藤岡通夫先生の『京都御所』によると、このときの障壁画筆者としては狩野孝信の名前しか出てこないようです。しかし孝信はあくまで棟梁であって、多くの狩野派画家を組織して障壁画制作に当たったことは改めて指摘するまでもありません。そのなかに山楽がいたのではないでしょうか。
もっとも、この後水尾天皇新造内裏は徳川幕府による大プロジェクトでしたから、豊臣家の御用絵師格であった山楽が採用されたかどうか微妙です。しかし元和元年(1615)起こった大阪夏の陣以前、つまり男山八幡社僧であった松花堂昭乗のもとに山楽が身を隠す前であれば、山楽が参加した蓋然性は、これまたゼロじゃ~ないということになります。いれにせよ、慶長度造営御所障壁画の可能性を考えたい誘惑に駆られるのです。
ヤジ「令和7年も饒舌館長は独断と偏見、妄想と暴走みたいな予感がするなぁ」
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