2022年2月28日月曜日

下川裕治『12万円で世界を歩く』3

 

もうこれは旅行なんてもんじゃない――同じ「行」でも難行苦行、つまり修行だといった感に打たれます。僕がそれまで経験していた海外旅行とは、まったく次元を異にする旅行です。下川さんの「貧しい旅行でなければ見えないものもある」という言葉が、けっしてウソじゃないことを教えられます。

しかしそんな旅行哲学はどうでもよく、じつにおもしろそうで、若かったら俺もやってみたいなぁと思わずにはいられませんでした。『週刊朝日』なんて、興味がある記事が載ったときだけ立ち読みをするか、時には買って読むといった程度でしたが、「12万円で世界を歩く」が載った号だけはみんな買って読みましたね。

2022年2月27日日曜日

下川裕治『12万円で世界を歩く』2

 

そのうちの「僕の一点」は、下川裕治さんの「編集部員同士がよく喧嘩 でもとても活気があった」ですね。『週刊朝日』が元気だったころの雰囲気を、とてもよく伝えてくれています。下川裕治さんは、19887月から「12万円で世界を歩く」という連載を『週刊朝日』で始めました。1年足らずの連載でしたが、実におもしろかった!! ワクワクしました!! そしてほんまかいなと思いました。まだLCCもなく、円が安かった時代の12万円ですよ!! 

その12万円で、「ついにニューヨーク到達。アメリカ大陸、122百キロ」「北京発ベルリン行き列車、28日間世界一周」「神戸からアテネ、15472キロ。シルクロードを揺られぬく」といった、絶対に考えられないような旅行を12回やった下川さんのドキュメンタリーです。

2022年2月26日土曜日

下川裕治『12万円で世界を歩く』1

 

前回、<「いま」を伝える週刊朝日100年の表紙>という朝日新聞本社・通路ロビーの展示をお知らせしました。もちろん本体の『週刊朝日』5761号も、「創刊100周年!」という増大号になっていて、「ありがとう100歳! 週刊朝日と私とその時代」という特集記事から始まっています。そのリードは……。

祝辞、思い出、反省、苦言、提言――。週刊朝日にゆかりのある、時代を築いた人たちに、“その時代”と“これから”を思う存分語ってもらいました。今だから話せること、立身出世の舞台裏、週刊誌のあるべき姿など、読み応え十分の一挙10㌻!

登場するのは、篠山紀信、夏目房之介、鴻上尚史ら、今をときめく13人の有名人です。

2022年2月25日金曜日

石内都と山口百恵7

 

チョット涙目になった一人の少女だけが、単なる被写体ではなく、女優や歌手でもなく、もちろん商品でもなく、生身の<人間>として写し撮られています。山口百恵こそ、100年にわたる「いま」を象徴する女性であることを物語っています。

男性の方で「いま」を象徴するのは、つまりもっとも大きく引き伸ばされた表紙は羽生結弦です。2014228日発行ソチ五輪特集号の表紙で、「羽生 新伝説」という大きな文字が躍っていますが、それは彼に匹敵する現役の女性がいま日本に存在しないことの証しともなっています。いや、いないわけではないけれども、半世紀近く前の山口百恵に誰もかなわないことの証しです。

2022年2月24日木曜日

石内都と山口百恵6


  朝日新聞本社の2階通路ロビーで、<「いま」を伝える週刊朝日表紙の100年>という展示が行なわれています。100年前の1922225日に出た『週刊朝日』創刊号の表紙を皮切りに、歴史に残るものを選び、拡大写真で展示しているんです。今年は昭和97年ですから( ´艸`)、昭和がまるまる含まれていることになります。昭和人間にとってはこの上なく懐かしく、サウダーデの旅みたいな展示です。

女性のなかで、一番大きく拡大されている表紙は、やはり山口百恵のポートレートなんです。篠山紀信が撮った傑作で、吉永小百合や夏目雅子、松田聖子、大原麗子、中森明菜、宮崎美子を脇に従えて、玉座を占めるがごとくに君臨しています。

2022年2月23日水曜日

石内都と山口百恵5

 

横浜美術館「石内都 肌理と写真」と山口百恵

 横浜美術館協力会の講演会で、「饒舌館長『琳派絵と近代日本画』口演す」と題して90分しゃべりました。「饒舌館長琳派絵と 近代日本画口演す」と七五調にしたところがミソです(!?) 

そのあと、はじめて石内都の世界を堪能しました。昭和54年(1979)石内都が発表した、ほとんどデビュー写真集といってもよい『絶唱、横須賀ストーリー』の名前だけは、記憶の底に沈殿していました。いくら憧れても憧れ足りない山口百恵が書いた、あまりに早すぎる自叙伝『蒼い時』に登場するからです。山口百恵はその「序章・横須賀」に、つぎのように描写しています。

ある日、私のもとに、手紙を添えて一冊の写真集が届けられた。

『絶唱、横須賀ストーリー』と題されたその写真は、全て、私の知らない表情をした横須賀だった。

あの街に、これほどのあざとさが潜んでいたのだろうか。これほどの哀れさが匂っていたのだろうか。

恐ろしいまでの暗さ、私があの街で光だと思っていたものまでが、全て反転してしまっていた。

坂道も、草原も、ドブ板横丁も、米軍に入りこまれたことによって仕方なく変らざるを得なかったあの街の、独特の雰囲気が、その写真の中では、陰となって表わされていた。哀しかった。恐怖さえ抱いた。

同じ街が見る側の意識ひとつでこんなにも違う。私の知っている横須賀は、これほどまでにすさまじくはなかった。

今にも血を吐き出しそうな写真にむかって私は呟いた。

この街のこんな表情を知らずに育ってこられたことに、わずかな安心感を抱いていた。

 何という写真集なんだ。僕の山口百恵をこんなにも哀しませるなんて。血を吐きそうになる恐怖のどん底に陥れるなんて。たとえこれを書いたのが残間里江子だとしても……。言うまでもなく僕は、『絶唱、横須賀ストーリー』を見てみたいとも、その写真家の名前を聞きたいとも、それが男なのか女なのかを知りたいとも思いませんでした。

そもそも、そのころ僕は写真というものに興味がありませんでした。近現代美術史において、写真がきわめて重要な位置を占めていることを認識するようになったのは、もうちょっとあとのことでした。やがて何かの機会に知った、スーザン・ソンダクの「今日、あらゆるものは写真になるために存在する」という名言――「インスタ映え」を的中させた名言も、まだ僕の言語記憶中枢に収まっていませんでした。

しかも最初は、高橋由一や浅井忠、竹内栖鳳のような近代の画家が、写真を利用して作品をこしらえたという事実に興味をもったのです。つまり、写真そのものではありませんでした。山口百恵を哀しませたことはもとより、この写真集にまったく関心が向かなかったのも、当然だったのです。

『絶唱、横須賀ストーリー』と写真家・石内都の名前が結びついたのは、その発表から4半世紀も経ってからでした。郷里である秋田の県立近代美術館の仕事を正式にやるようになる2年前から、アドバイザーというような立場になりました。そこで、美術館でやってみたい特別展をいろいろと考えることにしたのですが、そのうちの一つに「木村伊兵衛展」がありました。

そのころは写真に結構興味をもつようになっていましたし、興味なんかなくたって、かの傑作「秋田おばこ」は早くから網膜に焼き付いていました。それを今は亡き天羽直之さんに話すと、親切にも木村伊兵衛の写真集を、朝日新聞社の図書室から「國華」編集室へ借りだして来てくれました。天羽さんも木村伊兵衛が大好きでした。というよりも、「秋田おばこ」が大好きだったんです。

早速ページを繰ると、もうこれは秋田県立近代美術館でやらなければならないという使命感に駆られました。そこで木村伊兵衛のことを少し調べてみると、逝去翌年の昭和50年(1975)、その業績を記念して木村伊兵衛写真賞が設定されたのですが、その受章者のなかに石内都がいたのです。昭和54年、石内都は第4回木村伊兵衛賞を受賞していました。

対象作品は、前年に発表した『APARTMENT』でしたが、その後の略歴には、『絶唱、横須賀ストーリー』もあげられていたので、アッと気がついたのです。あの山口百恵を哀しませた写真集は、石内都という女性写真家の作品だったのです。

しかし関心の的はもっぱら木村伊兵衛でしたので、またもやこの写真集を手にとることなく、そのうち忘れるともなく忘れてしまいました。そして結局、木村伊兵衛展もいろいろな理由で、ポシャッてしましました。

この「石内都 肌理[きめ]と写真」は、館長である逢坂恵理子さんが、みずからチーフ・キューレーターとなって企画した特別展のようです。すごいなぁ! うらやましいなぁ!! いつか僕も静嘉堂文庫でこういう風にやってみたいなぁ!!! 

このおススメ特別展を、テルモ生命科学芸術財団がサポートしていることも、ぜひ書き添えておきたいと思います。この公益財団法人が、本来専門とする医療分野だけでなく、芸術にも支援を惜しまないというのは、何と素晴らしいことでしょうか。両者の融合が、現代ほど強く求められる時代はありません。

とはいっても、僕には初期の「横浜」がもっとも好ましく感じられました。たとえば「金沢八景」は、遅すぎた青春の思い出というわけじゃないけれども、何かとても懐かしい感じが僕を惹きつけるのです。「Apartment」も「yokohama互楽荘」も「連夜の街」も、実際は住んだことはない空間なのに、こういう風景が僕らの世代にとって、決して別世界のストーリーではないのです。

同時に逢坂さんは、美術館のコレクション・ギャラリーで、収蔵作品の「絶唱、横須賀ストーリー」55点を展示して、重層的構成に高めています。もちろん、ヴィンテージプリントです。今まで写真集なんか見ないでよかった! 小さい画面なのに、圧倒的迫力で迫ってきます。

いっぺんに石内都という写真家が好きになりました。いや、尊敬の念が湧いてきました。美は人間の好悪を180度転換させてしまうこともあるんだと思いました。そこでは、醜を超越した美が存在を主張していました。山口百恵をあんなに哀しませたことも、許せるような気持ちになりました。

それとともに、山口百恵が恐怖を覚えた理由が分かるような気がしました。「自分の意識の中での私自身は、あの街にいる。あの坂道を駆け、海を見つめ、あの街角を歩いている。私の原点は、あの街――横須賀」と絶唱する山口百恵にとって、絶対見たくはなかったはずの横須賀が、そこに繰り広げられているからです。

しかし、もし山口百恵が写真集ではなく、このヴィンテージプリントを見たとしたら、表層を超えた写真としてのエネルギーに、ちょっと、あるいはまったく異なる感慨をもったかもしれません。少なくとも、現在、幸せな家庭生活を営む山口百恵なら、40年もまえ石内都によって写し撮られた横須賀に、もう哀しみも怖れも感じることはないでしょう。

山口百恵様、ぜひ34日までに、横浜美術館をお訪ねくださいませ!!

「石内都 肌理と写真」から選ぶ「僕の一点」は、「Apartment」№004のパジャマを着て布団の上に横座りする男のポートレートです。なぜかって? 男のうしろの壁に、篠山紀信が撮影した山口百恵の大きなピンナップが、無造作に画鋲で止めてあるからです(!?) 

2022年2月22日火曜日

石内都と山口百恵4

 


 2018年早春、横浜美術館で特別展「石内都 肌理と写真」が開かれました。石内都――永遠の女神である山口百恵さんをひどく悲しませた女性写真家として記憶に残っていたので、横浜美術館で饒舌トークをやったあと見て帰りました。

その印象記はすでにアップしたところですが、これがないと上記の話はチョット分かりづらいかもしれません。その「石内都 肌理と写真」を見たあと、石内都さんに対する評価がガラッと変わったことも、ぜひお伝えしたいと思います。和塾HP「河野元昭 饒舌館長 おまとめ版」の真似をするわけじゃ~ありませんが、7回の連載を1回にまとめて再録しておきましょう。すでに読んだ方は、もちろんスルーしていただいて一向にかまいません。

2022年2月21日月曜日

石内都と山口百恵3


 しかし百恵さんは、石内さんのプレゼントという好意に対して、チャンと礼を尽くしたんです。たとえ意に染まなくても、あるいは嫌悪や憎しみを抱いているとしても、社会生活を送る上で必要な礼儀や行動規範はシッカリとまもる――人間としての理想、求められるべき生き方がそこにあるのではないでしょうか。リ・ジョンヒョクも「人を憎んではならない。人を憎むと自分が傷つく。つまり損をする」と言っています。

ヤジ「韓ドラと『絶唱、横須賀ストーリー』じゃ~、シチュエーションがまったくちがうじゃないか!!

しかしいずれにしろ、いやな人に向かってお礼を言う――僕にはとても真似ができません。真似ができないどころか、ハナからやろうとも思いません。

  又々ヤジ「山口百恵とオマエを一緒にするな!!

2022年2月20日日曜日

石内都と山口百恵2

 


 これを読んで僕は、山口百恵さんへの尊敬がより一層強まりました。それまで抱いていた歌手・女優に対する尊敬が、人間に対する尊敬に位相を高めたといってもよいでしょう。というのは、百恵さんはかの若すぎる自叙伝『蒼い時』の序章で、『絶唱、横須賀ストーリー』に対する哀しい思い出を吐露しているからです。百恵さんにとって、それは恐怖に陥れられるような写真集でした。

それにもかかわらず百恵さんは、わざわざ石内さんに電話をかけてお礼を述べたのです!! 血を吐き出しそうになる写真集でもあったんですから、ほっとけばよかったし、たとえ送り返したとしても、それを非難する人などいないでしょう。

2022年2月19日土曜日

石内都と山口百恵1

 


 『朝日新聞』文化面の「語る 人生の贈りもの」シリーズに写真家の石内都さんが登場、昨日最終回を迎えました。聞き手は親しくさせてもらっている編集委員の大西若人さんでした。その6回目「育った横須賀と向き合い、前へ」は、初期の作品集『絶唱、横須賀ストーリー』についての一話で、石内さんは次のように語っています。

79年に写真集になったとき、百恵ちゃんのテレビドラマの助監督をやっていた友人を通じて、本人に渡してもらいました。そうしたら家に「山口です」っていう電話があり、「どちらの山口さんですか」って聞いたら、百恵ちゃんだった。丁寧に「ありがとうございます」って言ってもらいました。

2022年2月18日金曜日

追悼 柳孝一さん6

 


先日、柳孝一さんの逝去を伝えるアメリカの英文記事をメールしてくれたのは、誰あろうカート・ギターさんでした。それは「アジア週間 ニューヨーク ニュースレター」の22日付けAsia Week New York celebrates the life of Koichi Yanagiという記事です。一緒にギターさんが送ってくれたその要約を、最後にアップさせていただきましょう。

Renowned dealer Koichi Yanagi passed away in Kyoto on January 17th at the age of 56. Koichi devoted his life to the appreciation of Japanese art and culture throughout the world and facilitated the acquisition of exquisite art objects by highly regarded public and private collectors.

His passing is a grave loss, and we will miss the creativity and connoisseurship that Koichi brought to his engagement with Japanese art and shared with like-minded friends. The best summation was written by Holland Cotter in his review in The New York Times of the gallery’s Spring 2002 exhibition Shinto, “It’s possible that there are more beautiful gallery shows in Manhattan right now than this one, but I haven’t seen any.”

柳孝一さん、貴兄は長いあいだ日本美術のため、日本文化のため力のかぎり頑張ってくださいました。大変お世話になりました。ありがとうございました。安らかにお眠りください。                                  合掌

2022年2月17日木曜日

追悼 柳孝一さん5

 

千載一遇とは、こういうことをいうのでしょうか。このシンポジウムに参加された柳孝一さんに、会場で許可をいただくと、終了後ニューオーリンズからニューヨークに飛び、憧れの山雪筆「四季花鳥図屏風」とごタイメ~ンとは相なりました。

柳さんのカタログから予想していたとおりの優品――いや、それを凌駕する傑作でした。性怠惰にして、結局原稿を書き上げて『國華』にアップしたのは、拝見してから3年も経った2005年のことでしたが、僕にとってこれまた忘れることができない國華紹介作品なんです。いま『國華』1315号を書庫から引っ張り出してきて眺め、あの日の柳さんを思い出しながら、これを書き終わろうとしています。

2022年2月16日水曜日

追悼 柳孝一さん4

 

そんなこともあって、山雪という画家に関心が高まっていたため、柳孝一さんの山雪屏風をぜひ見てみたいという気持ちが掻き立てられたんだと思います。しかしその作品は、はるか遠くニューヨークにあるんです!! 

 ところが幸運にも相前後して、米国ニューオーリンズの有名な日本美術コレクターであるカート・ギター夫妻から、「エンデュアリング・ヴィジョン 1720世紀の日本絵画」というコレクション展をニューオーリンズ美術館で開くという案内が届きました。併せて国際シンポジウムを企画したいから、ぜひ口頭発表をしてほしいという要請の招待状も一緒でした。あのハリケーン・イズドァーに巻き込まれて、生涯もっとも忘れがたいものとなった20029月のシンポジウムについては、いつか「饒舌館長」にもアップすることにして……。

2022年2月15日火曜日

追悼 柳孝一さん3

2000年秋、東大文学部フィレンツェ研究所開設1周年記念シンポジウムが開かれました。タイトルは「日本の中のイタリア/イタリアの中の日本」――つまり日本とイタリアの関係がチョット入っていれば何でもOKみたいなシンポジウムで()、僕も「来舶イタリア人美術家と日本美術」なる発表をすることになり、懐かしき18年ぶりのフィレンツェに出かけたんです。

フィレンツェには日本美術も収集する、シュティッベルト美術館という武器コレクションの美術館があります。みんなで見学に出かけると、キューレーターのチヴィタさんから、狩野山雪の「群馬図巻」があるので見て欲しいといわれました。

拝見するとそれは模本でしたが、山雪研究史上きわめて重要で、しかも原本は失われてしまったのか、見たこともない興味惹かれる作品でした。その時これをもとに、山雪と馬の絵に関するエッセーを、いつか大学の紀要『美術史論叢』にいつか寄稿してみようと思いついたんです。

 

2022年2月14日月曜日

追悼 柳孝一さん2

 

数年前、日本にも拠点を作るべく、京都に新しいギャラリーを開いたとのご案内をいただきましたが、この疫病が終息したあとゆっくりお邪魔しようと思っていたことが、今となっては本当に悔やまれます。

 柳孝一さんには長い間、僕も大変お世話になってきましたが、もっとも深く心に残っているのは、ご所蔵の狩野山雪筆「四季花鳥図屏風」を『國華』1315号に紹介させてもらったことです。柳さんは新収品や特集陳列の案内を、とてもセンスのいい小さなカタログにして、定期的に送ってくれていました。あるとき封を切って開くと、この山雪屏風が載っていたんです。一見して傑作だと思いました。どうしても実見したくなりました。

2022年2月13日日曜日

追悼 柳孝一さん1

 


 柳孝一さんが117日にお亡くなりになりました。享年56、あまりにも若すぎます。心からご逝去を悼むとともに、ご冥福を深くお祈り申し上げます。

柳孝一さんは日本を代表する慧眼の古美術商として、早くから美術業界でその名を知られてきました。いや、古美術ばかりでなく、現代美術からも日本の美を継承発展させるアーティストを発掘して、その真価を広く知らしめてきました。

若いときからニューヨークを拠点として、日本美術の素晴らしさを、世界に向けて発信することに情熱を傾けてこられました。それは日本文化の素晴らしさへと、裾野を広げていきました。鋭敏なる審美眼とピュアな人生観をもちながらも、来るものを拒まぬおおらかにして温かい人柄によって、すべての人から敬愛されてきました。

2022年2月12日土曜日

山本勉さんの愛猫ルリちゃん16



先に後藤正秋さんが紹介してくれた、猫が登場する『詩経』の詩をもって、「山本勉さんの愛猫ルリちゃん」を〆ることにしましょう。すでに書いたように、この「貓ねこ」というのは野生の山猫のたぐいで、僕たちのいう「猫」じゃ~ありませんが……。また、この「韓土」が槿域ではなく、中国戦国時代、戦国七雄の韓であることは改めて言うまでもないでしょう。

 とても楽しい韓の国 川とうとうと流れてる

 鱮たなごがたくさん群れ泳ぎ 鹿もいっぱい棲んでいる

 羆ひぐまもいるし熊もおり 猛虎もいるし貓ねこもいる

 昔から居る!! 目出度くも 韓人 平和に暮らしてる 

2022年2月11日金曜日

山本勉さんの愛猫ルリちゃん15

 

初世並木五瓶の「月花のたはみこゝろや雪の竹」という句を、抱一が書写したもので、寛政8年(1796)の年記があり、この年抱一によって「庭柏子」号が使われ始めたことを証明する、とても重要な碑でした。

僕が調査カードをとっていると、近くで数人の学生が熱心に拓本を採っているじゃ~ありませんか。聞いてみると、早稲田大学美術史の学生たちでした。あぁ秋艸道人のすぐれた伝統はまだ生きていたんだと、深く心を動かされました。

東大では拓本採取を勧められたことも、その方法を学んだこともなかったので、とくに印象深かったのかもしれません。だからといって、その後僕がみずから拓本を採るようになったというわけじゃ~ないんですが……()

2022年2月10日木曜日

山本勉さんの愛猫ルリちゃん14

先年、岡戸さんは六助塚のことを「江戸明治の石碑について」と題し、早稲田大学文学部美術史の講義で話されたそうです。そのときの講義資料も送ってくれました。会津八一「一片の石」と山口剛『断碑断章』をあげつつ、しかし文献を読むだけではなく、実際に石碑を訪ねて研究を進めてほしいと、若き学徒を鼓舞しています。

 これを読んで、思い出したことがあります。昭和53年(1978)山根有三先生は『琳派絵画全集 抱一派』を編集し、日本経済新聞社から出版されました。これに酒井抱一の伝記と画風展開について書くよう求められた僕は、相見香雨先生の「抱一上人年譜稿」を頼りに、浅草寺の本堂後ろにある「並木五瓶句碑」を調べに行きました。 

2022年2月9日水曜日

山本勉さんの愛猫ルリちゃん13

昨日、ネズミを捕るイヌなんて本当にいるのか? いるはずがないだろうと思ってアップしたところ、早速、岡戸敏幸さんから、確かにいるんですよというメールを頂戴しました。去年、鹿島美術財団美術講演会「影の美術史」でお世話になった岡戸さんです。桜餅で名高き向島・長命寺に、「六助塚」という石碑があるそうです。明治時代、北新川の酒屋に飼われていた六助というイヌの碑で、ネズミを捕る奇技をもって有名でした。

 ところが六助は屠犬者の手にかかってしまい、無念に思った人々が長く顕彰するためこの碑を建てることになりました。碑にはかわいらしい六助の姿も彫られているそうですが、思い込みで物事を即断してはならないことを教えられました。ネズミを捕るイヌが、実際に存在したんです!!  

2022年2月8日火曜日

山本勉さんの愛猫ルリちゃん12

 

 後藤正秋さんの論文によると、猫が登場する最初の漢詩はやはり『詩経』で、大雅・韓奕にあるそうです。もっとも、この「貓ねこ」というのは野生の山猫のたぐいで、僕たちがいうところの「ネコ」じゃ~ないことが、尚秉和著『中国社会風俗史』(東洋文庫151)の引用によって明らかにされています。

 そのなかに、「周ではまた犬にも鼠を捕らえさせていて、そのために、犬の能力を見分ける専門家さえ現われている」という記述があります。しかし、いくら古代殷周の周とはいえ、ネズミを獲るイヌなんて本当にいたのでしょうか? 今いたら、SNSでものすごいアクセス数をかせげるでしょうね() 

2022年2月7日月曜日

山本勉さんの愛猫ルリちゃん11

拾得詩「若解」

 ネズミよく捕るテクニック

 五白のネコには限らない

 善悪 判断できるかは

 高価な衣装と無関係

 粗末な袋に真珠あり

 雑草にさえ仏性が……

 顔 見て心を 見ないヤツ

 頭だけじゃ~悟りには…… 

2022年2月6日日曜日

山本勉さんの愛猫ルリちゃん10

寒山詩「昔時」

 昨日もツキがなかったが

 今日はまったく見放され……

 何をやってもみなダメで

 途方にくれて泣きっ面

 泥濘ぬかるみ歩けば足とられ

 飲み会 出れば腹痛だ

 まだらの飼い猫 失踪し

 ネズミがお櫃ひつを囲んでる 

2022年2月5日土曜日

山本勉さんの愛猫ルリちゃん9

 


寒山詩「夫物」

 物には物の個性あり

 用には用の向き不向き

 用の目的 間違えば

 欠点どころか役立たず

 四角いホゾと円い穴

 取り替えっこは不可能だ

 どんな名馬もネズミ捕り

 びっこの猫に及ばない

 *「びっこ」はよくない言葉だと思いますが、ここではお許しいただきたく……。

2022年2月4日金曜日

山本勉さんの愛猫ルリちゃん8

 

もっとも、原詩は「斑猫児を失却して 老鼠 飯甕を囲む」というのですが、岩波文庫版『寒山詩』の訳注者である太田悌蔵先生は、「斑猫児」に異なる解釈を施しています。つまり「寒山自身の称。又道心の窮困して煩悩の跳梁するに喩ふ」とおっしゃるのですが、いかがなものでしょうか。素直にまだら模様のネコとした方が、最後の句ともよく馴染むように感じられます。太田先生はネコがあまり好きじゃ~なかったのかな()

後藤さんがいうように、何か出典があるような気もしますが、居なくなってしまった愛猫に対する寒山の寂寥感がまずあっての話でしょう。これを詠んだのが、本当に寒山であったかどうかは脇に置いといて……。

寒山拾得詩にはタイトルがないので、はじめの二字を採って掲げることにしましょう。


2022年2月3日木曜日

山本勉さんの愛猫ルリちゃん7

 

 確かに唐末まで、愛玩の対象としては詠まれなかったのでしょうが、もちろん愛されていなかったことを意味するものではありません。それどころか、現代のように趣味や楽しみが多様じゃなかった古代、大いに愛玩されていたのではないでしょうか。いくらネズミを捕食することが重視されたといっても、ただその役目を果たすロボットのようにネコを見なすことなんて、人間にできるはずがありません。

ネコに対する愛情をありのままに吐露する伝統がなかったために、単に詠まれなかったんだと思います。いや、寒山詩「昔時」の「まだらの飼い猫失踪し ネズミがお櫃ひつを囲んでる」には、どっかに行ってしまった愛猫に対する寒山のやさしい気持ち――愛惜の念がよく現われているのではないでしょうか。

2022年2月2日水曜日

山本勉さんの愛猫ルリちゃん6

 


書庫に岩波文庫の『寒山詩』があったので開いてみると、確かに載っていて、後藤さんを孫引きしないですみました。

 ヤジ「語るに落ちたな。つまりいつも孫引きをやってるんだろ!!

唐代までのネコ詩について、後藤さんはつぎのように指摘しています。

猫は、収穫物に害を与える鼠を捕食することが重視され、少なくとも唐末までは愛玩の対象としては詠じられていない。古代においては、害獣を駆除する象徴的な存在として、神として祀られることも多かった。猫にこのような神的性格を賦与したのは『礼記』であって、猫に神格が賦与されたことが「猫鬼」の逸話を生むことにもなった。……つまり、唐代までの詩文において、身近な飼い猫の日常の姿を詠じた作品はまったく見られないのである。

2022年2月1日火曜日

山本勉さんの愛猫ルリちゃん5

 

 続いて『寒山詩』から、ネコ漢詩を3首ばかり、戯訳でルリちゃんにプレゼントさせてもらいましょう。

中国でネコがよく詩に詠まれるようになるのは、宋の時代からだといわれているようです。しかし、そんなことはありません。北海道教育大学の後藤秋正さんは、「『猫と漢詩』札記――古代から唐代まで――」(北海道教育大学紀要<人文科学・社会科学編>572 2007年)というすばらしい論文を発表しています。

それには北宋以前、唐までのネコ漢詩がたくさん紹介されています。そのなかで饒舌館長ベストワンは、寒山のネコ漢詩ですね。拾得のネコ漢詩とあわせて3首も紹介されています。

ブータン博士花見会5

  その結果でしょう、現在ごく限られた場所でしか、太白は見られないそうです。そのうちの一つが新宿御苑で、去年ブータン博士の解説を聞きながら、その得もいえぬ気品に満ちた白さに見惚れたことを思い出したのでした。 阿部菜穂子さんの『チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人』...