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2026年10月6日火曜日

銀座ステップス・ギャラリー「a gentle breeze from Shonan 古川巧✖髙橋勉」オープニングパーティー

 


 先日お知らせした銀座ステップス・ギャラリー「a gentle breeze from Shonan 古川巧✖髙橋勉」展が始まりました。お二人の最近作は銀座4丁目にふさわしい洒落た画趣にあふれ、コンパクトな会場を濃密なアート空間に昇華させています。会場のベランダで始まったオープニングパーティーは、銀座の夜を昼に変えるようなライトとワインで盛り上がったことでした。僕はチープなフォークギターを抱えて行き、チープな数曲を熱唱して錦上花を添えました。花といっても枯れ尾花でしたが😓 僕の左隣りが古川さん、その左が髙橋さんです。改めてお二人に「おめでとう❣❣❣」

東京都美術館「大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱 海を越えた江戸絵画」10

  


  このあと山下さんは「作者は狩野宗眼重信、今後注目の絵師!」と、先に述べた筆者問題に突入していくのですが、あまりに長くなっちゃいますから、カタログをお読みいただくことにしましょう。

山下論文によると、「春景花鳥図」と「秋冬花鳥図」は、廃仏毀釈により談山神社になるまえの多武峰妙楽寺・学頭屋敷を飾る襖絵でした。その花鳥之間の西側に前者が、南側に後者がはめられていたんです。これを知って僕は、とても興味深く感じました。


このころの襖絵は基本的に東=春、南=夏、西=秋、北=冬という四方四季の観念をもとに描かれています。たとえ建物が正しく南面していない場合でも、画面の春夏秋冬は時計回りに進んでいきます。ところがこの花鳥之間では、春から秋冬へと反時計回りになっていますね。つまり、四季花鳥図屏風一双における四季の進行に近いのです。何故なのでしょうか?


それは東と北には襖絵が描けないような構造であったため、宗眼重信は四方四季という伝統的構成をあきらめ、西と南の二面を屏風のように見立てて描いたためだというのが独断と偏見ですね。そのためにとてもまとまりのある空間が生れたんだと思います。部屋から引っ剥がされた襖絵を見せられているような、居心地の悪さを感じることもなく、僕たちは安心してこのシャングリラに遊ぶことができるんです。


上の写真はネットからゲットした一枚ですが、すごいことになっていますね。「安心してこのシャングリラに遊ぶ」どころの話じゃなくなっているみたいです❣❣❣ 

2026年10月5日月曜日

東京都美術館「大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱 海を越えた江戸絵画」9

 


私は2025年6月から日課として膨大な談山神社古文書のチェックを始めた。 ひと月ばかりたった頃、学頭の日誌を見ていて胸が高鳴った。 頻出する「花鳥之間」「富士之間」の記事。 竹林坊学頭屋敷のこれらの部屋に社僧たちが一堂に揃い、盛んに行事を営んでいたのである。 天保4年(1833)7月3日の条では間取り図を掲載、 儀式の際に学頭や幹部らの座る位置が図示される。 桃山末の襖絵は幕末まで確かに用いられていたのだった。(略)


明治2年(1869)、神仏分離令により多武峰妙楽寺は廃されて多武峰談山神社と改称。 やがて竹林坊棄却、 障壁画も売却された。 50年後の大正11年(1922) 詩夢庵襖絵群は、東京での入札を経て青森へ。 


その10年後の昭和6、7年 (1931 1932) 頃、 土居次義氏 が《秋冬花鳥図》《琴棋書画仙人図》 両面襖の状態で、 京都市内で調査。ほどなく表裏が分離され、1937年に大英博物館が 《秋冬花鳥図襖》を購入、戦後の1951年にシアトル美術館が《琴棋書画仙人図襖》を購入したのであった。

2026年10月4日日曜日

東京都美術館「大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱 海を越えた江戸絵画」8

 


      座敷空間が見えてきた!

時を戻そう、 襖絵が制作された時代へ。1998年から2000年の大英博襖絵の解体修理で見つかった裏貼りなどから、襖絵群は伝承通り奈良県桜井の多武峰・談山神社にあったことが確実になった。 談山神社は、大化の改新の中心人物、 藤原鎌足を祀る古社で飛鳥時代の創建。 幕末までは、多武峰妙楽寺という神仏習合の寺院だった。


慶長17年(1612)4月に比叡山の賢盛法印 (?-1624) が、駿府で徳川家康の命により初めて妙楽寺の学頭に任じられる。 学頭は多武峰全体の事実上の統括者で、明治維新まで26代続く。 学頭の屋敷=竹林坊は現存しないが、 襖絵群はこの屋敷の内部を飾る建具として制作されたのだった。慶長19年(1614)、 豪雨により裏山が崩れ、土石流で境内の建物の多くが倒壊、 学頭の賢盛法 印は再建に努めた。

2026年10月3日土曜日

東京都美術館「大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱 海を越えた江戸絵画」7

  

 


 大英博襖絵の裏が米国・シアトル美術館の襖絵《琴棋書画仙人図》だったことは以前から知られていた。本展では、これら離れ離れになった絵が日本に里帰りし、150年ぶりに再会する。その感動的な場面に、私たちは立ち会えるのである。

近世絵画史研究の泰斗、 故・土居次義先生は、大英とシアトルの襖絵がまだ表裏にあった昭和初期に京都市内で調査され、昭和57年 (1982) 論文「海外の襖絵と狩野孝信」(『日本美術工芸』 528・529号)で次のように語られた。大英博襖絵には「秋、冬二季の花鳥的景観が描かれているわけだが、向かって右端に椿の枝が認められるし、それに梅の枝が添えられているところから推定すると、この花鳥図の向かって右方には、もと春、夏の花鳥的景観を描く画面があった可能性が考えられる。 (...) それを確かめるすべのないことが惜しまれる」と……。 その右方の襖こそ、詩夢庵の襖絵にほかならないのである。

2026年10月2日金曜日

東京都美術館「大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱 海を越えた江戸絵画」6

 


さらに山下さんは、『國華』1569号に詳細なる論文「談山神社障壁画空間の復元的考察――日英米に分蔵された狩野派襖絵をもとに――」を寄稿しています。この『國華』は「宮越家詩夢庵の襖絵とステンドグラス」というおもしろい組み合わせの特輯号になっています。じつにスリリングな山下カタログ論文の前半部を紹介することにしましょう。


大英博物館と青森の襖絵がつながった!

2023年夏、青森県津軽の旧家に伝わる襖絵群18面の画像がメールで送られてきた。本展特別出品の詩夢庵(宮越家の離れ)襖絵との出会いである。桃山末から江戸初期の絵だと直感、《春景花鳥図 》を目にしたとき、36年前に東京国立博物館「大英博物館所蔵 日本・中国美術名品展」で《秋冬花鳥図襖》を観た記憶が蘇った。同展図録を確認すると画面の雰囲気はよく似ており、図様もつながりそうに思えた。やがて津軽・ロンドンで実査、 もともとは大英博襖の右に柱があり、そこで直角に折れて青森のが接続していたと確信。この事実が全国ニュースになった。

2026年10月1日木曜日

東京都美術館「大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱 海を越えた江戸絵画」5

  


 そのキャプションは伝狩野孝信筆としました。土居次義先生がこの裏面にあった「琴棋書画仙人図」(米国・シアトル美術館蔵)とともに、孝信筆と推定されていたからです。もっとも『日本美術全集15<永徳と障壁画>』出版の直前に、小嵜善通さんが狩野永徳の弟・宗秀元秀そうしゅうもとひでの門人であった狩野宗眼重信筆とする見解を発表されていました。しかしまだ定説にはなっていなかったので、土居先生の孝信説にしたがって「伝狩野孝信筆」としたんです。その後も僕は、土居先生が孝信というんだから孝信でいいんじゃないの――といったいつもの調子でずっと過ごしてきました。

 ところが今回世紀の大発見が起こりました。起こしたのは畏友・山下善也さんです。その顛末と研究成果を、山下さんは「日英米の襖絵、150年ぶり奇跡の再会」と題してカタログに寄稿しています。朝日新聞で読み、あるいはNHK日曜美術館で観た方も少なくないでしょう。

出光美術館<門司>「水墨画の巨匠たち 雪舟から鉄斎まで」8

  その点で指は「 無用 」ですが、 指は 日々 実際に役立 ち、指がなければ 大典 和尚 もこの賛を書けませんでした。「無用之用」にならっていえば、指は 「有用之無」 だといってもよいでしょう。 「漫 すず ろに相倚る」というの は 、 無用之用と有用之無は 何となく、 仲良く...