2024年1月22日月曜日

千葉市美術館「鳥文斎栄之展」5

栄之の「栄」は栄川院典信から一字を拝領したものですが、じつはこの栄川院が、かの田沼意次たぬまおきつぐと昵懇じっこんの仲だったんです。また当時の将軍・家治いえはるは、意次の政治経済手法を高く評価し、老中に抜擢し、ほとんど仕事を丸投げしていました()。栄川院やその弟子栄之は、家治・意次グループの一員だったことになります。

もっとも、栄之は旗本ながら政治にほとんど興味がなかったらしく、カタログの「鳥文斎栄之関連年表」をみると、天明3年(1783)の条に「2月、栄之、西の丸勤務となるが10月には職を辞し寄合となる」と書かれています。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」7

  もっとも慶長 6 年といえば、友松が桂宮家に出入りし始めたころですから、挨拶代わりの自己紹介、ブッチャケていえば売り込み作戦だったかもしれませんが、これは友松のために言わないほうがよかったかな ( 笑 ) 当時智仁親王は弱冠 22 歳、千年の齢を保ちつねに緑を失わないトキ...