2025年5月31日土曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」11

しかし純真にして自己の信念に誠実であろうとした春町は、真似をしなかったどころか、『鸚鵡返文武二道』を書いてしまったのです。ここで思い出すのは、鳥文斎栄之ですね。栄之は家禄500石の旗本・細田家の長男に生まれ、家督を継ぎました。しかし早く職を辞して寄合となり、やがて致仕して隠居し、浮世絵師として活躍するのです。

つまり栄之は武士という身分を捨てて、好きな浮世絵という軟派芸術の方を選択したのです。このような栄之の素晴らしい生き方については、2年前、千葉市美術館で開催された特別展「鳥文斎栄之 サムライ、浮世絵師になる」をこの「饒舌館長ブログ」アップした際、紹介したように思います。相似た選択をしたもう一人の武士、酒井抱一も思い出されます。

 

2025年5月30日金曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」10

喜三二は秋田藩江戸邸の平沢家に養子入りをして平沢常富と名乗り、藩の重職をになって留守居役筆頭まで昇進しました。そしてこの間戯作者として勇名をはせました。天明8年新春に出した『文武二道万石通ぶんぶにどうまんごくとおし』は、寛政改革へのウガチが当たって大いに売れました。

実をいえば、恋川春町の『鸚鵡返文武二道』は、『文武二道万石通』の続編みたいなものだったのです。『文武二道万石通』はちょっとしたウガチでしたが、朋誠堂喜三二はこの大当たりによって主家の佐竹家から厳重注意を受けるようになり、すぐにみずから黄表紙の筆を折り、軟派文学から身を引いてしまうのです。

もちろん恋川春町はこの二人の才人を身近に見ていました。とくに喜三二は肝胆相照らす仲でしたから、同じようにすれば何ら問題はなかったはずです。


2025年5月29日木曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」9

才に長けた軟派文化の寵児・大田南畝がいち早く寛政改革に寄り添い、みずから転身をはかったことはよく知られるところです。浜田義一郎先生は、著書『大田南畝』<人物叢書>の天明7年の条を、「こうして南畝は文芸活動を停止し、狂歌界と絶縁した。後に再び狂歌を作ったけれども、狂歌界には全く関係しなかった」と〆ています。

早くも天明7年正月には、狂歌会めぐりなどを一切やめているそうです。定信の文武奨励令が出たのはその年の秋だそうですから、さすが南畝のアンテナは性能バツグンだったというべきでしょう。とはいえ重要なのは、南畝が勘定奉行役にまでなる幕臣、つまり武士であったことですが、同じような転身をはかった武士に、朋誠堂喜三二がいました。


 

2025年5月28日水曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」8

 

有名な「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶぶんぶと夜も寝られず」という落書は、もちろん詠み人知らずでしたが、こちらの「落書」序文には「寿亭主人 春町」と作者の名が堂々と刻されているんです。草双紙に一大画期をもたらした黄表紙『金々先生栄花夢』に感じられるロマンチスト恋川春町は、同じノリで『鸚鵡返文武二道』も書いちゃったのでしょうか。そんなことはないはずです。

この段階では、まず武士であった恋川春町に松平定信の厳しい眼が向けられ、吉原生まれの町人・蔦屋重三郎までは及ばなかったのでしょう。しかし2年後には蔦重も身代半減という処罰を受けるのですが、その理由は一般にいわれる山東京伝作洒落本3作だけでなく、『鸚鵡返文武二道』も含まれていたのではないかと疑われるほど、過激な内容だったように思います。


2025年5月27日火曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」7

 さらに宇田敏彦さんの解説は、場面の数々を一つずつ実証しています。僕はこの「ほとんど落書」という見方に惹かれますね。明らかな政治批判ですよ。少なくとも江戸市民はそのように見なしたからこそ、ベストセラーになり、袋入りの上製本まで売り出されたのでしょう。それにしても恋川春町はよくも書いたり、蔦屋重三郎はよくも出したりと思わずにいられません。

とくに春町です。春町は駿河小島おじま藩松平家の家臣・倉橋家に入った養子、つまり武士だったからです。「恋川春町」も藩の上屋敷があった小石川春日町にちなむ戯作名だったんです。町人ならいざしらず、武士がこんなものを書けば、ヤバイと思わなかったのでしょうか。本書には天明8年(1788)刊と推定される31冊袋入り本――もちろん蔦重版もあるそうですから、寛政改革も始まったばかりで、大したことはないだろうと高をくくったのでしょうか。そんなことはあり得ないと思います。

 

2025年5月26日月曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」6

 浜田先生は若干婉曲に表現していらっしゃいますが、小池正胤ほか編『江戸の戯作パロディー絵本3<変革期黄表紙集>』(社会思想社 1982年)の解題では、この揶揄寓意を真正面から肯定しています。

「鸚鵡返」という言葉には、その頃、盛んに書写されて読まれた定信の『鸚鵡言』(天明6年成立)の影が二重写しとなっており、「文武二道」には、定信の改革政治の一大モットーたる文武両道の積極的な奨励策を想起せざるを得ない。これを初めとして、本書中に描かれる場面の数々に、ほとんど落書といってよいほどの、痛烈な時事諷諫ふうかんの刃が仕組まれているのを見てとるのは、きわめて容易である。

 

2025年5月25日日曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」5

 

したがって「こもまた大半紙摺りの袋入にして二三月頃まで市中を売あるきたり」(江戸作者部類)という歓迎を受けたが、その結果、「当時世の風聞に、右の草紙の事に付て白川侯へ召されしに、春町病臥にて辞して参らず、此の年寛政己酉七月七日歿」(同)と記されたような経過をたどったのである。それについてなんらの記録もないが、子孫の倉橋家に現存する文書に、「寛政元酉年四月廿四日長病ニ就キ御役御免願ヒ奉リ候処、願之通リ退役仰付ラレ、同年七月七日病死仕候。都合三拾ヶ年勤役仕候」とある。わずか一万石の最低の親藩、白川侯(定信)からのお召し、年寄本役という藩の要職、主君、これらを思い合わせると、春町が困難な立場に陥ったことはたしかで、世人は自殺かとも噂したという。

サントリー美術館「絵金」5

  ところが 10 年ほどして、その身分を剥奪されてしまうのです。狩野探幽贋作事件に巻き込まれたためと伝えられていますが、詳しいことは分かっていません。そのあとしばらくは、上方に身を潜ませていたようです。その間に体験したにちがいない、上方歌舞伎からの影響を重視する研究者もいます。...