ところが不思議なことに、こんな傑作障壁画がいつ、いかなる建物のために描かれ、なぜ山楽が担当することになったのか、まったく不明なんです。これが嵌っている宸殿は、もともと大覚寺のために建てられた建物ではないんです。「牡丹図」「紅白梅図」のいずれにも落款印章はありませんが、狩野山楽の作であることは寺伝として伝わってきました。寺伝は鵜呑みにできないものの、この場合は信用できることを土居次義先生が早くに実証していました。
先生は昭和18年(1943)に『山楽と山雪』(桑名文星堂)を出版され、「紅白梅図」は山楽筆で間違いなきことを断言されました。もっとも「牡丹図」については、「山楽画に極めて近き作風をもつ作品」とされるだけでした。とくに関係ありませんが、昭和18年は僕が生まれた年です( ´艸`)
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