2021年3月31日水曜日

静嘉堂文庫美術館「春のフルート四重コンサート」3

 

お雛さま展にちなむ「春のメドレー」に始まり、「フルート四重奏のための『思い出は銀の笛』」「ホルストの木星のファンタジー」「モーツァルトのきらきら星変奏曲」「バレエ組曲『くるみ割り人形』より」と続いて、最後のアンコール曲まで、じつに楽しい午後のひと時でした。

コーディネートした事務局長・上田さんに一言お礼を求められた僕は、また持論から始めました。美術と音楽は人間が最初に創り出した文化であり、したがってとても相性がいいのです。古代ギリシアではすぐれた文学や哲学、歴史学が生み出されましたが、そんなものよりずっと早く、美術と音楽は誕生していたのです。

ですから、美術館で音楽を聴くということは、人類の生み出した文化の原点を体験することにもなるのです(!?)

2021年3月30日火曜日

静嘉堂文庫美術館「春のフルート四重コンサート」2

 

実をいうと、クァチュオール・アコルデさんには、一昨年お願いしたのですが、台風とコロナ緊急事態宣言のため2度中止となっていまいました。しかしあきらめきれず、先週の日曜日に改めてお願いしてあったのですが、この日まで緊急事態宣言が延長されたためマタマタ中止、宣言が解けた最初の日曜日である28日、急遽開催されることになったのです。

大木平蔵の細やかな美意識が表情にまで行き届くかわいらしい五人囃子と、美しく共鳴するようなフルートの四重コンサートが、「岩﨑家のお雛さま」展に間に合って本当によかったと、快哉を叫びたいような気持ちになりました。「3度目の正直」ならぬ「4度目の正直」です(!?)


2021年3月29日月曜日

静嘉堂文庫美術館「春のフルート四重コンサート」1

 昨日28日は、すでにアップした静嘉堂文庫美術館「岩﨑家のお雛さま」展の最終日でした。名人5世大木平蔵の手になるお雛さまの素晴らしさを、どのようにたたえればよいのでしょうか。

しかし饒舌館長が改めてたたえなくたって、皆さん先刻ご承知のところ、コロナ緊急事態宣言のなか、1万人以上の美術ファンが岡本まで足を運んでくださいました。ディレクターとしてこんなうれしいことはなく、心をこめて「ありがとうございました!!」と叫びたいのです。

この最終日の午後、「春のフルート四重コンサート」が地階講堂で開かれました。演奏してくださったのは、鈴木芙美子さん、安村唯さん、米津実穂さん、黒沼千比呂さん――武蔵野音楽大学を卒業した仲間で結成したクァチュオール・アコルデ<4人の調和>の皆さんです。

2021年3月28日日曜日

三谷幸喜さんと銭湯3

といっても、銭湯の脱衣所で、番台の女性に羞恥心を感じるなんておもしろいというのではありません。僕がおもしろいと思ったのは、数十年ぶりに銭湯に行ったら、羞恥心を感じたという点なんです。もちろん数十年前、銭湯に通っていたころは、三谷さんだって何も感じなかったにちがいありません。それが数十年間銭湯に行かなかったら、番台の女性に羞恥心を感じるようになっていたんです。

 これにはいろいろな解釈が可能でしょう。この数十年間に、三谷さんはものすごく有名になりましたから、番台の女性も三谷さんであることを、知っているのではないかという気持ちがご自身に芽生えたからなのでしょうか。あるいは、失礼ながらこの数十年間に大きく変化してしまった――にちがいない肉体を、異性に見られることが恥ずかしかったのでしょうか?  

2021年3月27日土曜日

三谷幸喜さんと銭湯2

 


服を脱ぐスペースが番台から丸見えなのも、新鮮な驚きだった。こんなに見えているものなのか。もちろん番台に座る女性は決してこちらを見ることはないが、そうは言っても見ず知らずの異性を至近距離に置いて、全裸になるのは抵抗があった。ところが周囲を見渡すと、他のお客さんたち(老人二人)は、まったく気にせずに堂々と闊歩している。その中で、一人股間をひたすら両手で隠し続けるは逆に恥ずかしかった。腹をくくってオープン全開。予想外の慎ましやかな解放感。

 ユーモアあふれる文章――エッセーはこんな風に書きたいなぁと思っても、おいそれと出来るもんじゃ~ありません。しかしより一層おもしろく感じたのは、三谷さんの羞恥心でした。

2021年3月26日金曜日

三谷幸喜さんと銭湯1


 

 「まちの記憶」と同じく朝日新聞の連載に、楽しく拝読している「三谷幸喜のありふれた生活」があります。先日話題にした銭湯のことを、確か三谷さんも書いていたなぁと思って、未整理の切り抜きを探したら出てきました。これまた銭湯論として愉快この上なく、一部を引用させてもらうことにしましょう。

家の給湯器が壊れた。修理が完了するまで、つかの間の銭湯通いである。僕にとっては数十年ぶり。息子にとっては人生初。

 大人470円。思っていたよりも高い。ちなみに幼児は80円。家族で毎日通うと1年で40万円近くになる。区によっては、家族連れだと無料になる日もあるらしいが。

2021年3月25日木曜日

野良ネコ・虎吉社長4

 

しかも驚いたことに、以前より肉付きもよくなり、毛並みはツヤツヤ、あのブサカワがすごくノーブルな表情になっているんです。おそらく、こっちよりずっといいパトロンを見つけて、5ヶ月間、安穏自堕落なる生活をエンジョイしていたのでしょう。

すぐに僕は、南宋の貧乏ネコ詩人・陸游が飼っていた「粉鼻」という調子のいいネコのことを思い出しました。その「粉鼻に贈る」を、改めてマイ戯訳でお届けしましょう。

 <粉鼻>は毎晩ネズ公を 何匹も挙げる血祭りに

  血をたぎらせてヒゲを立て そのあと米蔵 護ってる

  「どうしてそんなに金持ちの ため懸命に働くの?」

  「そうすりゃ毎日ご馳走と ふかふかベッドがワテのもの!!

 

2021年3月24日水曜日

野良ネコ・虎吉社長3

 


今回改めて検索すると、51戦9勝と出てきましたから、寄る年波で勝率が落ちてきたらしく、「近況情報」には「休養のため放牧」とありました。

ところが、去年の10月、虎吉社長は忽然と姿を消してしまいました。もちろんネコの方の話ですよ。「放浪の旅に出て、きっと今もどっかでノラをやっているんだろうなぁ」とか、「ともかくも生きていてくれさえすれば御の字だ」などと、ときどき家族で話していましたが、このごろはもっぱらノンちゃんの方に関心と話題が向いていました。

ところがトコロガ、先日5ヶ月ぶりに虎吉社長がふたたび姿を現したんです!! 夕方一杯やっていると、「トラよ! トラ!! あのトラよ!!!」と叫ぶ女房の声――クロックスを引っ掛けて飛び出すと、まがう方なき虎吉のカムバックです。虎吉社長のご帰還です。思わず僕は、「虎吉!! 不要不急の外出はご法度なのに、一体どこで何やってたんだ?」と話しかけていました。

2021年3月23日火曜日

野良ネコ・虎吉社長2

 

その後、ノンちゃんというメスネコも我が庭に現われるようになったので、二人が恋に落ち一緒に子どもでも連れて来られると大ごとだと思い、ともにトラップにかけ、逗子動物病院の先生に診てもらうことにしました。虎吉社長は顔も性格もおだやかになりましたが、それでも家ネコなんかになる気持ちはサラサラないみたいでした。

というわけで、虎吉社長はソトネコというより、ノラといった方がふさわしいでしょう。ソトネコというのは、たいていその家の周りでウロチョロしているものですから……。

トラ柄のオスなので、はじめ僕は「虎吉」と命名しました。ところがあるときテレビで競馬中継を観ていると、「トラキチシャチョウ」という馬が走っているではありませんか。ネットで検索すると、296勝、中央獲得賞金が1億以上ある名馬?です。それ以来、虎吉は「虎吉社長」、あるいは略して「社長」とも呼ばれるようになったのです(!?) 

2021年3月22日月曜日

野良ネコ・虎吉社長1

 

 隣に住む義理のアネキと女房が餌をやっているオスのノラ「虎吉社長」については、4年ほど前にアップしたことがあるように思います。ちょっと愛想がわるいけど、よく見るととてもカワイイ――敢えていえばブサカワかな? 2016年秋から、文字通りネコの額ほどの我が庭に遊びに来るようになり、アネキが餌をやるようなったので、毎日数回現われるようになりました。アネキが出掛ける時は、女房が食事係となります。 

僕ンチではタビが逝去したあと、もうネコは飼わないということにしていますが、アネキは虎吉社長を家ネコにしたいと思い、いろいろ手を尽くしました。しかし虎吉社長は、「俺は天下のノラだ。飼われてなんかやるもんか!!」と思っているらしく、カリカリとレトルトでお腹が一杯になると、トコトコと歩いてどこかに消えていってしまいます。

2021年3月21日日曜日

まちの記憶・蒲田12

 

僕の経験では小樽である。小樽には多くの銭湯が残っており、かつて小樽市博物館では特別展「小樽の銭湯いまむかし」を開いて人気を集めたことがある。この博物館は歌川豊国の揃物「誠忠義士伝」を所有しており、それにちなむ特別展の講演に出かけたとき、有名なレトロ感覚あふれるホテルに泊まった。もちろんバスタブはあったが、やはり吹雪の中、近くの銭湯に出かけたのだった。 

 日本文化体験を深めるために、銭湯へは日本手拭いを持って行きたい。手拭いのデザインは、わが国生活美術を象徴するものの一つだ。もっとも手拭いだと、僕のような小さな体でも途中で二度絞らないと完全には拭けないから、機能的にはタオルの方がすぐれていることを認めざるを得ないのだが……。

*ここに登場する「あづま湯」さんも、画趣愛すべき愛子さんの俳画とともに紹介したことがあるような気がします。改装のため2年ほど休業していましたが、去年8月リニューアルオープンの日を迎えました。コロナ禍のためご無沙汰気味ですが、そのうち改めてオマージュを捧げることにしましょう。

2021年3月20日土曜日

まちの記憶・蒲田11

 

銭湯に行かずして、江戸文化を語ることはできないなどと言えば大袈裟だが、『浮世風呂』の世界は確かに今も生きている。

 ご近所らしい老人同士の親しげな与太話を聞き、隣の女湯から漏れる世間話に耳を澄まし、タオルや石鹸も売る番台や、その前のロビーでテレビやスポーツ新聞にくつろぐ人たちを見れば、もうそれは『浮世風呂』そのものではないか。今の日本人はお行儀がよくなっているから、喧嘩もなければ悪口雑言も聞こえない。少子化が進んでいるから、子供たちがグループで来ることもないし、子守の女の子もいない。しかし『浮世風呂』の雰囲気は、間違いなく今の銭湯に受け継がれている。

 町衆の伝統ゆえか、京都が銭湯文化においても一頭地を抜く街であることはうれしい。銭湯学を提唱する町田忍さんによる「全国選りすぐりの銭湯10選」に、藤の森湯と船岡温泉の二つも入っているのだ。前者はカフェになっているけれども、古きよき日の面影は充分に伝えられている。

2021年3月19日金曜日

まちの記憶・蒲田10

 

 しかし人間は悲しいもので、あるいはよくしたもので、すぐに慣れてまったく気にならなくなってしまう。社会生活や家庭生活をともかくも無事送ることができるのは、人間がこの慣れという特技をもっているためなのだろう。これがなかったら、皆ノイローゼになってしまうはずだ。

 「あずま湯」さんには自転車で十五分ほどかかるから、冬は湯冷めをするし、夏はまた汗をかくということになるが、これまたすぐに慣れてしまう。かくしてこの銭湯が、僕にとりなくてはならない大切なオアシスになっている。

 銭湯は日本の文化である。ある定日は女、その他は男と分けて開店する男女入れ込み湯や混浴が禁止され、現在の銭湯形式が生まれたのは、江戸時代、寛政年間のことらしい。それからでも二〇〇年以上の歴史がある。江戸絵画が大好きな僕にとって、銭湯につかることは江戸文化を直接体験することになる。

2021年3月18日木曜日

まちの記憶・蒲田9

 

 僕が今の家を選んだ理由の一つは、近くに銭湯があることだった。自転車で二、三分のところに「桜湯」があったのである。唐破風はなかったけれど、木造のすばらしい銭湯だった。しかし間もなく休業となり、やがて壊され、そのあとには大きなアパートが建った。確かにあの入りでは、やむを得なかっただろう。仕方がないので、電車で三つ目の駅まで通ったが、洗面器を持って電車に乗るというのは、何となく居心地の悪いものである。

 電話帳で調べたら、一つ目の駅に「あづま湯」さんがあった。これなら自転車で通える。早速行ってみると、鉄筋の新しい建物なのだが、脱衣場のゆったり感に欠け、カランの間も微妙に狭い。あの古い木造銭湯のような造りは、もう許されない時代になっていたのだろう。

2021年3月17日水曜日

まちの記憶・蒲田8

 

 それは単なるお前の趣味だろうと突っ込まれるなら、ご登場いただくのはもちろん式亭三馬である。滑稽本の傑作『浮世風呂』には、銭湯の素晴らしい点が五つ挙げられている。垢を落として疲れを癒すのは仁、譲り合って桶を使うのは義、入る時や帰る時に挨拶をするのは礼、糠洗い粉や軽石・ヘチマを使うのは智、お互いに背中を流しあうのは信であるという。

礼や信はほとんど廃れてしまったが、脇の人に石鹸やお湯がなるべく飛びはねないように気をつける義は生きている。もっとも、現代人にとってはその気兼ねが煩わしいということになるのだろうが、それを補って余りある爽快感――仁がある。

2021年3月16日火曜日

まちの記憶・蒲田7

これまで紹介してきた『朝日新聞』の「まちの記憶 蒲田」は、履歴書に「趣味 銭湯めぐり」と書いて就職試験に臨んだ小泉信一さんのルポルタージュ記事でした。銭湯めぐりをするほどではありませんが、僕も嫌いじゃ~ありません。京都美術工芸大学につとめていたころ、『京都新聞』に銭湯エッセーを寄稿したことがあります。先日の就活エッセーに続き、数回に分けてアップすることをお許しください。

 銭湯へ行こう。もっと銭湯へ通おう。月に一回、隔月に一回でも構わない。僕は風呂嫌いだが、銭湯となれば話は別である。ともかくも気持ちいい。身も心もさっぱりとする。そのあと牛乳を飲めば最高だ。家のバスタブじゃこうはいかない。ましてやシャワーなんて論外である。 

2021年3月15日月曜日

まちの記憶・蒲田6

 



 ピンクサロンといえば、これまた懐かしい思い出があります。東京国立文化財研究所の研究員時代、大井だったか川崎だったか、小林忠さんと遅くまで飲んでいて終電を逃し、蒲田の家に泊まってもらったことがあります。

二人でピンク街を通り抜けようとすると、呼び込みのお兄さんが「若社長!! …………」といって、二の腕をつかまえて放してくれません。今は禁止されていますが、そのころは当たり前田のクラッカーでした。振り切るようにしてピンク街を脱出、呑川近くまで来ると、小林忠さんがひとこと言ったものでした。

「こういうところでアンタ、よく真っ当に育ってきたなぁ!!

2021年3月14日日曜日

まちの記憶・蒲田5



四角四面の世の中になった今では、詐欺罪として告訴でもされるのか、はたまた世知辛くなった日本人は、もう誰も引っかからなくなったのかと思うと、チョット寂しくなります。小沢さんも、「遊びを楽しむ心のゆとり、いまのニッポンに必要じゃないですかね」と言っていたそうです。

 でもご心配なく――と小泉さんは書いています。蒲田の街を歩くと、「全部日本酒のせいだ!」という看板を掲げた居酒屋や、24時間100円という激安コインロッカー、昭和の時代から営業しているピンクサロンもあるからです。渋谷や新宿、ましてや青山や六本木とも違う、東京のもう一つの顔がこの街にはあるからです。 

2021年3月13日土曜日

まちの記憶・蒲田4



女塚神社にお参りしたことはありませんが、蒲田の家の近くには稗田神社があり、もちろんお祭があると必ず出かけました。蒲田に引っ越す前は隣の大森に住んでいて、そのころはもっぱら天祖神社のお祭でしたが、これらに「千里眼」や「大イタチ」があったかどうか、記憶が定かじゃ~ありません。

よく覚えているのは、蛇をダシに使ったガマの油売りと透視眼鏡、それからドブ泥万年筆売りですね。小沢さんがいうとおり、これらは単なる物売りではなく、確かに一つの「芸」だったと懐かしく思い出されるのです。

 今の家の近くには亀ヶ岡神社があって、お祭があるとよく出かけますが、このような芸を絶えて見ることがありません。 

2021年3月12日金曜日

まちの記憶・蒲田3

 



僕がよく行った銭湯は、家の近くにあった「福の湯」さんです。黒湯はありませんでしたが、正月2日、必ず初湯をいただいた思い出の銭湯です。一昨年お袋が死に、そこに住んでいた妹が建物を処分することになったので、最後の見納めだと思って出かけたとき、福の湯さんにも寄ってみました。スーパー銭湯に変身を遂げ、昔の面影はどこにもありませんでしたが、これなら今の世でも大丈夫だと安心したことでした。

蒲田といえば、何といってもここで育った俳優の小沢昭一さんが思い出されます。お父さんが女塚[おなづか]神社の近くで写真館を営んでいらっしゃったそうです。小泉さんは、以前取材したときに教えてもらったという、女塚神社祭礼のことを書いています。そこでやっていた「千里眼」という芸と、「大イタチ」という見世物に、小沢さんはいたく感動していたようですね。

2021年3月11日木曜日

まちの記憶・蒲田2

 

田村隆一さんの『スコッチと銭湯』(ランティエ叢書14 1998年)は、酒仙館長にして銭湯も大好きな饒舌館長の愛読書です。以前、この「饒舌館長」でも追悼の辞を捧げた『國華』事務局長の天羽直行さんは、仕事をとおして田村さんとお知り合いでした。またお二人とも鎌倉住民でした。

僕が天羽さんと鎌倉で飲んだとき、談たまたま田村さんのことに及び、それまで知らなかったこの名著を教えてもらい、早速読んだのでした。小泉さんを面接して合格にした役員の方は、きっと田村さんの愛読者か、銭湯ファンだったのでしょう。いや、スコッチ好きの飲兵衛役員だったのかな() 

小泉さんおススメのように、蒲田には黒褐色の温泉(黒湯温泉)が湧く銭湯があります。太古の藻や枯れ葉が地下水にしみ込んで黒くなった冷鉱泉で、美肌効果が期待できるそうです。小泉さんは「ゆ~シティ蒲田」や「蒲田温泉」を紹介しています。

2021年3月10日水曜日

まちの記憶・蒲田1

 


 『朝日新聞』夕刊に「まちの記憶」というシリーズがあります。先日、東京都大田区の「蒲田」が、「昭和歌謡が似合う 人情横丁」というキャッチコピーとともに取り上げられていました。懐かしく、思い出深く、これまた「サウダーデ」という感じで――いや、「ザ・サウダーデ」といった感じで読み終わりました。ポルトガル語に「ザ」は付かないと思いますが()、僕が9歳から29歳まで20年間住んだ街が蒲田でした。

記事を書いた編集委員の小泉信一さんは、33年前、履歴書に「趣味 銭湯めぐり」と書いて就職試験に臨んだ思い出から書き始めています。もちろん朝日新聞の就職試験で、本社での最終面接では、役員の方から趣味の理由を聞かれ、「銭湯すたれば 人情もすたる」という名言で知られる詩人・田村隆一さんの「銭湯文化論」を披瀝したそうです。



2021年3月9日火曜日

山根登・生の証5



   
 山根先生が晩年までご自宅に飾っていらっしゃったという油絵の「紫陽花」も、人それぞれに何かなつかしい思い出を、よみがえらせてくれるのではないでしょうか。大伴家持が女性の変わりやすい心を、花の色が変わりやすい紫陽花になぞらえたことを知ればなおさらに……。とくに男性は誰しも、懐かしい思い出がよみがえってくるのではないでしょうか(!?)

登さんの作品がもつ懐かしさの秘密を、華道家としての家元が発見し、花に例えたのが次の一節であるように思われてなりません。

 ……登は一度も展覧会に出品しておらず、身内以外登の絵はほとんど誰にも知られていないことです。惜しくてたまりません。花に例えるならば、大輪の美しい花を咲かせられる可能性がありながら、蕾のまま人知れず朽ちてしまう、ということでしょうか。 

2021年3月8日月曜日

山根登・生の証4

前漢の時代に、こんな素晴らしい文化がすでに生れていたのかという驚きを新たにした思い出の場所――それが僕にとっての長沙なのですが、そこには登さんが描き遺してくれたような風景が、まだ確かに残っていました。登さんが描き伝えてくれている街の喧騒もそのままでした。

 しかし登さんのスケッチを見て懐かしくなるのは、そのためばりでないように思います。ひとしなみに、見る人をしみじみとした情感に誘う魂魄のようなもの、言霊にならっていえば「形霊」や「色霊」が、画面には揺曳しているからです。これこそ登さんが遺した絵のもっともすぐれた魅力にほかなりません。 

2021年3月7日日曜日

山根登・生の証3

 

 鉛筆スケッチに淡彩を施した「長沙近郊」や、コンテだけで描いたモノクロームの「長沙付近」に、僕はすごく惹かれました。その静謐なる抒情、ちょっとメランコリーを帯びた深い画趣は、登さんにしか表現できなかったものではないでしょうか。それは何かとても懐かしい気持ちにもさせてくれるのです。僕は新田次郎の名著で知った「サウダーデ」というポルトガル語を思い出しながら、『真生』のページを繰っていました。

1995年秋、香港大学のリチャード・スタンリー・ベーカーさんから頼まれて、3ヶ月ほど香港大学で日本美術史を講じたことがありました。1年間、ベーカーさんに東大で講義をしてもらっていたので、まぁイクスチェンジ・プログラムみたいなものでした。香港の生活に少し慣れたころ、前から憧れていた馬王堆の遺跡と出土品が急に見たくなり、休日を利用して長沙まで出かけました。

 

2021年3月6日土曜日

山根登・生の証2

 

真生流家元の山根由美さんが、伯父さんにあたる登さんの作品を、「生の証」と題して真生流機関紙『真生』の313号と、最新号の314号に紹介し、山根先生からお聞きした思い出を交えながら、追悼の辞を寄せています。むしろコロナ禍のおかげで、これまで果たせなかった登さんの遺作を整理する余裕が生れたそうです。

登さんは再召集を受けて山根先生と別れるとき、「今度はアメリカが相手だから、生きて還れないと思う。もし自分が死んだら、子供もいないことだし、できたら再婚するように勧めてくれ、頼む」と、事後を託したそうです。今さらながら、戦争の理不尽とむごさを感じないではいられません。

2021年3月5日金曜日

山根登・生の証1

 山根登さんは僕の恩師である山根有三先生のお兄さんです。大正4年(1915)のお生まれですから、大正8年お生まれの山根先生にとって、4歳年上のお兄さんということになります。登さんは10代の終わりころから南画を習い始め、やがて油絵を描くようになりました。

昭和14年(1939)召集令状を受け、丹波篠山の連隊に入営、間もなく中国の戦地へおもむきました。戦線を巡りながら、各地の風景や人物などをたくさんスケッチし、また葉書に描いてお父さんの華道家・山根翠堂先生や山根先生に送りました。

 昭和18年、無事に生還し、かねてから交際していた女性と結婚、所帯を持ちました。しかし翌年、ふたたび召集されフィリピンの激戦地へおもむき、その翌年、マレーシアのサンダカンにて戦死されました。享年30、遺骨も戻らなかったそうです。 

2021年3月4日木曜日

人生は賭けだ4

 人生は賭けだ。思い通りにはならないからである。勝とうと念じてやっても負けることが多い。自分の考えで行動していうようでいながら、結局は他人任せだ。それが言いすぎなら、他人によるところが少なくない。人生と賭けの違いを見つける方が難しい。

 こんなことを言うと、きっと顰蹙を買うだろう。人生がギャンブルと同じだなんて、この素晴らしい文明を創り上げてきた崇高なる人間を馬鹿にしている。多くの戦いに勝ち抜き、栄耀栄華をきわめた英雄はたくさんいる。不屈の精神で他人の嘲笑や妨害をはねのけ、偉大な仕事を成し遂げた努力の天才の名だって、十人や二十人すぐに挙げられると……。

このような反論を、全面的に否定することはできないだろう。しかし、ギャンブルだって人間だけが創造し得た高度な文化の一つである。武勲に輝く英雄も、最後は自分の思う通りにならなかったものがほとんどだ。努力の天才だって、つねに運不運にみまわれていたし、まったく独力などということはあり得ない上、その仕事を認めてくれたのは社会なのだ。

そもそも天才とは天賦の才に恵まれたものなのか、あるいは社会が作り上げるものなのか、二つの説があって決着など付いていない。いずれにせよ、人生は賭けだと割り切れば、どんな場合もくよくよ悩まないで済む。くよくよ悩まなければ、必ずよりよい結論が出る。もちろん、いま諸君が直面している就活においてもそうだ。

僕も就活をやったことがある。何となく大学に入ったように、何となく大学院にでも進もうと考えていたのだが、大学四年生の初夏、親父が急に仕事を辞めてきたので、こりゃいかんと思い、新入社員募集中であった渋谷のJ社を訪ねたら内定がもらえた。僕も愛用していた製品を作っている会社だったし、ここで一生お世話になろうと思っていたら、親父もすぐ次の仕事を始める機会に恵まれたので、やはり大学院に行くことにしたに過ぎない。

しかしこんな話をしても、今の厳しい就活を戦っている諸君には、何を寝ぼけたことをと笑われるだけかもしれない。聞くところでは、20枚も30枚も履歴書を書くのが普通だという。しかも期限付きだったり、非正規雇用だったりする。余裕のない社会になってしまった、いや、このような社会にしてしまったのは、僕らの世代の責任だと思うと申し訳なくて、しょせん人生は賭けだなどと言えなくなってしまう。

その代わりというのも変だが、岩崎夏海さんの『もしドラ』で有名なピーター・ドラッガー氏の言葉、「世の流れを変えることはできない」を贈りたい。彼は一世を風靡したアメリカの経済学者だが、日本を深く愛してその美術品を収集したコレクターとしても名高い。現在、長野県信濃美術館でその特別展が開かれていて、質の高さに改めて注目が集まっているが、40年前、ロスアンジェルスの私邸で調査させてもらった時のことを懐かしく思い出す。若き諸君の夢と希望を打ち砕くような一言だが、自分では如何ともし難いという点で、人生は賭けだと同じようなニュアンスを持っている。ただ、「できるのはその先頭に立つことだけだ」と続けるところが、いかにもドラッガー先生らしい。

人生は賭けだから、駄目だったら次の勝負に出ればいい。僕は美術館や博物館に就職した学生に対してだが、「最低3年、できたら5年」と言ってきた。それだけつとめて、自分に合っていると思ったら続ければよいし、馴染めなかったら次の道を探せばいい。オファーがかかって最初の職を一年半で辞めてしまった僕だから、大きなことは言えないのだが、この時も両方の職場の先輩どうしで話し合ってもらって、ただその結論に従っただけだった。これも他人任せという点で、やはり賭けそのものだった。

就活で悩む諸君に、勧めたいと思う人生論の本などほとんどない。世評の定まった名著はあるが、むしろ就職が決まったあとで読む方がいい。もし一冊挙げるとすれば、人生は賭けだからではないが、色川武大氏の『うらおもて人生録』(新潮文庫)だ。とくに「九勝六敗を狙え――の章」を読めば、きっと元気が出てくる。うまくいくことを祈っている。

 *その後、鷲田清一さんが朝日新聞に連載するコラム「折々の言葉」に、この「九勝六敗を狙え」を取り上げていたので、鷲田さんも僕と同じ考えなんだと、うれしくなったことがありました。

 

 

2021年3月3日水曜日

人生は賭けだ3

 

新聞では字数制限があったこともあり、充分意が尽くせなかったので、その後加筆のうえ数回に分けて「K11111のブログ」にアップしました。さらに、漫画化によりふたたびベストセラーとなった『君たちはどう生きるか』を「饒舌館長」にエントリーしたとき、改めて分載しましたが、今回は1回にまとめて……。

最近小林忠さんは、109敗なら人生御の字だという長島一茂さんの名言を教えてくれました。また植田彩芳子さんは、御縁の大切さに改めて気づいたことをFBにアップしています。植田さんも大好きな画家だと思いますが、確か小林古径も、院展の人々との縁により、これまでやってきたに過ぎないといったようなことを述べていたと思いますよ。

駄文はこれらとチョット似ている趣旨のように感じられたので、再録することにしたという次第なのですが……。

2021年3月2日火曜日

人生は賭けだ2

かつて『京都新聞』のリレーエッセー「サロンクワトロ 4人の学長たちの提言」に、このような僕の人生哲学()を寄稿したことがあります。担当記者の有賀さんから、就活で必死になっている学生さんに対するエールになるような一文をと頼まれたのです。

あるいは東進ハイスクールのキャッチコピー「夢は大きく 目標は高く」のような内容を期待されたのかもしれませんが、自分の考えに嘘はつけません。

その後、求められるまま、ある就活ガイドブックに、このエッセーを要約して書き送ったところ、これじゃ夢も希望も無くなってしまうから、書き直して欲しいと言ってきました。根が素直なので、すぐに従いましたが……。

 

2021年3月1日月曜日

人生は賭けだ1

 

 人生は賭けだと思います。普通「人生は賭けだ」というと、人生はギャンブルと同じで運次第だから、深く考えずに一か八かやってみろという意味でしょうが、僕が言うのはチョット違います。

賭けで勝負を決めるのは、馬であり、サイコロであり、ルーレット盤であって、決して自分ではありません。人生も同じで、他人との関係によって決められる部分が大きいのです。賭けほどではないとしても、ほとんど他人が決めてくれるといっても過言ではありません。

僕の場合でいえば、山根有三先生や、辻惟雄さんや、小林忠さんとの出会いがとても大きなモメントになっています。もっともこれを推し進めると、山根先生が馬、辻さんがサイコロ、小林さんがルーレット盤になり、誠に失礼の極みということになってしまうのですが、これが三段論法の錯誤というヤツであることは、改めて指摘するまでもありません。

ブータン博士花見会4

  とくによく知られているのは「太白」里帰りの物語です。日本では絶滅していた幻のサクラ「太白」の穂木 ほぎ ――接木するための小枝を、イングラムは失敗を何度も重ねながら、ついにわが国へ送り届けてくれたのです。 しかし戦後、ふたたび「染井吉野植栽バブル」が起こりました。全国の自...