ここで『友松・山楽』の巻末に付された「友松・山楽年譜」から山楽の項を見てみましょう。すると慶長12年に「後陽成院御所の障壁画を描くか(『土佐文書』)」とあるではありませんか。後陽成院御所に山楽が「牡丹図」や「紅白梅図」を揮毫した可能性は、ゼロじゃ~ないということになります。
もっとも二つの造営のうち、より一層大規模であったのは後者の後水尾天皇新造内裏であり、「牡丹図」「紅白梅図」にふさわしいのもこの新造内裏であったようにも思われます。ただしこの障壁画を主導したのは狩野孝信で、彼の筆になる「賢聖障子」は仁和寺に伝えられてよく知られるところです。これを最初に指摘されたのも、先の土居次義先生でした。
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