当時錦絵(浮世絵版画)は、一層華やかな展開期にありましたが、栄之もまた浮世絵師として数多くの錦絵を制作、長身で楚々とした独自の美人画様式を確立、豪華な続絵を多く手がけたことは注目されます。さらに寛政10年(1798)頃からは、肉筆画を専らとし、その確かな画技により精力的に活躍しました。寛政12年頃には、後桜町上皇の御文庫に隅田川の図を描いた作品が納められたというエピソードも伝わっており、栄之自身の家柄ゆえか、特に上流階級や知識人などから愛され、名声を得ていたことが知られています。
実はさる 3 月 29 日の土曜日、この「桜 さくら SAKURA 2025 」展にちなんで、「桜を描いた名品佳品 饒舌館長ベストテン」と題する講演を、いや、口演をやらせてもらいました。会場は山種美術館から歩いてすぐのところにある國學院大學院友開館、足元のよくないなか、 1...
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