2024年1月31日水曜日

あつぎ郷土博物館「渡辺崋山口演」1

 

あつぎ郷土博物館「渡辺崋山ベストテン 饒舌館長口演す」

 あつぎ郷土博物館から、渡辺崋山について講演してほしいというオファーがかかりました。じつは3年前のことですが、コロナ禍のためキャンセルになってしまいました。しかし疫病もおさまりましたし、ちょうど今年は開館5周年なので、その記念イベントとしてリベンジ講演をお願いしたいとのこと、もちろん喜んでお引き受けすることにしました。

というのも、厚木は崋山ゆかりの土地、そこでマイ崋山観をぜひしゃべってみたいと思ったんです。「美術品は所蔵館で 地酒はその土地で!!」というのは、僕が考えたなかでもっともウケのいいキャッチコピーですが、もう一つ「口演もゆかりの土地で!!」を加えるべきかな() 

2024年1月30日火曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」13

 

先の吉田映二先生は、「紅嫌い(紫絵)の絵師として最も多い作品をのこし、しかもその創始者は鳥文斎栄之である」と述べています。しかし畏友・浅野秀剛さんは、天明56年ごろ、窪俊満や勝川春潮らによって制作され始めたと考えています(『浮世絵大事典』)。さすがの栄之も、パイオニアの栄誉は他に譲らざるをえないようです。

サムライ出身であった鳥文斎栄之に紅嫌いが多いのは、ソンタクのためだったのではないでしょうか。もともと旗本であった栄之に、老中・松平定信に対する過度の推察が強かったとしても、不思議でも何でもありません。

もちろん栄之のライバルで、町人出身であったと思われる喜多川歌麿にも紅嫌いはありますが、その遺品は寥々たるものです。ソンタクも広い意味で寛政の改革の影響だなんていえば、これまた独断と偏見かな(!?)

2024年1月29日月曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」12

確かに寛政2年(1790)の御触書では、一枚絵に華美を尽くし潤色を加えることのなきよう指導していますが、普通の錦絵を禁じるとか、あるいは色板の数を減らせ、彩度を落とせというような条文はありません。

しかしその後僕は、松原説を認めた上でなお、浮世絵師の側に、あるいは版元の方に、寛政の改革に対する過度の推察、チョッと前にはやった言葉でいえば、ソンタクがあった可能性まで否定することはできないんじゃないかと思うようになりました。あるいは浮世絵師や版元が時々ポーズとして示す、恭順の意といってもよいでしょう。だからこそ、寛政の改革が終息し、あの化政文化の時代がやってきたとき、もう紅嫌いなんかやる必要はなくなってしまったのです。

 

2024年1月28日日曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」11

ところが昭和56年(1981)、畏友・松原茂さんが「紅嫌いと寛政の改革」という論文を『ミュージアム』358号に発表したんです。松原さんは松平定信の自伝的回顧録『宇下人言うげのひとごと』を読み、天明7年の記事に「ちかき比ころは、東あずまにしきえとて、くろきとむらさきにてすり出し」とあることを発見したんです。

松原さんはその他の傍証を加えて、紅嫌いは寛政の改革と関係がなく、むしろ美意識の問題としてとらえるべきだと主張したんです。そのころ僕は名古屋大学にいましたが、「これで決まり!!」と深く心を動かされました。それ以来、この松原説が定説になったんです。

 

2024年1月27日土曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」10

 

寛政の改革によって十数度摺といったような華美な版画が禁ぜられたために生じたと解釈する人もあり、絵師の工夫と趣向によるものであるとする人もあって一定していないが、宝暦時代、つまり紅摺絵時代の「草絵」は政治的圧迫によらない絵師の(あるいは版元の)一つの趣向であったらしいことを考える時、「紫絵」も軌を一にした絵師または版元の趣向であったとすべきであると解釈する後者の説の方が強いようである。

 ここにある「紫絵」というのは紅嫌いのことです。紅嫌いのうち特に紫色が目立つものを紫絵と呼んでいますが、吉田先生は同義語として使っているようです。むしろ紅嫌いの同義語は「紅抜き」ですが、これを用いる人は少なくなっているんじゃないかな?


2024年1月26日金曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」9

もう一つ「僕の一点」として、「風流七小町」シリーズをあげたいと思います。紅嫌いの傑作だからです。派手な紅色を使わず、濃淡の墨、紫、緑、黄だけで摺った錦絵を紅嫌いと呼んでいます。たくさんの浮世絵師が試みましたが、栄之こそ紅嫌いのチャンピオンでした。質量ともに群を抜いているからです。

 錦のように華麗であるところから錦絵と呼ばれることになった木版浮世絵に、どうして紅嫌いのような渋い色調の錦絵が生まれたのでしょうか。これについては二つの説がありました。吉田映二てるじ先生の『浮世絵事典』(画文堂 1974年)には、つぎのように書かれています。 

2024年1月25日木曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」8

 

鳥文斎栄之というすぐれた浮世絵師を誕生させたのは、意外なことに、寛政の改革だったのです(!?) というわけで、「僕の一点」は「大田南畝像」(東京国立博物館蔵)ですね。栄之は同じくサムライであった南畝と親密な交流を重ねていました。南畝の自賛をともなう「大田南畝像」は、そのすぐれた証拠でもあるんです。

しかし、寛政の改革を前に、地位をまもって軟派文芸から身を引いた南畝と、身分を捨てて浮世絵師に生まれ変わった栄之は、対極的な生き方を選んだ二人の天才のように思われてなりません。


2024年1月24日水曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」7


 

将軍・家治が没し、意次が収賄の疑いで罷免されたとき、栄之の浮世絵師になろうという気持ちは決定的になったにちがいありません。意次一派と見なされていた栄之にとって、田沼一掃後も幕府御用をつとめるのが狩野派だったとしても、その画家になることは、きわめて難しかったしょう。なれたとしても、意次一派と見なされれば将来は暗かったはずです。

翌天明7年には、松平定信が老中になって寛政の改革が本格的に始まりますが、社会の大きな変化を栄之も感じ取っていたことでしょう。事実、定信は意次との関係が深かった木挽町狩野を嫌ったためか、谷文晁という手垢のついていない新進気鋭の画家を、御用絵師として採用したのです。

2024年1月23日火曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」6

 

寄合というのは、江戸幕府の旗本のうち、禄高3千石以上の非職の者(『広辞苑』)です。細田家は500石のはずですが、栄之の禄高はそんなに増えていたのでしょうか。

それはともかく、栄之は絵画への興味を捨て去ることができず、画家として生きたいという気持ちが強くなった結果、辞職したのではないでしょうか。しかしこの段階では、狩野派でいくか、浮世絵でいくか、迷い悩んでいたにちがいありません。狩野派の画技だって、師の栄川院典信から一字を拝領するほど完璧だったんです。ところが続いて天明6年の条には、「将軍家治没、田沼老中を罷免される。栄之、この頃より『風流十二月』など錦絵を手がけるようになる。清長の画風の影響大」とあります。


2024年1月22日月曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」5

栄之の「栄」は栄川院典信から一字を拝領したものですが、じつはこの栄川院が、かの田沼意次たぬまおきつぐと昵懇じっこんの仲だったんです。また当時の将軍・家治いえはるは、意次の政治経済手法を高く評価し、老中に抜擢し、ほとんど仕事を丸投げしていました()。栄川院やその弟子栄之は、家治・意次グループの一員だったことになります。

もっとも、栄之は旗本ながら政治にほとんど興味がなかったらしく、カタログの「鳥文斎栄之関連年表」をみると、天明3年(1783)の条に「2月、栄之、西の丸勤務となるが10月には職を辞し寄合となる」と書かれています。

 

2024年1月21日日曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」4

 

 去年、喜多川歌麿の『画本虫撰』が松平定信による寛政の改革を揶揄するサトリ絵だったのではないかという妄想と暴走をアップしましたが、鳥文斎栄之も寛政の改革に翻弄された浮世絵師でした。いや、それを逆手にとるようにして、自分の絵画世界を創り出した浮世絵師だったというのが、僕の見る栄之像ですね。

 禄高500石の旗本・細田家に生まれた栄之は、小さいときから絵が好きだったのでしょう。何歳の時か分かりませんが、木挽町狩野家の栄川院典信えいせんいんみちのぶに画技を学び始めます。そしてみずから好んで絵を描いた10代将軍・徳川家治の絵具方になります。絵具方というのは、将軍や御用絵師のために絵具や筆墨などの画材を用意する役職だったのでしょうか。

2024年1月20日土曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」3

 

当時錦絵(浮世絵版画)は、一層華やかな展開期にありましたが、栄之もまた浮世絵師として数多くの錦絵を制作、長身で楚々とした独自の美人画様式を確立、豪華な続絵を多く手がけたことは注目されます。さらに寛政10年(1798)頃からは、肉筆画を専らとし、その確かな画技により精力的に活躍しました。寛政12年頃には、後桜町上皇の御文庫に隅田川の図を描いた作品が納められたというエピソードも伝わっており、栄之自身の家柄ゆえか、特に上流階級や知識人などから愛され、名声を得ていたことが知られています。


2024年1月19日金曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」2

 

 田辺昌子さんと染谷美穂さんのキューレーションは「素晴らしい!!」の一語に尽きます。わが国空前の大栄之展にして、絶後の大栄之展となるのではないでしょうか。お二人が編集したこれまた素晴らしいカタログから、「ご挨拶」の一部を引いておきましょう。

鳥文斎栄之(17561829)は、旗本出身という異色の出自をもち、美人画のみならず幅広い画題で人気を得た浮世絵師です。当初栄之は、将軍徳川家治の御小納戸役として「道具方」という役目を務め、御用絵師狩野栄川院典信に絵を学びましたが、天明6年(1786)に家治が逝去、田沼意次が老中を辞した時代の変わり目の頃、本格的に浮世絵師として活躍するようになり、やがてその家督を譲り身分を離れます。


2024年1月18日木曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」1

 

千葉市美術館「鳥文斎栄之展 サムライ、浮世絵師になる!」<33日まで>

 去年の秋からNHK文化センター青山教室で、「魅惑の日本美術展 厳選ベスト6だ!」という講座を開いています。12月の第3回には、千葉市美術館の特別展「鳥文斎栄之ちょうぶんさいえいし展 サムライ、浮世絵師になる!」と、同時開催の企画展「武士と絵画――宮本武蔵から渡辺崋山、浦上玉堂まで」を取り上げました。

しかしまだオープン前だったので、ミズテンでしゃべっちゃったんです() というわけでチョッと後ろめたくもあり、内覧会の日に飛んでいきました。長い間ご無沙汰していた浮世絵フレンドにもたくさん会えましたし、レセプションでは千葉の銘酒をたんとご馳走になりました。やはり内覧会の日に来てよかった!!()

2024年1月17日水曜日

日比野秀男『渡辺崋山』15

 このような図像解釈は、どれが正解でどれが間違っているということはなく、断言できるのは崋山が隠喩メタファーの画家であった事実です。「鸕□捉魚図」においても、崋山は舶来清人画家・沈南蘋しんなんぴんの図像を借りながら、自己の思想を表現したのです。

 ところで特に「鸕□捉魚図」を取り上げたのには、ワケがあります。日比野秀男さんの新著『渡辺崋山――作画と思想――』は、この傑作を所蔵する出光美術館の助成を受けて、出版されることになったからです。微力ながら長年にわたり、この美術館のお手伝いをさせてもらっている僕にとって、こんなうれしいことはありません。 

2024年1月16日火曜日

日比野秀男『渡辺崋山』14

 

 鵜の羽で葺く産屋には、南方海洋国の習俗が反映していると考えられていますが、日本という国の誕生を象徴するもっとも重要なモチーフとなっているのです。鵜それ自体を日本と見なす隠喩メタファーがここにあるのです。そう思って翡翠を見ると、腹や嘴が朱で着彩されており、江戸時代には、オランダ人や広く欧米人を紅毛人と呼んだこととも思い出されてくるのです。

もっとも、この翡翠は普通のカワセミではなく、嘴が朱赤色のヤマショウビンに近いのですが、我が国にも迷鳥としてまれに渡来することがあるそうです。僕はこんな風に「鸕□捉魚図」を解釈してみたんですが、日比野さんが提唱する華山海防思想説の応援演説にもなっているんじゃ~ないかな()

2024年1月15日月曜日

日比野秀男『渡辺崋山』13

 

鵜がようやく水中で鮎を一匹捕まえて、水面に浮かび上がった瞬間で、柳の枝には翡翠が止まっています。ただ止まっているのではありません。鵜がくわえた魚を狙っているのです。翡翠という外国が、日本という鵜の持ち物を狙っているのです。

 僕が鵜を日本の象徴と見なすのは、『古事記』に伝えられる鵜草葺不合命うがやふきあえずのみことのことを思い出すからです。鵜草葺不合命は鵜の羽で葺く産屋でお生まれになりましたが、この神様と玉依比売たまよりひめの間に生まれたのが、初代天皇とされる神武なのです。狩野探幽の筆になる有名な掛幅があり、東京国立博物館に所蔵されています。


2024年1月14日日曜日

日比野秀男『渡辺崋山』12


日比野さんが田原蟄居時代における最初の作品とする傑作に「鸕□捉魚図ろじそくぎょず」(出光美術館蔵)があります。「鸕□」の□は「茲」に「鳥」を書くのですが、僕のワードでは出てこない変な字です。鸕□とは鵜飼に使われる鵜のことです。日比野さんはここにも崋山の心境を読み取っています。つまり目先の獲物に夢中になっている鸕□が崋山であり、樹上でさらにその獲物を奪い取ろうとしている翡翠かわせみは、蛮社の獄で崋山を陥れた鳥居耀蔵を想定して描かれたのではないかというのです。

一方、佐藤康宏さんは自分の餌になったかもしれない鮎を奪われた翡翠を崋山に、奪った鵜を幕府に擬定しようとしています。これに対し、僕は異なった解釈を『月刊 水墨画』20144月号<河野元昭が選ぶ水墨画50選>に書いたことがあるんです。

2024年1月13日土曜日

日比野秀男『渡辺崋山』11

 

これらに対し、日比野さんは2001年から刊行が始まった古河歴史博物館編『鷹見泉石日記』(吉川弘文館)や大槻磐渓の手紙などを詳細に読み解いたのです。そして、崋山が泉石像のスケッチを開始したのは天保73月ごろであり、3年後の同103月ごろピークに達し、天保12415日に完成したと推定したのです。

言うまでもなく、崋山が田原に幽閉されていたときであり、年記は遡及させたものとなります。これによって崋山の画歴における田原蟄居時代の意義は、さらに高まったといって不可なく、この日比野説が定説となっていくことでしょう。

2024年1月12日金曜日

2024謹賀新年12

 

大窪詩仏「『酒は独ひとり飲む理ことわり無し』を賦し得たり」続

 詩を詠む飲み会 開催し 一流人士と唱和せん

 罰酒・罰杯すべてなし 献酬けんしゅうあるのみ乱れても……

 気持ちよく酔い揮毫すりゃ 北斗星さえ射抜くだろう

 嘆くに足らず秋の雨 詩魂は繭まゆの糸のよう

 談笑 清き風を生み そよそよ さやさや吹くだろう

 空の雨雲 吹き飛ばし 万里の秋を詠み出さん!!

2024年1月11日木曜日

2024謹賀新年11

 

大窪詩仏「『酒は独ひとり飲む理ことわり無し』を賦し得たり」

 掃愁箒そうしゅうそうとは酒のこと 釣詩鈎ちょうしこうとも呼ばれます

 落ち込んだらば飲んでごらん でも独酌じゃ~効果なし

 詩を詠むときも独酌じゃ~ すぐれた詩なんかできません

 「酒 酒を飲む」というように 注いで注がれて盛り上がる

 酒の池など欲しくない 酒粕さけかすの丘――それも要らん

 酒仙なんかは望みません 酔郷王となることも……

2024年1月10日水曜日

2024謹賀新年10

 

 『江戸詩人選集』5は市河寛斎と大窪詩仏の巻です。ついでにと言うと詩仏に失礼ですが、彼の賛酒詩も一酒、いや一首紹介せずにはいられません。季節は秋ですが、初春にふさわしいような明朗なる響きに満ちていますし、何よりも、我が故郷秋田ゆかりの絶唱だからです。

天保2(1831)5月、詩仏は江戸を発って秋田におもむき、晩秋まで滞在したそうです。6年ほど前から、秋田藩に出仕していたからです。この詩はその間に秋田で詠まれました。秋の長雨に降り込められたとき、憂さ晴らしのため開かれた酒宴で詠んだのであろうと、揖斐高さんは推定しています。さすが我が故郷は酔郷、詩仏先生の無聊を見て見ぬふりなんかしません。いや、招待した方が飲みたかったのかな()

2024年1月9日火曜日

2024謹賀新年9


 市河寛斎詠・磯田湖龍斎画『北里歌』の原本は、国立国会図書館、都立日比谷図書館、大東急文庫などにあるようですが、早く複製本が出版されました。家蔵するのは「<新編>稀書複製会叢書」第28巻で、これは平成2年(1990)出版された叢書のなかの1冊です。

この叢書は、かつて稀書複製会から出た複製本を、尊敬する中村幸彦先生と日野龍夫先生が再編集し、臨川書店から出版したシリーズのようです。この第28巻には、ほかに『娼妓画幉』『<今様>吉原たん歌』『傾城評判記』『長崎土産』が収められています。

この筆者不詳の解説も旧複製本をそのまま影印したものですが、寛斎が昌平黌を辞任したのは、この『北里歌』の評判が高まったためであると書かれています。「玄味子」なんて変名を使っても、やはりバレちゃったのかな()

2024年1月8日月曜日

2024謹賀新年8

 




市河寛斎「北里歌」

 夜明けの雲が窓の外 垂れ込め雪が霏々ひひと降る

 君をやさしく引き止めて 忘れさせたの里心

 赤土あかつち焼きの手あぶりの 灰に炭火を埋うずめたら

 も一度 朝酒 温めて 守ってあげましょ 寒さから

2024年1月7日日曜日

2024謹賀新年7

 

 市河寛斎はお酒とともに吉原も好きだったのかな? それをモチーフに、30首の七言絶句からなるセクシーな「北里歌」を詠み、浮世絵師・磯田湖龍斎の挿絵を添えて絵入り漢詩集を出版しました。さすがの寛斎も「玄味子」などという変号を使いましたが……。これは中国の竹枝詞の影響を受けたものといわれますが、僕がおもしろいなぁと思うのは、古文辞格調派も早くこれを試みていたという事実です。

服部南郭が作った「潮来の詞」などもその一つで、かつて紹介したことがあるように思います。つまり、清新性霊派といえども古文辞格調派の影響を受けているんです。あるいは中国の竹枝詞を取り入れているという点で、兄弟の関係に結ばれているといっても過言じゃ~ありません。寛斎の「北里歌」30首からは、お酒が詠み込まれている一首を……。



2024年1月6日土曜日

2024謹賀新年6

 

富士川英郎先生の『江戸後期の詩人たち』(筑摩叢書)に採られる「春遊」も賛酒詩、とくに後期高齢者の心に染み渡ります。お正月にはチョッと早すぎますが……。

  春の遊山ゆさんも年とれば 気の向くままにのんびりと……

  大切なのは酒を持ち 霞のなかで酔うことだ

  陰暦二月は日本晴れ 清明節のころは雨

  あっちこっちと江戸の花 行かない所はありません


2024年1月5日金曜日

2024謹賀新年5

 

 「教えてください寿老人 いかに除かんこの愁い」

 老人笑って「我を見よ 髪の毛すべて真っ白だ

 ましてオマエの人間界 除去する術すべなどあるもんか

 だが妙案を君がため!! 飲んで赤子あかごに返るんだ!!

 自他の区別は三杯で 毀誉きよは五杯で忘却せん

 そうすりゃ<道>に通じるし 月日も自由にできるんだ

 ただ酔っ払え!! 醒めちゃダメ すすり泣いても効果なし

 すぐに帰って酒を買え!! この言げん帯に書いておけ!!


2024年1月4日木曜日

2024謹賀新年4

 

 お正月といえばお酒ですが、もちろん市河寛斎も大すきだったようです。五言古詩「白髪の歎き」は老いを歎く詩ですが、寛斎の真意は賛酒にあったんじゃないのかな()

 白髪――どこから生えてくる? 四十で初めて櫛に見る

 日に日に一本また一本 白く染めきて愁えしむ

 加齢 病気につけ込んで 増やされそのうち胡麻塩に……

 月日は流れて七十歳 とうとうこんなに真っ白に……

 偉くったって免れず 金があっても許されず

 <唯一この世で公平だ> この格言は嘘じゃない


2024年1月3日水曜日

2024謹賀新年3

 

市河寛斎「雪中の雑詩」2

 明け方の風 運び来る 破れ窓から入る寒気

 布団のなかで長身を 弓に曲げてもまだ寒い

 軒から氷柱つららが何本も 垂れて地面に届いてる

 見よ 水晶のすだれ越し 月――透き通る美しさ


2024年1月2日火曜日

2024謹賀新年2

市河寛斎「雪中の雑詩」1

 屋根にかぶさり門を埋め 身の丈たけよりも深い雪

 かの五力士が怪力で 積み敷いたのか雪野原

 細糸みたいな道により ようやく往来 可能なり

 狭きがゆえに行く人も 後先あとさきなどで喧嘩けんかせず 

2024年1月1日月曜日

2024謹賀新年1

 明けましておめでとうございます。本年も「饒舌館長」をよろしくお願い申し上げます。大晦日に続いて、江戸時代中期から後期にかけて活躍した清新性霊派の詩人・市河寛斎の登場です。まずは245年前の今日詠まれた「己亥きがい元旦の作」から……。

  生まれてこの方 三十年 まさに光陰 矢のごとし

  元旦の空 晴れ渡り 棲みつくカラスを聞いている

  東となりの酒屋から 柏の酒は買ってあり

  南の市場に出かけては すでに求めた梅の花

  旧居の道は三つとも 覆っているだろ雑草が……

  故郷を捨てていつの間に ここで一家を構えたが

  街の生活――田舎とは 春の行事も違ってて

  桑とか麻の出来ぐあい 誰かと話すこともなし
  
  今年の自刻自摺(!?)年賀状は白鶴美術館所蔵の絶品、磁州窯「白釉黒花龍文瓶」から龍手だけをパクったものです。




出光美術館「復刻 開館記念展」2

本年は、皆様をこの展示室へお迎えする最後の 1 年となります。その幕開けを告げる本展は、 58 年前の開館記念展の出品作品と展示構成を意識しながら企画したものです。……開館記念展の会場を飾ったのは、仙厓( 1750 - 1837 )の書画、古唐津、中国の陶磁や青銅器、オリエントの...