2025年6月7日土曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」18

しかし今回の「べらぼう」は、いまのところ皆勤賞です。もちろんNHK文化センター講座で本展を取り上げたので、観なくちゃまずいと思って観ているわけじゃ~ありません。畏友・浅野秀剛さんが浮世絵関係の監修をやっているからといって、彼に義理を立てているわけでもありません。観ていてワクワクするから観ているんです。とくに5代瀬川を演じた小芝風花にワクワクしたかな()

あまり「べらぼう」を評価しない専門家もいらっしゃるようですが、森下佳子のような脚本は僕に書けません。横浜流星のように演じることも、ジョン・グラムのように効果音楽を作曲することもできません。僕にはゼッタイできない――もうそれだけですごいテレビドラマです。

  ヤジ「オマエなんかを基準にしてどうするんだ!!

 

2025年6月6日金曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」17

 

一言でいって、鈴木さんの思考は狂歌や黄表紙や洒落本と同じように、とても明るく軽やかなんです。改めてこの名著を読み返し、ちょっとネクラな(!?)僕の妄想と暴走を再考しようと思っているところです。

実をいうと、本書が出たときにすぐ求めようと思いながらそのままになっていたところ、NHK文化センター講座の熱心な受講生であるWさんが貸してくれたんです。一読してこりゃ~やはり書架に備えなければならんと、ソク注文したことでした。

NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」はとてもよく出来ていると思います。毎週日曜20:00にガラケーの目覚ましをセットしておき、ゼッタイ見逃さないようにしています。昭和39年の第2回大河ドラマ「赤穂浪士」はチョッと観た記憶もありますが、その後はまったくご無沙汰してきました。

2025年6月5日木曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」16

 

今年の1月、『本の江戸文化講義 蔦屋重三郎と本屋の時代』という一書が角川書店(KADOKAWA)から出版されました。著者は蔦屋重三郎を中心に、書籍文化史の研究ですぐれた本をたくさん著わし、僕も多くを学ばせてもらってきた鈴木俊幸さん、しかも今回「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の歴史考証を担当している鈴木俊幸さんです。これまた名著、皆さんにおススメする所以です。

もちろん鈴木さんは、恋川春町の『鸚鵡返文武二道』を取り上げています。大田南畝や朋誠堂喜三二についても、寛政の改革についても新しい見方を提示しています。とくに松平定信側近の水野為長が、施政の参考に供すべく収集し書き留めた風聞集『よしの冊子ぞうし』を用いて考察した寛政の改革論は、目から鱗が落ちるようです。


2025年6月4日水曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」15

中西進さんの『辞世のことば』<中公新書>には、有間皇子ありまのみこから飯田蛇笏いいだだこつまで、60人が遺した辞世が選ばれています。しかし「今はの際は寂しかりけり」みたいな悲観に満ちるものは本書に見つかりません。

やや近いのは、在原業平の「つひに行く道とはかねて聞しかど昨日今日とは思はざりしを」でしょうが、色恋と戯作の違いはありながら、自分の好む道をまっすぐに歩んだ点で、春町は業平に似ているような感じもします。それはともかく、春町の内向的性格がその肉体をさいなんだのではないでしょうか。

また春町の狂歌名は酒上不埒さけのうえのふらちといいました。これは明らかに酒仙あるいはアル中(!?)であったことを示していますが、やはり飲み過ぎも病気の一因だったのではないでしょうか。春町の享年は数えで46、人生50年の時代といっても若すぎますね。

 

2025年6月3日火曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」14

死の訪れが間もないことを自覚すれば、もう怖いものはこの世に何もありません。そうだとすれば、浜田義一郎先生が引用する先の倉橋家文書が事実である可能性は、きわめて高いということになります。したがって自死というのは、あくまでウワサだったのではないでしょうか。いずれにせよ、恋川春町はすごい人間だと感を深くしますが、「いい加減はよい加減」なんていっている僕には、真似をしたくともできませんね()

ところで春町は純真で自己の信念に誠実だったと書きましたが、それだけにチョッと内向的性格だったようにも思われます。あるいはややペシミスティックだったのかもしれません。僕がそのように想像するのは、

我もまた身はなきものとおもひしが今はのきははさびしかりけり

という春町辞世の一首を知るからです。

 

2025年6月2日月曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」13

もっとも水野稔先生は、「それら(『鸚鵡返文武二道』など)はかならずしも新政を批判するものでもなく、たまたま黄表紙の戯謔ぎぎゃくとうがちが、新しいトピックとして時事問題をとりあげたにすぎず、そこに意識的な根強い幕政風刺の意図を見いだすことはできない」と指摘しています。

確かに近代的な意味での政治批判とは異なるでしょうが、春町が単にウケねらいや、新しいトピックといった軽い気持ちでテーマに選んだとはどうしても思えません。武士がこのような本を書いて出版すればどういうことになるか、春町にはよく分かっていたはずです。「確信犯」だったのです。

封建的身分社会にあって、政権からの召喚とか、さらに手鎖とか、身上半減とかのダメージは、現代と比較にならぬほど重かったのではないでしょうか。春町を含め彼らはそれを賭して、みずからの道を歩んだのです。そう思わなければ、彼らも浮かばれません。

 

2025年6月1日日曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」12

恋川春町は絵も得意で鳥山石燕に入門しました。はじめは武士とともに絵師として生きることを望んだのです。その強い願望は、人気浮世絵師・勝川春章にあやかった「恋川春町」という戯作名に象徴されています。

『金々先生栄花夢』をはじめ、自作黄表紙の挿絵はほとんどみずから描き、朋誠堂喜三二のために挿絵を提供しているほどですから、栄之のように美人画浮世絵師として生きることもできたはずです。しかし春町は、結局それを潔よしとしなかったのでしょう。

このようにいろいろと考えてくると、『鸚鵡返文武二道』は長患いのため任に堪えず、死を予感した恋川春町が寛政改革に対する自己の気持ち――こんな改革は人間本来の生き方を抑圧するものだという見解を率直に述べた「遺書」だったような気がしてくるのです。

 

サントリー美術館「絵金」5

  ところが 10 年ほどして、その身分を剥奪されてしまうのです。狩野探幽贋作事件に巻き込まれたためと伝えられていますが、詳しいことは分かっていません。そのあとしばらくは、上方に身を潜ませていたようです。その間に体験したにちがいない、上方歌舞伎からの影響を重視する研究者もいます。...