華族という身分をもち、美術学校の教授、美術関係者として重きをなしていく黒田清輝は、この風土に掉さして、日本の洋画の指導者として君臨することになる。黒田は地位や身分を利用して、改革のある部分を成就させたかに見える。だが彼は「古い芸術」と闘った、印象派の精神も行動も理解してはいなかった。日本の近代絵画の祖、日本の印象派と言われる黒田は、ただ明るい色彩を齎しただけだったのではないだろうか。
そこで今日は、鉄舟徳済の『閻浮集』から「牡丹」をマイ戯訳で……。「牡丹睡猫図」の出典は、このような五山詩ということになりますが、これには中国の先例があったにちがいありません。そう思ってネットで検索すると、明・瞿汝稷の『水月指月録』という本に「牡丹花下睡猫児」という禅問答があること...
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