。東洋日本美術の本質ともいうべき「書画一致」のすばらしさが味わえる展覧会にもなっているというのが、饒舌館長的見方なのですが……。

 今日は展覧会ごとに行うことになっている我がおしゃべりトークの日、タイトルは<「饒舌館長ベストテン――好みの墨絵――」を口演す>と早くに決めてありました。

2019年9月15日日曜日

京都文化博物館「ニッポン×ビジュツ展」+饒舌館長口演3



もちろん、若冲は養源院の俵屋宗達筆「白象図杉戸」を見て知っていたことでしょう。また、若冲独自の奇想性や普賢菩薩とのコノテーションがあることを認めた上での話ですが、象の圧倒的巨大性に対する若冲の驚きが、文字通り画面からあふれ出ているように感じられて仕方ないのです。

しかも、この象が洋書の解禁をおこなった吉宗将軍の命によってもたらされたという点に、18世紀の実証主義的精神がうかがわれて、興味尽きないものがあります。

たしかに若冲はエキセントリックな画家ですが、たくさんの鶏を飼ってよく観察したというという、よく知られた逸話からも推定されるように、18世紀実証主義の子供――誤解を恐れずに言えばその鬼子でもあったのです。僕はそれを強調したうえで、つぎの曽我蕭白筆「蝦蟇仙人図」へと話を進めました。

2019年9月14日土曜日

京都文化博物館「ニッポン×ビジュツ展」+饒舌館長口演2


享保13年夏、8代将軍吉宗の希望により、オスメス2頭の象が長崎へもたらされました。メスは間もなく死んでしまったため、オスだけが翌14年夏、京都へやって来ました。象の渡来は我が国開闢以来5回目、洛中洛外は見物人でごった返す大騒ぎになりました。

時の天皇は中御門天皇、その象は拝謁の栄に浴し、従四位という爵位まで頂戴、天皇は「時しあればひとの国なるけだものもけふ九重に見るがうれしき」とお詠みになりました。以上は高島春雄氏の『動物渡来物語』(学風書院 1955年)によって、知られるところです。

享保元年(1716)に生まれた若冲は数えの14歳ですよ。好奇心に駆られ、若冲少年は錦小路の自宅、つまり青物問屋の桝源から見物に出かけたにちがいありません。その実体験が、「象図」には生かされているように思われます。

2019年9月13日金曜日

京都文化博物館「ニッポン×ビジュツ展」+饒舌館長口演1



京都文化博物館「東京富士美術館所蔵 百花繚乱 ニッポン×ビジュツ展」<929日まで>+「饒舌館長『若冲と北斎・其一』を口演す」(97日)

 八王子にある東京富士美術館はナポレオン関係のコレクションで有名ですが、日本美術も充実しています。3年ほど前、『東京富士美術館 日本美術名品選集』が出版されたとき、その巻頭を飾るべく、辻惟雄さん、小林忠さんと「江戸絵画の魅力を語る」と題して鼎談を行なったことが、懐かしく思い出されます。

その日本美術のなかから、おもに江戸絵画を選りすぐって構成されたのが、この特別展です。それを記念して担当学芸員の植田彩芳子さんから講演を頼まれたのですが、いつものごとく「口演」なら……といって引き受けました。

これまたいつものようにマイベストテンを選びましたが、その最初に伊藤若冲筆「象図」を挙げ、きっと若冲は本当の象を見ていたにちがいないという独断と偏見を開陳いたしました( ´艸`)

2019年9月12日木曜日

諸橋轍次博士14



両者とも『諸橋轍次博士の生涯』巻末の「遺墨」に、書幅の写真とともに載っていますが、字句に相違があります。とくに前者はかなり違っています。「遺墨」の説明には、「昭和22年(1947)晩春、岩崎小弥太男爵の三周忌の法要が熱海の岩崎邸陽和洞で営まれた折に作り、孝子夫人に贈られたものである。時に博士65歳」「米山寅太郎氏蔵」とあります。おそらく先生は、20年以上経って『止軒詩艸』に収めるとき、さらに推敲を加えたのでしょう。しかし僕には、オリジナルの方が好ましく感じられるので、これにも戯訳をつけてみました。

 緑の竹に周りみな 囲まれている陽和洞
 かつて遊んだこの地だが すでに主人は…… 悲しいなぁ!!
 静かな真昼その家に 降る雨 清むナシの花
 しとしとしとしと春はゆく それを恨んでいるように

2019年9月11日水曜日

諸橋轍次博士13


郷思(1948年 66歳)

 新潟よいとこどの県も 肩を並べること出来ず
 四季折々に花と月 競うがごとき美しさ
 五十嵐川の清流は 老松の影 浮かべてる
 緑にかすむ八木ヶ鼻 水面[みなも]に影を落としてる
 奥畑先生この地にて 教えてくれた人の道
 その後 亡父も同地にて 老荘の学 修めたり
 東京生活 長すぎた 帰りたいなぁ古里へ!!
 それを夢みて陶淵明 みたいないい詩を詠みたいな

2019年9月10日火曜日

諸橋轍次博士12



先生は卓越せる漢学者でしたが、近現代を代表する漢詩人でもあったと思います。先生には、米寿祝賀会記念の配り物とされた『止軒詩艸』(1970年)があります。狂言綺語を避けて平明な詩語を用い、素直に自然を見つめながら、しかも詩魂の清澄と凛とした韻律を響かせるところ、宋詩の趣に似ています。

先生の博士論文が宋代に焦点を絞っていた点を考えると、とても興味深いことだと思います。『止軒詩艸』から二首ばかりを、またまた僕の戯訳で紹介することにしましょう。

陽和洞を訪う(1947年 65歳)
 緑の竹が鬱蒼と 取り囲んでる陽和洞
 柴の扉をコツコツと たたけど主人はもういない
 静かな真昼 山の中 スモモの花に雨が降る
 枝から枝へと鶯が 鳴きつつ行く春 惜しんでる


2019年9月9日月曜日

諸橋轍次博士11


 
ところで、先生の三男である諸橋晋六氏は三菱商事の社長・会長として活躍されましたが、静嘉堂文庫理事長としても、静嘉堂文庫・静嘉堂文庫美術館を現在にあらしめた恩人なのです。人間的魅力にあふれる晋六氏については、また改めてエントリーすることにしましょう。

過日、静嘉堂文庫美術館で開催し、好評裡に終了した「書物にみる海外交流の歴史」展においては、諸橋轍次記念館から、DVD「行不由徑」「諸橋轍次博士と『大漢和辞典』」「郷思 諸橋轍次博士と故郷」をお借りし、期間中、地下講堂において映写させていただきました。多くの方々からとても勉強になったというお声を頂戴し、ディレクターとしてもこんなうれしいことはありませんでした。

2019年9月8日日曜日

諸橋轍次博士10


全世界がひとしなみに自国ファーストに陥っている現在、本書を読んで先生から学ぶべきことは、きわめて多いように思われるのです。

1921年、先生は岩崎小弥太の委嘱を受けて、静嘉堂文庫第2代館長に就任されました。このことについては、『諸橋轍次博士の生涯』に、次のごとく記されています。

留学決意後、博士は最後の手段として自分の持ち家を売却し、家族を故里の下田村庭月へ帰すことを考えられたが、偶々、友人の土田誠一が博士の高師の先輩、三土忠造に博士の窮状を話したところ、三土は岩崎小弥太男爵に懇請して三菱からの経済的援助が決まった。(帰国後、博士は岩崎男爵から静嘉堂文庫長を委嘱された。)

2019年9月7日土曜日

諸橋轍次博士9


先生は中国留学中、陶淵明の墓を探して道なき道を行き、ついにこれを発見して大きな喜びに包まれたのです。ここには先生のすぐれた実証主義的精神が語られています。多くの近代中国学者が書斎派であり、本の虫であったのに対し、先生は経験主義者でもあったのです。

陶淵明の墓なんか訪ねなくたって、先生の学問は大成したでしょうし、『大漢和辞典』もみごと完成したことでしょう。しかし、先生は訪ねないでいられなかったのです。

つまり『大漢和辞典』の基底には、諸橋学の背景には、中国文化に対する真率なる愛惜の念、衷心よりの憧憬があったように思われるのです。あるいは、董其昌が文人の理想とした「千里の道を行き、万巻の書を読む」を、みずから実践しようとしたのでしょうか。

また先生は中国留学中、陳宝琛や康有為、周作人をはじめとする多くの学者を歴訪して教えを乞い、学識を高めました。これも同じようなベクトルをもっていたにちがいありません。


2019年9月6日金曜日

諸橋轍次博士8


先生はボーイ一人を連れて、廬山山麓にあるという陶淵明のお墓を訪ねていくのですが、途中で日が暮れてしまい、まったく見ず知らずの家に、ちょっと無理をいって泊めてもらいます。翌日、誰に訊いても知らないという陶淵明のお墓を探しに探し、ついに草むらの中に見出すのです。それは明代に陶淵明の子孫が建てた、きわめて小さく丸っこいお墓で、表面に「晋代徴士陶靖節先生」と彫られていました。

「吉川幸次郎君がなんかに書いたことがありますね。陶淵明の墓を調べたものは、古くは唐の李白、宋の蘇東坡、それから明の王陽明であったとか。その次が諸橋先生かな。(笑)」というのが、確かに笑いを誘いますが、先生の学問が中国文化を正しく継承したものであったこと、きわめて経験主義的あるいは実証主義的であったことを証明しています。

2019年9月5日木曜日

諸橋徹次博士7


僕がもっとも心を動かされたのは、先生が陶淵明のお墓を探し訪ねたことです。かつてどこかで読んだのですが思い出せず、今回『諸橋轍次著作集』全10巻を調べて、第10巻の「学問の思い出」にあることを確認しました。昭和387月、東方学会新館会議室で、宇野精一氏ほか3人が先生のお話を聞いたときの記録で、『東方学報』第27輯に載ったとのこと、あるいは僕が読んだのはこれだったのでしょうか。

先生は、「ええ、旅行は随分いたしました。むかしの人は知りませんが、私どもの頃のものとしては、私ほど旅行したものはないでしょう」と語り始め、「陶淵明の墓をさぐる」へと進んでいきます。

2019年9月4日水曜日

諸橋轍次博士6


ところで、先生はすぐれた漢学者であるということばかりが、これまで強調されてきたように思われます。もちろん、抜きんでた東洋学者であったことは、改めて言うまでもありません。

しかしそれだけで、『大漢和辞典』を完成させることは可能だったでしょうか。僕は不可能だったと思います。その頃、先生と肩を並べる漢学者が日本にいなかったわけではありませんが、その方々には企及すべからざる大事業だったのです。

先生はたくさんのお弟子さんを組織して諸橋チームを作り、『大漢和辞典』の完成に立ち向かったのです。つまり先生は、偉大なる編集者、傑出せるエディトリアル・ディレクターでもあったのです。その根底に、お弟子さんたちを引きつけて止まない研究者としての圧倒的能力と、人間的魅力があったのだと、僕はにらんでいるのですが……。



2019年9月3日火曜日

諸橋轍次博士5



本書を一読、先生のあまりにも真摯なる学問への情熱、いかなる苦難をものともしない強烈な意志、「行くに徑[こみち]に由らず」という堂々たる男子の生き方に、感動を覚えないものはいないでしょう。及ぶべくもありませんが、研究者として、少しでも先生に近づきたいなぁと思わずにはいられません。

しかし、人間にはいろいろな生き方があり、さまざまな人生がある、だからこそこの社会はおもしろいのだと信じている僕は、みんな先生のように生きるべきだ、先生を見習ってみずからの欠点を矯正すべきだと、声高に主張しようとは思わないのですが……。

僕がその生き方に憧れる江戸時代の本草学者・貝原益軒も、「聖人を以ってわが身を正すべし、聖人を以って人を正すべからず。凡人を以って人を許すべし。凡人を以ってわが身を許すべからず」といっています。

2019年9月2日月曜日

諸橋轍次博士4


そしてついに1960年、『大漢和辞典』全13巻が刊行完結、この功績により、1965年、文化勲章をお受けになりました。そのほか、先生の名誉は数限りなくありますが、これにまさる名誉はないでしょう。

先生の古里、新潟県南蒲原郡下田村では、政府が提唱する「ふるさと創生」を機に、終生この地を愛して止まなかった先生の偉大な学徳を顕彰すべく、その生家に隣接して土地を求め、1992年、諸橋轍次記念館を建設しオープンさせました。このプロジェクトの一環として、諸橋轍次記念館により編纂されたのが『諸橋轍次博士の生涯』(大修館書店 1992年)です。先に記した先生の履歴や、『大漢和辞典』完成に至る苦難の道は、すべて本書によるところです。

2019年9月1日日曜日

諸橋轍次博士3


 
先生はご自身の博士論文「儒学の目的と宋儒の活動」をまとめられるとともに、先生を慕うたくさんのお弟子さんからも協力を得て、1943年、ついに第1巻の出版へこぎつけました。これは僕が生まれた年です。ヤジ「そんなことはどうでもいい!!

しかし1945年、東京大空襲のため大修館が罹災、組み上がっていた印刷用の鉛版および資料がすべて烏有に帰してしまいました。並みの人間なら、ここで諦めたことでしょう。しかし先生は、並みの人間じゃ~なかったのです。完成していた巻と、疎開させていてために難を逃れた校正刷りをもとに、再チャレンジを試みたのです。

あのカタストロフィを経験した直後、みな食うや食わずの時代です。ついに先生は右目を失明、左目もかすかに明暗が分かるという危機に直面してしまいました。1955年、先生は『大漢和辞典』を完成させるため、危険を冒して順天堂病院で開眼手術を受け、左目だけは明かりを取り戻しました。

渡辺浩『日本思想史と現在』12

  そのとき『君たちはどう生きるか』の対抗馬 (!?) として挙げたのは、色川武大の『うらおもて人生録』(新潮文庫)でした。京都美術工芸大学にいたとき、『京都新聞』から求められて、就職試験に臨む受験生にエールを送るべくエッセーを寄稿したのですが、本書から「九勝六敗を狙え」を引用し...