もう一つ「僕の一点」に「琉球塗板屏風」を挙げて、妄想と暴走を披露したかったのですが、それはまたの機会にゆずり、今回は裏面一扇の上下に描かれる「騎驢図」と「山水図」を取り上げ、賛の戯訳だけを紹介することにしましょう。「騎驢図」を選んだのは、やはりお酒が登場するからなのかな(笑)
ロバで行くのも歩くのも いくら力んでやったとて
天地は無限に広いから 遅速の違いがあるでなし
だからのんびり酒を酌くみ 詩を詠み俗塵 逃れよう!!
そうすりゃ気持ちも晴々と 爽快になる――昔から
もう一つ「僕の一点」に「琉球塗板屏風」を挙げて、妄想と暴走を披露したかったのですが、それはまたの機会にゆずり、今回は裏面一扇の上下に描かれる「騎驢図」と「山水図」を取り上げ、賛の戯訳だけを紹介することにしましょう。「騎驢図」を選んだのは、やはりお酒が登場するからなのかな(笑)
ロバで行くのも歩くのも いくら力んでやったとて
天地は無限に広いから 遅速の違いがあるでなし
だからのんびり酒を酌くみ 詩を詠み俗塵 逃れよう!!
そうすりゃ気持ちも晴々と 爽快になる――昔から
実をいうと、はじめて僕に山上憶良の絶唱「いざ子ども早く日本やまとへ大伴の御津みつの浜松待ち恋ひぬらむ」を思いつかせたには、この友松屏風だったんです。浜松図屏風には珍しい橋が、わが国と中国を結ぶイメージに、あるいは象徴性をこめた虹の橋に感じられたからでした。『万葉集』を愛して止まなかった智仁親王は、もちろんこの一首をよく知っていたことでしょう。というわけでこの和歌を、浜松図という画題全体に敷衍させてみたくなったんです。
ところが、この「近世の御所を飾った品々」展のカタログによると、本屏風の制作年は慶長10年(1605)となっています。ということは、ちゃんとしたドキュメントがあるような感じがします。そうなると、これまで述べてきた私見は慶長6年制作という前提に立っていますから、またまた独断と偏見ということになっちゃうのかな(笑)
贈られる智仁親王自身が一品、つまり鶴なのですから、鶴を描いたらダブってしまいます。連句でいうベタ付けになってしまいます。友松は浜松図を描きながら、松から一品大夫を、波から一品当朝を連想させて、智仁親王の一品叙位をことほいだのでしょう。智仁親王を慶賀すべき一品大夫と一品当朝を同時に表象するような画題は、浜松図をおいて他になかったといってもよいでしょう。
あるいは鶴に代えて、同じ鳥類である浜千鳥を配したのかもしれません。浜千鳥は古くから筆跡、さらに手紙の寓意にもなってきました。和歌では浜千鳥に「あと」「あとなし」と続けられることが多いので、あと→跡→筆跡という連想を生んだからです。和歌や連歌を好み、細川幽斎から古今伝授を受け、古典の書写に情熱を傾けた能筆家・智仁親王には、鶴より浜千鳥の方がふさわしかったことでしょう。
一品に叙せられた智仁親王にピッタリの画題ではありませんか。しかし松は描かれていても、丹頂鶴がいないじゃないかって? それがチャンと暗示されているんです。というのは「一品当朝」という謎語画題もあるからです。これまた『東洋画題綜覧』によると、いま述べたごとく一品は鶴ですが、「朝」は朝廷の朝にして「潮」に通じ、海辺の波を描く画題とあります。
鶴は番つがいで複数描かれることもありますが、必ず波とセットになるところがミソです。これは一品の官に昇って、朝廷に出頭する栄誉を祝した画題だというのです。大きく広がる青海波のような銀波のコノテーションが、「潮」を通して朝廷になるんです。
もっとも慶長6年といえば、友松が桂宮家に出入りし始めたころですから、挨拶代わりの自己紹介、ブッチャケていえば売り込み作戦だったかもしれませんが、これは友松のために言わないほうがよかったかな(笑)
当時智仁親王は弱冠22歳、千年の齢を保ちつねに緑を失わないトキワの松が、一品叙位をことほぐにふさわしいモチーフであったことは、改めて指摘するまでもありません。ここで思い出されるのは、「一品大夫」という謎語画題です。
金井紫雲の『東洋画題綜覧』によると、松樹に丹頂鶴を描くのが「一品大夫」です。一品はもともと中国における文官の位で、この位のものの装束には鶴が織り出されていたので、一品=鶴となります。大夫は、秦の始皇帝が松に大夫の位を授けたという故事から松のことになります。
智仁親王は後陽成天皇の皇弟、かの桂離宮を造営した教養人でした。本屏風の制作には、友松と智仁親王との関係が推定されてきましたが、慶長6年(1601)智仁親王が親王の位階第一位である一品に叙せられたとき、祝賀の意味を込めて友松が描き贈ったのではないかと僕は疑ってきました。
もちろん、中世に入れば山上憶良の歌は忘れ去られ、画家や鑑賞者に意識されることなく、記憶の残滓が脳内のどこかに沈殿しているに過ぎなくなっていたことでしょう。
しかし、憶良の歌のDNAだけは伝えられていたように思われてなりません。例えば俵屋宗達の傑作「松島図屏風」(フリーア美術館蔵)も浜松図のバージョンですが、日本絵画としては珍しいほどに気宇壮大、ワビやサビなど微塵もないのですから……。たとえそうでなかったとしても、現代の私たちが憶良の歌を通して浜松図を鑑賞することに、何の不都合があるでしょうか。
皇居三の丸尚蔵館所蔵の六曲一双屏風は、海北友松の彩管になるやまと絵系屏風の傑作として、古くから高く評価されてきました。落款印章はありませんが、岩や土坡の皴法しゅんぽうをみれば、友松筆であることはいささかも疑いありません。旧桂宮家に伝来した作品であることも、傍証になるでしょう。
僕のみるところ、 繭山龍泉堂本とMOA美術館本は 同じ11世紀でも 、 前半と後半に分かれるのではないでしょうか。 なお、この種の遼陶は もともと 中国で 皮嚢壷あるいは仿皮嚢壷と呼ばれ ましたが、上部の取 っ 手部分が鶏 のトサカ に似 ている ため、日本で鶏冠壷と称 す...