2025年2月12日水曜日

『芸術と社会』6

 

しかしオマエなんかに写真を論じるのはとても無理だと、引導を渡してくれたのがこの名著だったんです() もっともそのとき高階先生の「アウラの夢と嘘」がすでに発表されていて、これを精読することが叶ったなら、何とかなったかもしれませんが……。

 ヤジ「そういうのを負け惜しみというんだ!!

 さて『芸術と社会 近代における創造活動の諸相』のコシマキにあるような「芸術と社会との関係」を研究する学問を、ふつう芸術社会学と呼んでいます。これまで何度も引用したことがある『新潮世界美術辞典』(新潮社 1985年)を開くと、つぎのように解説してあります。


2025年2月11日火曜日

『芸術と社会』5

改めて若々しい好奇心に満ちた智の巨人に脱帽です!! これからは「智の巨人」とお呼びしたいと思います。高階先生は知識の巨人ではなく、智慧の巨人だからです。

実をいうと、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』には苦い思い出があるんです。もう20年近く前でしょうか、佐藤康宏さんから、編集中の『講座日本美術史』2<形態の伝承>に「粉本と模写」といった内容で書いてほしい、できたら現代の粉本ともいうべき写真についても、取り扱ってほしいと頼まれたことがあるんです。

その前に高橋由一について拙文を書いたことがあり、そのとき絵画における写真の重要性に気づかされたので、佐藤さんの依頼に悪乗りして()写真に対する私見を物してみようと思いつきました。となれば何はともあれベンヤミンです。さっそく少し前に出た多木浩二『<複製技術時代の芸術作品>精読』(岩波現代文庫)を読んでみたんです。

 

2025年2月10日月曜日

『芸術と社会』4

 

 先生はベンヤミン以降におけるアウラの変貌を概観したあと、ご自身のアウラ観をもって結語とされています。

「アウラ」はすぐれた作品の中から出てくるものというよりも、すぐれた芸術家や作曲家の夢が、そのようにとらえられるのではないだろうか。

ベンヤミンはニーチェから大きな影響を受けたそうですが、ニーチェの名言「この世に事実というものは存在しない。存在するのは解釈である」と、先生のアウラ観が何となく共鳴している点にも興味をそそられました。先生の論文は2021年春開催された、第6回芸術と社会研究会における発表を編者がまとめたものだそうですが、出版順でいえば先生の絶筆というも不可ないでしょう。


2025年2月9日日曜日

『芸術と社会』3

先生はベンヤミンの「パリ論」、とくにパサージュ論が『複製技術時代の芸術作品』と深く関わっていることから説き起こします。続いてベンヤミンのいう「儀礼的価値」と「展示的価値」から「アウラ」――普通にいう「オーラ」の問題へ発展させ、ここで本書のキモとなる一節を摘出しています。

オリジナルのもつ<いま―ここ>的性質が、オリジナルの真正さという概念を形づくる……真正さの全領域は、技術的――そしてもちろん技術的なものだけではない――複製の可能性を受けつけない。

これらの特徴をアウラという概念でひとまとめにして、こう言うことができる――芸術作品が技術的に複製可能となった時代に衰退してゆくもの、それは芸術作品のアウラである。

 

2025年2月8日土曜日

『芸術と社会』2

 芸術と社会の関係を考える際のヒントがテンコ盛り(!?)になっています。この問題に関心をもつ方々に、ぜひお勧めしたい1冊です。〆て22論文、すべて示唆に富んでいますが、「僕の一点」は去年幽明界を異にされ、この「饒舌館長ブログ」にも追悼の辞をアップさせてもらった智の巨人・高階秀爾先生の「アウラの夢と嘘――W・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』をめぐって」ですね。

先生は1940年、48歳でみずから命を断ったヴァルター・ベンヤミンの名著『複製技術時代の芸術作品』を取り上げて、この問題を考察していらっしゃいます。ベンヤミン――『広辞苑』にはドイツの「批評家」とありますが、間違っていると思います。ベンヤミンは「思想家」です!! 

2025年2月7日金曜日

『芸術と社会』1

 

高階絵里加・竹内幸絵編『芸術と社会 近代における創造活動の諸相』(森話社 2025年)

 20204月から、京都大学人文科学研究所において「芸術と社会――近代における創造活動の諸相」という共同研究が開始されました。実際はコロナ禍のため、半年近くスタートが遅れたそうですが、ほぼ3年半にわたり熱き発表と討論が続けられました。中心になったのは京大人文研の高階絵里加さんと同志社大学社会学部の竹内幸絵さん、お二人が編者となってその研究成果をまとめたのが本書です。コシマキにはつぎのように書かれています。

芸術と社会の関係を問い直す――個人の営み・個性の表現である芸術は、一方で社会のなかに生まれ、社会によって変化し、社会にはたらきかける力を持つ存在でもある。その芸術は、いかなる政治的・経済的環境のもとで生み出されたのか。それはなぜ受容者に受け止められ、それを必要とした社会は何を求めていたのか。本署は、社会の多様な位相における影響関係のなかで、近代の西洋、東アジア、日本の芸術を再考する。

2025年2月6日木曜日

東京国立博物館「大覚寺」16

藤岡通夫先生の『京都御所』によると、このときの障壁画筆者としては狩野孝信の名前しか出てこないようです。しかし孝信はあくまで棟梁であって、多くの狩野派画家を組織して障壁画制作に当たったことは改めて指摘するまでもありません。そのなかに山楽がいたのではないでしょうか。

もっとも、この後水尾天皇新造内裏は徳川幕府による大プロジェクトでしたから、豊臣家の御用絵師格であった山楽が採用されたかどうか微妙です。しかし元和元年(1615)起こった大阪夏の陣以前、つまり男山八幡社僧であった松花堂昭乗のもとに山楽が身を隠す前であれば、山楽が参加した蓋然性は、これまたゼロじゃ~ないということになります。いれにせよ、慶長度造営御所障壁画の可能性を考えたい誘惑に駆られるのです。

  ヤジ「令和7年も饒舌館長は独断と偏見、妄想と暴走みたいな予感がするなぁ」

 

2025年2月5日水曜日

東京国立博物館「大覚寺」15


 ここで『友松・山楽』の巻末に付された「友松・山楽年譜」から山楽の項を見てみましょう。すると慶長12年に「後陽成院御所の障壁画を描くか(『土佐文書』)」とあるではありませんか。後陽成院御所に山楽が「牡丹図」や「紅白梅図」を揮毫した可能性は、ゼロじゃ~ないということになります。

 もっとも二つの造営のうち、より一層大規模であったのは後者の後水尾天皇新造内裏であり、「牡丹図」「紅白梅図」にふさわしいのもこの新造内裏であったようにも思われます。ただしこの障壁画を主導したのは狩野孝信で、彼の筆になる「賢聖障子」は仁和寺に伝えられてよく知られるところです。これを最初に指摘されたのも、先の土居次義先生でした。 

2025年2月4日火曜日

東京国立博物館「大覚寺」14

このたび改めて川本さんの『友松・山楽』を拝読し、しばらくぶりに美術史の醍醐味にワクワクする自分を感じたのでした。図像解釈学イコノロジー全盛の現在、川本さんの様式史に対する揺るぎなき信頼がじつにカッコよかったからです。「障壁画の年代は、新しい史料でも発見されないかぎり、その様式から判断する以外に手立てがないのである」というのが、川本さんの基本的スタンスなのです。

この川本説にしたがえば、両者を慶長度造営御所の障壁画とするよりほかに、途はないのではないでしょうか。先の『京都御所』によれば、慶長度造営御所は慶長11年ごろの後陽成院御所造営と、慶長16年から始まった後水尾天皇のための内裏新造に大別されます。「牡丹図」「紅白梅図」はいずれかの障壁画だったのではないでしょうか。

 

2025年2月3日月曜日

東京国立博物館「大覚寺」13

しかし様式的に、貞信一門とはどうしても見なせない点から、美術史研究者の間では元和5年東福門院女御御所説だけを生かし、「牡丹図」「紅白梅図」はそのころの山楽画とする見方が通説になっていました。土居先生もこの立場でした。

これに再考を迫ったのが、若き日の美術史家・川本桂子さんでした。川本さんは著書『友松・山楽』<名宝日本の美術>(小学館)において、東福門院女御御所説を完全に否定し、様式的にみて山楽慶長末期の傑作であることを明快に論じたのです。僕の所有する『名宝日本の美術』は<新版>なので、『友松・山楽』の発行は1991年になっていますが、オリジナル版は数年早いと思います。

*川本桂子さんの『友松・山楽』は、新たに<新版>に加わった1冊だそうです。佐藤康宏さんから教えてもらいました。ありがとう❣❣❣ <新版>が出たとき、オリジナル版は断捨離しちゃったものですから……。

 

2025年2月2日日曜日

東京国立博物館「大覚寺」12

 

しかし土居先生も、1972年著わされた『永徳と山楽』(清水書院)では、一部に異なる画家の筆が混じることを指摘しつつ、基本的に「牡丹図」も山楽筆とみる立場に変わっています。その後出された『山楽・山雪』<日本美術絵画全集>(集英社 1976年)でも、土居先生は同じ考えを表明されています。

現在、この土居アトリビューションを否定する美術史研究者はいないでしょう。つまり筆者問題は解決しているわけですが、問題は先に指摘した何時、何処、何故です。

1956年、建築史家・藤岡通夫先生が『京都御所』(彰国社)を出版されました。そして「牡丹図」「紅白梅図」がはめられる現宸殿の前身は、元和5年(1619)建てられた東福門院女御御所であることを指摘されました。東福門院は徳川二代将軍秀忠の娘和子まさこ、翌年後水尾天皇のもとへ入内された閨秀です。したがって藤岡先生は、記録に残る狩野貞信一門に障壁画筆者をアトリビュートされたのです。


2025年2月1日土曜日

東京国立博物館「大覚寺」11

 

ところが不思議なことに、こんな傑作障壁画がいつ、いかなる建物のために描かれ、なぜ山楽が担当することになったのか、まったく不明なんです。これが嵌っている宸殿は、もともと大覚寺のために建てられた建物ではないんです。「牡丹図」「紅白梅図」のいずれにも落款印章はありませんが、狩野山楽の作であることは寺伝として伝わってきました。寺伝は鵜呑みにできないものの、この場合は信用できることを土居次義先生が早くに実証していました。

先生は昭和18年(1943)に『山楽と山雪』(桑名文星堂)を出版され、「紅白梅図」は山楽筆で間違いなきことを断言されました。もっとも「牡丹図」については、「山楽画に極めて近き作風をもつ作品」とされるだけでした。とくに関係ありませんが、昭和18年は僕が生まれた年です( ´艸`) 

『芸術と社会』6

  しかしオマエなんかに写真を論じるのはとても無理だと、引導を渡してくれたのがこの名著だったんです ( 笑 )  もっともそのとき高階先生の「アウラの夢と嘘」がすでに発表されていて、これを精読することが叶ったなら、何とかなったかもしれませんが……。  ヤジ「そういうのを負け惜...