2020年2月29日土曜日

お酒をほめる和歌1




 先日、森銑三先生の『偉人暦』から、文政10221日に没した市岡猛彦という尾張藩士を紹介しました。この語学者にして歌人の猛彦は、性酒を好み、「讃酒歌百首」を詠みました。猛彦には、かの万葉酒仙歌人・大伴旅人のDNAが受け継がれているようです。

旅人が詠んだ『万葉集』巻3「酒を讃むるの歌」はわずかに13首、猛彦の100首には及ぶべくもありませんが、やはり天平と江戸における歌のおおらかさには、明らかな違いがあるように思われます。もっとも、この13首を改めて味わうとき、旅人という天平人は酒仙歌人なんかじゃ~なく、アル中歌人というべきではないのかとも思われてきますが……(笑)あるいは泣き上戸だったのかな? 中西進さんの『万葉集<全訳注原文付>』によって、13首すべてをアップしておきましょう。

2020年2月28日金曜日

根津美術館「虎屋のおひなさま」5

 
鉄石の自賛はきわめて難解、戯訳はあきらめて独断の現代語訳を掲げましたが、やはり戯訳を期待しているというメッセージを、あるフェイスブック・フレンドからもらいました。そこで、ちょっと解釈も変えながら……

 芽吹いた柳 照り映える 咲いたばかりの桃の花
 ウグイス飛んでる鳴きながら 中空[なかぞら]高くまた低く
 男雛と女雛相ともに 歌を歌っているようだ
 内裏雛住む豪邸も 美しいだけ人の目に
 最後はついに朽ち果てて 栄華はかなき夢の跡
 だから窓にも鮮やかな 装飾なんてつけてません
 飾れば飾るほどいよよ 乱れてしまうハーモニー


2020年2月27日木曜日

根津美術館「虎屋のおひなさま」4



画面右上に五言律詩の自賛がありますが、これがきわめて難物、会場ではよく読めず、頂戴したカタログの写真で再挑戦してみましたが、まったくお手上げです。だからといってスルーしちゃうのは口惜しく、何とか読んだ結果と解釈を掲げることをお許しください。もっぱらこの絵に対する僕の直感から出発した解釈です――などといえばエーカッコシーですが(笑)

新柳映夭桃 鶯児鳴下上 郎君与洪嫉 歌喩誠心賞

大門地芳事 最北入逝像 深窓剪彩豕 装飾左平一

芽吹いた柳が咲いたばかりの桃と照り映えており、ウグイスが鳴きながら高く低く飛んでいます。男雛と女雛は、心を合わせて歌でも歌っているようです。内裏雛が住むような立派な家でも、それはただ目に美しいだけで、最後は朽ち果ててしまいます。だから私の描く女雛も、華麗な衣裳などは身につけていません。飾り立てれば立てるほど、この世のハーモニーは乱れてしまうものです。

2020年2月26日水曜日

根津美術館「虎屋のおひなさま」3


 
作例にあげられる『菊花図』は、かつて荻野家でほかのコレクションと一緒に親しく拝見した作品です。小林忠さんが『<荻野コレクション>聚成 江戸の絵画』(フジアート出版 1982年)を編集出版したとき、文人画36点の解説を僕に回してくれました。

もちろんその中に『菊花図』も含まれており、吉澤忠先生が『國華』953号に寄せた解説を参考にしながら、何とかまとめたことを懐かしく思い出します。あのころは結構まじめに書いたもんだったなぁ(笑)

 虎屋所蔵の鉄石筆「立雛図」はすばらしい水墨の一幅です。江戸時代の文人でお雛さんを描いた画家は少ないようですし、お雛さまといえば濃彩画が大半を占めるなかにあって、水墨というのがかえって洒落ています。虎屋さんからの特別注文だったのではないでしょうか。

2020年2月25日火曜日

根津美術館「虎屋のおひなさま」2




オープニング内覧会に招かれて堪能した饒舌館長が選ぶ「僕の一点」は、藤本鉄石(181763)の「立雛図」です。鉄石は江戸後期に活躍した文人画家、僕も大好きな一人です。伝歴については『新潮世界美術辞典』の項をそのまま掲げておきましょう。

名は真金、字は鋳公、別号は鉄寒士、都門、売菜翁。岡山東川原に生まれ、藤本家の養子となる。閑谷黌[しずたにこう]に学んで郡奉行所の小吏となったが、天保11年(1840)脱藩して大坂に出た。のち全国を遊歴して名跡をたずね一家をなした。画系は明らかでない。同志と天誅組を組織し、勤皇の志士の奮起を促したが、戦死した。詩書画を善くし、画には飄逸な風格があり、のちの富岡鉄斎に通じるものがある。作例に『山水図画帖』(東京、個人蔵)、『菊花図』(倉敷、荻野家蔵)などがある。

2020年2月24日月曜日

追悼 芳賀徹先生




 敬愛してやまない芳賀徹先生が220日、享年88でお亡くなりになりました。ご逝去を悼むとともに、心からご冥福をお祈り申し上げます。

一昨年、先生はライフワークともいうべき武陵桃源論をおまとめになり、『桃源の水脈 東アジア詩画の比較文化史』を名古屋大学出版会からお出しになりました。僕が「饒舌館長」でオマージュを捧げたことは、いうまでもありません。その後、僕は日本経済新聞からその書評を頼まれました。今度はブログなんかじゃ~ありません。再読させていただき、力を込めて書いたつもりです。もちろん恥ずかしい拙文ですが、先生から頂戴したお礼のお手紙に意を強くして、ここに再録いたしたく存じます。

 私が愛して止まない文人画家である池大雅も与謝蕪村も岡田米山人も、素晴らしい武陵桃源図を描き遺してくれた。これらについて考えたり、書いたり、しゃべったりする時、必ず開いたのが、芳賀徹氏の武陵桃源に関する論考だった。氏が論文「桃源郷の詩的空間」を東大比較文学会の紀要に発表したのは1977年、以後40年以上にわたる研究を集大成したのが本書である。ライフワークと称えられるべき成果であるが、今回書き下ろされた章が少なくない。研究者としての衰えぬ情熱に感を深くする。早速に私は、マイブログ「饒舌館長」にオマージュを捧げたのだった。

 もちろん、東洋の理想郷である武陵桃源については、古くから考察が行なわれてきたし、その根本文献ともいうべき陶淵明の「桃花源記」についても解説が施されてきた。しかし氏の論考は、それらと一線を画する。例えば、いかにも氏らしく「腑分け」と称する「桃花源記」の読みについても、その鋭さと深さに感動を覚えないものはいないであろう。

夢想つまり創造力喚起力を分析し、老子的小国寡民礼讃から田園平和への大転換を指摘し、近代的ユートピアの窮屈さを対比的に浮かび上がらせるところなど、まさに眼からウロコだ。桃源郷では外界と同じ時間が流れているのだが、ここにリップ・ヴァンウィンクルを登場させる。いかにも氏らしい。「鶏を殺して食を作す」とある料理法については、郭沫若もまったく触れていないそうだが、これも氏の発見である。

 とくに美術史家をもって任じる私にとって、十五世紀朝鮮絵画の傑作である安堅の「夢遊桃源図」から清・査士標の「桃源図巻」に至る「水脈」追跡の痛快さは、胸のすく思いであった。さらに新井白石や蕪村、上田秋成らの作品を丹念に読み込むことによって、氏が提唱する「パクス・トクガワーナ」を桃源の色に染めていく。こうして桃源郷は東アジア人の心理に、無限の郷愁と憧憬を呼び起こすことになる。二十世紀西洋近代のユートピアはきわめて管理的な社会であり、その瓦解とともに、トポスとしての桃源はさらに耀きを増しているという。

しかと腑に落ちるが、むしろ東アジアの桃源が瓦解しようとしている今日、このような書が世に問われたことの意味は、想像を超えて大きい。是非とも一読を勧めたいゆえんだが、全部を読破するには可なりのエネルギーが必要である。興味を引く一章から、拾い読みしていくのがベストだ。

根津美術館「虎屋のおひなさま」1



根津美術館「虎屋のおひなさま」<329日まで>(221日)

 去年、我が静嘉堂文庫美術館でもおひな様展を開催し、好評を博しました。名代の人形師・五代大木平蔵の手になる、岩崎家ゆかりのおひな様と子供のうさぎ行列に、ふたたび打ちそろってひな祭りをことほいでもらうことにしたのです。予想を超えて、多くの方々が春の一日をゆっくり世田谷は岡本でお過ごしくださいました。すでに「饒舌館長」へアップしたとおりです。

今年は静嘉堂文庫美術館おひな様展をお休みさせていただくことになっていますが、おひな様ファンの皆さまには、いま根津美術館で開催中の「虎屋のおひなさま」がオススメです!!

和菓子の老舗として知らぬ人はなき虎屋の14代、黒川光景[みつかげ]が、娘の算子[かずこ]さんのために用意した雛人形は、岩崎家と同じく丸平大木人形店の逸品です。また、目を凝らさなければその模様もよく分かたぬミニチュア雛道具は、上野池之端にあった七澤屋の作品だそうです。

2020年2月23日日曜日

市岡猛彦3


 
妻睦子、子の和雄、またともに歌をよくした。『讃酒百首』は猛彦の歿後に和雄が校訂して上木した。その序文の中で、父にうけついだのは酒飲む業ばかりだったといっているところを見ると、和雄もまた酒徒であったらしい。

 『連城亭随筆』の記するところに依れば、猛彦少時神に祈り、人生古から五十年という、寿はわが願うところではない、どうか一代の歌人とうたわれるようになりたいといった。後歌人として猛彦の名は世上に鳴った。そして文政十年彼が五十歳に達した時病を発し、二月二十一日というに歿した。

 いつ頃の詠であろうか、その編著『春風集』の中に、彼の稲妻の歌がある。

  露はなほおくれさきだつほどもあらんはかなきものは稲妻のかげ

と。心を惹かれる歌である。

2020年2月22日土曜日

市岡猛彦2



僕も谷文晁に関する拙文をいくつか書きましたが、『森銑三著作集』3に収められる「谷文晁伝の研究」がなかったら、とても不可能だったでしょう。

一度だけ、日比谷図書館でちらっと鶴のごときお姿を拝見したことがありますが、それは僕が一生の誇りとするところです。『偉人暦』も愛読書中の愛読書です。トイレに備えておいて、毎朝その日に没した偉人に思いを馳せることを日課にしているからです。森銑三先生、申し訳ありません!! お許しください!!

号を檞園、また椎垣内という。終わり藩士で、名古屋に於ける本居門の語学者として、また歌人として知られている。

猛彦、性酒を嗜み、「讃酒歌百首」というを詠んだ。

  世の中にさけてふもののなかりせば何をたのみて心やらまし

  人ごとにしげみこちたみ一つきの酒ばかりをや友とたのまん

  まづたのむこの一つきぞ月花あかぬあはれを知らせ顔なる

  のむ人の下のこころのまことこそ酒の上にてあらはれにけれ

などというが其中にある。

2020年2月21日金曜日

市岡猛彦1


今日2月21日は市岡猛彦の祥月命日です。市岡猛彦? 知っている方はほとんどいらっしゃらないでしょう。かくいう僕も、森銑三先生の『偉人暦』(中公文庫)を読むまでまったく知りませんでした。『偉人暦』によってのみ知っている偉人です。

あるいは「偉人」というよりも、きっとすばらしい一生だったんだろうなぁと思わせる一人の人間です。どこか懐かしい香りがする日本人だといってもいいでしょう。『偉人暦』の紹介もそんなに長くありませんから、全文を紹介しておきましょう。

ところで森銑三先生については、改めて紹介するに及びませんが、我が国の人物研究、いや、日本文化研究における「偉人」です。先生の研究は近世の画家にまで及び、その恩恵を受けなかった江戸絵画史研究者はいないでしょう。

2020年2月20日木曜日

静嘉堂文庫美術館WSと徳川景山の詩4


それでは斉昭――漢詩の作者としては「景山」の方がふさわしいと思いますが、その「弘道館に梅花を賞す」を、またまた僕の戯訳で紹介することにしましょう。渡部さんによると、僕が「学問の木」と訳した三句目の「好文」とは「好文木」の略で、梅の別名ともなっています。それは「帝が学問に親しめば梅が開き、学問をやめると開かなかった」という、中国・晋の武帝にまつわる故事によるところだそうです。我が庭の梅が今年も開いたのは、まだ僕が研究を止めていない証拠かな(笑)

  千本もの梅 藩校の 弘道館に植えられて
  今を盛りと咲いている 清き香りが馥郁と……
  学問の木とはいうけれど 武威の厳しさ兼ね備え
  花を開かせ真っ先に 独占する春 雪のなか

2020年2月19日水曜日

静嘉堂文庫美術館WSと徳川景山の詩3


しかし斉昭は日本の進むべき道をちゃんと見抜いていました。松平春岳には、「自分は従来の経緯があるから攘夷を主張するが、若い人は開国を主張せよ」と言ったというのです。本音を語りたくても語ることができなかった人間斉昭の苦悩も、僕はここに読み取りたいのです。

斉昭は江戸絵画史上においても、大きな役割をはたしました。水戸文人画を代表する立原杏所の才能を見抜き、画業の大成をたすけたのです。杏所は治紀(武公)、斉脩(哀公)、斉昭(烈公)の水戸藩主3代に仕えました。なかでも斉昭の信任はとくに厚く、先手組頭という閑職に杏所を就かせたのは、絵画創作に専念できるようにという、斉昭の心配りであったと伝えられています。


2020年2月18日火曜日

静嘉堂文庫美術館WSと徳川景山の詩2


暮れなずむころ帰宅すれば、猫のひたいほどの庭の白梅が、いまを盛りと咲き誇り、馥郁とした香りを放っています。僕の前に住んでいた西尾さんが植え遺していってくれた銘木です。さっそくダイニングルームからガラス越しに眺めながら、銘酒「百年の孤独」を一杯やれば、あぁ至福のひと時!とはこのことかと、おのずと腑に落ちます。

いつもダイニングに置いてある渡部英喜さんの『漢詩歳時記』(新潮選書)を開けば、景山と号した徳川斉昭の七言絶句「弘道館に梅花を賞す」が載っています。

斉昭は江戸末期の名君とたたえられた水戸藩主です。弘道館を創設して文武を奨励、意欲的に藩政を改革するとともに、幕政を補佐しました。しかし、幕末の外交問題が紛糾するや、鎖国攘夷を主張する斉昭は井伊大老に疎まれて水戸永蟄居を命じられてしまいます。

2020年2月17日月曜日

静嘉堂文庫美術館WSと徳川景山の詩1


静嘉堂文庫美術館ワークショップと徳川景山(斉昭・烈公)「弘道館に梅花を賞す」

 我が静嘉堂文庫美術館で開催中の「磁州窯と宋のやきもの」展にちなんで、今日は東京龍泉窯主・小山耕一さんによるワークショップ「掻き落しで陶器に絵を描く」が行われました。僕も前からぜひ参加しようと決めていた魅力的なイベントです。

小山さんの指導のもと、僕は大和文華館所蔵の「ナマズ図陶枕」からナマズを拝借し、鉅鹿手の傑作をものしました。これを小山さんが持ち帰って焼き上げ、1週間ぐらい経ったら、各自へクロネコヤマトで送ってくれることになっています。描き上げた後、宅急便送り状に僕の住所氏名を記入しましたが、我が作品のあまりにすばらしい出来栄えに、「品名」の欄には「自作国宝陶器」と書いちゃいました( ´艸`)

午後には、長い間お付き合いのある古美術商・荒木英彦さんが奥様と一緒にお訪ねくださいました。しばらくお会いしていなかったこともあり、饒舌に次ぐ饒舌をやっていたらあっという間に2時間、実に愉快な日曜の午後とは相成りました。

2020年2月16日日曜日

沈和年『水墨画の表現力を高めるために』4


ちょうどそのころ京都国立博物館で「池大雅展」が開かており、それにちなんで大雅がこの番組で取り上げられたのです。大雅は指墨の名手として生前から有名で、この特別展にも、その代表作である京博所蔵の「寒山拾得図」が出陳されていました。これをプリントした手拭いが京博ミュージアム・ショップで売られており、手拭い主義者の僕も愛用しているところです。

ヤジ「そんなこと、沈さんとはまったく無関係じゃないか!!

沈さんは大雅と同じく指墨を使って、それを臨写して見せたのです。かつて僕も、「大雅指墨論」なる拙文を書いたことがあるのですが、これは机上の空論にすぎませんでした。

もののみごとに沈さんが再現してみせてくれた「日曜美術館」で、はじめて僕は指墨がいかなる技法かを、具体的に知ることができたのです。世に水墨画家多しといえども、あれほどみごとに指墨を使いこなす方は、今や少ないのではないでしょうか。

2020年2月15日土曜日

沈和年『水墨画の表現力を高めるために」3


 
沈さんは「恍惚シリーズ」に続いて「たまゆらシリーズ」を発表していらっしゃいます。それらを拝見すると、古くから中国で重視されてきた「線」よりも、日本人が大好きな墨の「面」――つまり墨のにじみやぼかしによる不定形の美しさが魅力になっているように感じられます。
30年以上日本にお住いの沈さんは、やはり日本の四季や風土からも大きな影響を受け、力強い墨の線よりも、墨の広がりがもつ微妙なニュアンスに、より一層惹かれるようになっていらっしゃるのではないでしょうか。

ところで、沈さんのすばらしい画技に改めて感を深くしたのは、数年前、NHKの「日曜美術館」で披露された指墨(画)を拝見したときでした。指墨(画)は指頭(画)ともいい、筆を使わず、手の指やたなごころ、あるいは爪に墨をつけて描く特殊な技法です。

2020年2月14日金曜日

沈和年『水墨画の表現力を高めるために」2


沈さんは「はじめに」のなかで、この本の目的を、「本書では特に水墨画に興味を持つ若い世代や、書道や水彩画、日本画など、関連したジャンルの方々にとって有益な水墨画の学び方のポイントを紹介しました」と語っています。とくにQRコードが掲載され、動画で筆の角度やスピードが実感できるようになっている点は、これまでの教則本と一線を画すものといってよいでしょう。

最後に「各種の技法」として、さまざまな技法が紹介されていますが、これまでまったく知らなかった「拓墨法」というのがあって、興味を惹かれました。新聞紙や板や壁紙などに墨を塗り、乾く前にそれを本紙に移してモチーフを形作る技法です。僕自身は水墨画を描きませんが、これならできそうな感じがして、こんど試してみようと思ったことでした。

2020年2月13日木曜日

沈和年『水墨画の表現力を高めるために』1


沈和年『<濃淡・潤渇>と<点・線・面> 水墨画の表現力を高めるために』(日貿出版社 2020年)

 沈和年さん中国・上海出身の水墨画家、上海大学美術学院卒業後、1987年来日、それ以来日中両国で作品を発表していらっしゃいます。その素晴らしい作品は雑誌『趣味の水墨画』などで拝見していましたが、はじめてお会いしたのは、十数年前、総合水墨画展審査会においてでした。

それ以来、親しくお付き合いさせてもらっていますが、このたび沈さんは『<濃淡・潤渇>と<点・線・面> 水墨画の表現力を高めるために』という一書をお出しになりました。


2020年2月12日水曜日

静嘉堂文庫美術館「磁州窯と宋のやきもの」11


①白地黒掻落牡丹文如意形枕(磁州窯 伝鉅鹿出土)        宋時代  №17

   狩野山楽「牡丹図襖」(大覚寺<宸殿>蔵)          江戸時代初期

②白地鉄絵獅子花卉文壷(磁州窯系)               元時代  №34

   俵屋宗達「唐獅子図杉戸」(養源院蔵)            江戸時代初期

③三彩白地掻落束蓮文枕(磁州窯系 伝山西出土)         金時代  №26

   酒井抱一「白蓮図」(細見美術館蔵)             江戸時代後期

④翡翠釉白地鉄絵龍鳳文壷(磁州窯)               元時代  №36

   伊藤若冲「老松鳳凰図<動植綵絵>」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵) 江戸時代中期

⑤白地鉄絵紅緑彩人物文壷(磁州窯系)              元~明時代№51

   曽我蕭白「群仙図屏風」(文化庁蔵)             江戸時代中期

⑥白地鉄絵虎図枕(磁州窯「張家造」印銘 伝鉅鹿出土)      金時代  №22

   長沢芦雪「龍虎図襖」(串本・無量寺蔵)           江戸時代中期

⑦黒釉線彫「福徳長寿」文梅瓶(磁州窯系)            金~元時代№44

  白隠慧鶴「七福神寿船図」(個人蔵)             江戸時代中期

⑧白地鉄絵水禽図枕(磁州窯 泰和元年<1201>墨書銘)      金時代  №21

   司馬江漢「秋景芦雁図」(ボストン美術館蔵)         江戸時代中期 

⑨黒釉掻落魚鳥文四耳壷(磁州窯系)               元~明時代№49

   渡辺崋山「遊魚図(海錯図)(静嘉堂文庫美術館蔵)      江戸時代後期

⑩翡翠釉白地鉄絵菊花文双耳香炉(磁州窯系)           元~明時代№37

   葛飾北斎「菊花図」双幅(小布施・北斎館蔵)         江戸時代後期

2020年2月11日火曜日

静嘉堂文庫美術館「磁州窯と宋のやきもの」10


この場合も、日本化が行なわれました。たとえば、中国では吉祥長寿の象徴である「松」から、日本では「待つ」が思い出され、「恋人」や「恋」がイメージされるようになりました。「松」を「ソン」と発音する中国に、このようなシンボリズムがないことは、いうまでもありません。

「松」のような日本化があることはありますが、基本的には中国の吉祥性を受け継いでいるといってよいでしょう。江戸時代の画家がそれをよく理解し、それを思い浮かべながら絵筆を採ったことは、まず間違いありません。

かくして、磁州窯も江戸絵画も、その図像的吉祥性の淵源をたどっていけば、古代中国にまでさかのぼることになります。とくに唐朝五代絵画の影響力は、とても強いものがあったというのが私見です。つまり、磁州窯と江戸絵画は、まったく関係がないなどといえないことになります。

僕は次のような「マイベストテン」を選んで、両者に共通する吉祥性について口演したのですが、やはりいつものごとく、ちょっとコジツケ気味だったかな(!?) ちなみに、磁州窯作品の終りについているナンバーは、本展覧会の出品番号です。

2020年2月10日月曜日

静嘉堂文庫美術館「磁州窯と宋のやきもの」9


しかし視点をずっと高くとれば、まったく無関係ともいえません。両者のモチーフにおける吉祥性や象徴性――草花でいえば「花ことば」は共通しているからです。もちろん、それらのみなもとは中国にありました。これを知るためには、中村公一著『中国の花ことば 中国人と花のシンボリズム』(岩崎美術 1988年)という名著があります。

これを美術にまで広げれば、宮崎法子さんの『花鳥・山水画を読み解く――中国絵画の意味』(ちくま学芸文庫 2018年)が思い出されますし、1998年、東京国立博物館で開催された特別展「吉祥――中国美術にこめられた意味」のカタログもオススメですよ。

2020年2月9日日曜日

静嘉堂文庫美術館「磁州窯と宋のやきもの」8


この「磁州窯と宋のやきもの」展にちなむ「館長おしゃべりトーク」は、担当する学芸員・山田正樹さんと相談のうえ、同じモチーフを扱う磁州窯と江戸絵画を一緒に映して、その吉祥的イメージを中心に口演することにしました。題して「めでたい絵 饒舌館長口演す――磁州窯発 江戸絵画行き――」。今回は57577の和歌調になっているところがミソです(!?)

磁州窯と江戸絵画といっても、両者の間に直接的関係なんて何もありません。江戸の画家が磁州窯を見ながら、あるいはそれをヒントに自分の絵を描いたなどということは、絶対にありません。なぜなら、磁州窯の学術的発掘が行なわれたのは1920年、それより早く盗掘が始まったとしても、近代に入ってからの話だからです。

2020年2月8日土曜日

静嘉堂文庫美術館「磁州窯と宋のやきもの」7


「油滴天目」と「法螺貝香炉」の二点は、すでに重要文化財に指定されていて、国宝も夢ではありませんが、未指定ながら、磁州窯の傑作「白地黒掻落し牡丹文枕」を三点目にあげたいと思います。

磁州窯お得意の白地黒掻落しという技法に、非の打ち所がないとはいえ、やはり民窯の磁州窯、得もいえぬ箆削りのあとが心を和ませてくれます。融通無碍とも見える牡丹のデザインは、凛とした黒白対比のなかにどこか懐かしさをたたえて、一夜の安眠を約束してくれそうです。

この「牡丹文枕」は、来年一月十八日(土)から我が館で始まる「磁州窯と宋のやきもの」展を象徴する一点です。ぜひご来駕のほど、お待ち申し上げております。

2020年2月7日金曜日

静嘉堂文庫美術館「磁州窯と宋のやきもの」6


この油滴天目に匹敵するやきものを我が和物から選べば、まずは野々村仁清の「色絵法螺貝香炉」に指を折りたいと思います。厚めの素地をつなぎ合わせて造形したそうですが、本当の法螺貝のように見えて、じつは海老茶、青、薄緑、金による上絵付けの効果を最大限生かすために創り出された、イメージとしての法螺貝です。そこに仁清が天から与えられた才能を読み取りたい誘惑に駆られます。

仁清の御室焼きは、姫宗和とたたえられて公家風の茶道を確立した茶人・金森宗和の指導を受けて完成しました。そのためか、仁清の華やかな<姫>の部分にのみ関心が向けられる傾向がありますが、それを根底で支えていた造形にこそ、仁清の真骨頂は現われています。我が館には、もう一つ「色絵吉野山図茶壷」という仁清の傑作がありますが、僕の好みからいえば、やはり「法螺貝香炉」ですね。

2020年2月6日木曜日

すみだ北斎美術館マイ口演会


すみだ北斎美術館マイ口演会「<天才葛飾北斎論――その芸術と奇想と美>饒舌館長口演す」(28日 1400~)

 すみだ北斎美術館では、いま特別展「北斎師弟対決!」<45日まで>が好評開催中です。これにちなんで、僕に口演のオファーがかかりました。かつて出版した『北斎と葛飾派』(至文堂「日本の美術」)の北斎私論――例の独断と偏見、妄想と暴走ですが、これをバージョンアップして、饒舌トークを展開します。

お時間のある方、日本美術を愛してやまない方、北斎が好きな方は、ぜひご来駕のほどを❣❣❣ 定員60名とのことですが、得意の琳派ならともかく、果たして何人の方がいらしてくださるものか、ヒヤヒヤしています――と言いながら、本当は満席になることを信じて疑いません( ´艸`) それはともかく、僕の口演なんか二の次で結構ですから、「北斎師弟対決!」だけはぜひご堪能下さいませ❣❣❣

静嘉堂文庫美術館「磁州窯と宋のやきもの」5


静嘉堂文庫美術館はやきものの宝庫です。もちろん、絵画も書もやきもの以外の工芸も、すばらしい名品がそろっています。しかし、今や知らない人はいない国宝「曜変天目」――固有名詞を使えば「稲葉天目」に象徴されるやきものこそ、静嘉堂文庫美術館がもっとも誇るべきジャンルだといってよいでしょう。そのなかから、国宝指定を受けるにふさわしいやきもの3点を選んでみました。 

「曜変天目」の名をすでにあげましたが、これにすぐるとも劣らぬ美質をそなえる中国のやきものが、我が「油滴天目」です。「曜変天目」と同じく、福建省の建窯で焼かれた南宋の天目茶碗で、ほかに例をみない大きさにまず驚かされます。

朝顔形の姿もめずらしく、黒釉上に密集する油滴斑は、幽玄にして妖艶なる光を発して見るものの魂を奪います。華麗なる「曜変天目」とは異なる、恐ろしいような底光りの美だといってもよいでしょう。世にすぐれた油滴天目は少なくありませんが、これを凌駕する作品は求めがたいように感じられます。


2020年2月5日水曜日

静嘉堂文庫美術館「磁州窯と宋のやきもの」4


すぐ僕は「私が選ぶ、やきもの3選」と題するエッセーをワープロして、編集部に送りました。何を選んだかって? 言うまでもなく、3点ともすべて静嘉堂文庫美術館コレクションの作品ですよ(!?) もちろん「僕の一点」に選んだ「白地黒掻落牡丹文如意頭形枕」を加えましたが、この「磁州窯と宋のやきもの」展の宣伝も、チャッカリ滑り込ませてもらいました。まだお読みでない方のために、これを紹介させていただきましょう。

2020年2月4日火曜日

静嘉堂文庫美術館「磁州窯と宋のやきもの」3


もうひとつのキャッチコピー「白黒つけるぜ!」は、伝統ある静嘉堂文庫美術館としてはちょっと異色ですが、白地黒掻き落しという異色技法がもつコントラストの美しさを、端的に表現しようとしたものです。「俺らがおこれば 嵐を呼ぶぜ」から威勢のいい啖呵口調を借り、よしあしを決めるという意味の慣用句を転用して……。もっとも、若干ウケ狙いもあったかな( ´艸`) そもそも、裕次郎なんてもう古いかな( ´艸`)

「僕の一点」はこの手法を用いた「白地黒掻落牡丹文如意頭形枕」です。正真正銘の磁州窯で、鉅鹿出土と伝えられています。

ところで去年12月、30年以上にわたり愛読されてきた陶磁器美術雑誌『陶説』が、ついに800号の大台に乗り、これを記念して、「やきものの国宝」という特集号として編集されることになりました。編集部からは、これから新しく国宝に指定されるにふさわしい陶磁器を3点選び、一文を添えて欲しいという依頼が届けられました。

2020年2月3日月曜日

静嘉堂文庫美術館「磁州窯と宋のやきもの」2


もっともそれ以前から盗掘は行なわれていたそうですが、鉅鹿の学術的発掘から数えて、今年はちょうど100年の節目に当たっています。この「磁州窯と宋のやきもの」展は、「東洋のポンペイ」ともたたえられる鉅鹿の磁州窯が、社会的に認知されてから、ジャスト100年を記念する展覧会でもあるのです。そこで「鉅鹿発見百年」というキャッチコピーを考えてつけたというわけです。

磁州窯の様式はきわめて変化に富んでいますが、白地黒掻き落しこそ、磁州窯を象徴するものでしょう。灰色の素地に白土を白化粧掛けし、さらに鉄絵具を塗り掛け、それを掻き落して文様を作り出す、きわめて手の込んだ手法です。

2020年2月2日日曜日

静嘉堂文庫美術館「磁州窯と宋のやきもの」1


静嘉堂文庫美術館「磁州窯と宋のやきもの」<315日まで>と館長おしゃべりトーク(21日)

 静嘉堂文庫美術館では「磁州窯と宋のやきもの」展を開催中です。磁州窯は中国・河北省磁県観台鎮(彭城県)にあった華北最大の陶窯です。さらに宋代以降、華北一帯で焼成された相似た様式を有するやきものをグルーピングして磁州窯系と呼んでいます。あまりに広く磁州窯をとらえることに反対して、厳密な定義を下した長谷部楽爾さんの意見などを取り入れたものでしょう。

その発祥は唐末五代と推定されており、中心となったのは鉅鹿という町でした。ところが北宋末の1108年、鉅鹿は大洪水のため完全に埋まってしまい、天津博物院の研究者が学術的発掘を行なって、その全容を明らかにしたのは1920年のことでした。

2020年2月1日土曜日

アーティゾン美術館「見えてくる光景」12


一つの配石は、十数個の石からなるといわれるが、もっと多くの石からなるものもあった。また現状は発掘されたままを厳密に保存しているのであろうが、その形をはっきりと認識することはなかなか難しいように思われた。

しかし、その形はおよそ8種に分類されるという。このような形の違いは、埋葬される人の性別や成人か否か、あるいは婚姻などによる移住者か否かなどを反映しているらしい。これらによれば配石遺構は墓ということになるが、人骨はまったく出てこないらしい。そうなると、本当の墓は別にあって、配石遺構 は象徴的な意味での墓ということになる。 もっとも、土壌や気候の関係から、人骨は完全に溶けてしまう場合もあるから、依然墓の可能性は残っている。いずれにしろ埋葬と深く関係づけられることになる。

渡辺浩『日本思想史と現在』10

  『近世日本社会と宋学』は研究書ですから、やや手ごわい感じを免れません。それはチョッと……と躊躇する向きには、『日本政治思想史 十七~十九世紀』(東京大学出版会  2010 年)の方をおススメしましょう。 渡辺浩さんがあとがきに、「本書は、この主題に関心はあるがその専門の研...