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2025年2月2日日曜日

東京国立博物館「大覚寺」12

 

しかし土居先生も、1972年著わされた『永徳と山楽』(清水書院)では、一部に異なる画家の筆が混じることを指摘しつつ、基本的に「牡丹図」も山楽筆とみる立場に変わっています。その後出された『山楽・山雪』<日本美術絵画全集>(集英社 1976年)でも、土居先生は同じ考えを表明されています。

現在、この土居アトリビューションを否定する美術史研究者はいないでしょう。つまり筆者問題は解決しているわけですが、問題は先に指摘した何時、何処、何故です。

1956年、建築史家・藤岡通夫先生が『京都御所』(彰国社)を出版されました。そして「牡丹図」「紅白梅図」がはめられる現宸殿の前身は、元和5年(1619)建てられた東福門院女御御所であることを指摘されました。東福門院は徳川二代将軍秀忠の娘和子まさこ、翌年後水尾天皇のもとへ入内された閨秀です。したがって藤岡先生は、記録に残る狩野貞信一門に障壁画筆者をアトリビュートされたのです。


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