2024年1月27日土曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」10

 

寛政の改革によって十数度摺といったような華美な版画が禁ぜられたために生じたと解釈する人もあり、絵師の工夫と趣向によるものであるとする人もあって一定していないが、宝暦時代、つまり紅摺絵時代の「草絵」は政治的圧迫によらない絵師の(あるいは版元の)一つの趣向であったらしいことを考える時、「紫絵」も軌を一にした絵師または版元の趣向であったとすべきであると解釈する後者の説の方が強いようである。

 ここにある「紫絵」というのは紅嫌いのことです。紅嫌いのうち特に紫色が目立つものを紫絵と呼んでいますが、吉田先生は同義語として使っているようです。むしろ紅嫌いの同義語は「紅抜き」ですが、これを用いる人は少なくなっているんじゃないかな?


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