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2017年9月7日木曜日

川喜田半泥子『随筆 泥仏堂日録』3



しかしそこには、これなら言われた方も本当に怒るヤツはいないだろうなぁ、みんな苦笑いをしながら、そのままにしちゃうだろうなぁと思わせるユーモアが含まれています。毒舌にはちがいありませんが、どこかカラッとしていて気持ちがいいのです。

序文を寄せた多田利吉は、「法師の文章は明暢、平淡、すらすら読めて晦渋がない。春光和照の滋味もあれば、秋霜烈日の骨もある。気が利いていて嫌味がなく、諧謔があって下品でない。降魔の劔はあっても毒矢を番えない」と述べていますが、まさにその通りだという感を深くします。

だからこそ、「西の半泥子」は「東の魯山人」をあんなにコケにしたのに、二人は胸襟を開く友となることができたのでしょう。「北大路さん」という一章を読むと、お互いを許しあっていた二人の関係がよく分かります。「天才は天才を知る」とはこのことだと、うらやましくなります。もしこれが陰湿な悪口やネチネチした批判だったとしたら、さすがの魯山人も、絶交状をたたきつけたことでしょう。

2017年9月6日水曜日

川喜田半泥子『随筆 泥仏堂日録』2



伊勢商人・川喜田久太夫家の16代目として大阪に生まれた半泥子は、25歳にして百五銀行に取締役として入行します。その後、津市議会議員、三重県議会議員をはじめ、たくさんの企業の要職をつとめ、政財界で活躍、41歳の時には、百五銀行頭取に就任します。40初めにして、すでに功成り名を遂げ、経済的にもきわめて恵まれた環境を手にしたわけですね。

陶芸は若いころから興味を持っていましたが、30代半ばから、津南郊の千歳山で作陶を始め、ついに56歳の時、みずから設計した登り窯を築き、轆轤場「泥仏堂」を開くに至るのです。しかし半泥子は、あくまでシロウトであることを自認していたのです。森孝一氏の解説によると、半泥子の作品数は3万とも、それ以上ともいわれていますが、少なくともその大半を占める茶碗は、売ったことがないといわれているそうです。

 半泥子の文章は実に愉快にして爽快です。歯に衣着せず、当たるを幸いなぎ倒し、バッタバッタと切り倒していく感じです。とても僕などに真似のできる芸当ではありません。

2017年9月5日火曜日

川喜田半泥子『随筆 泥仏堂日録』1


川喜田半泥子『随筆 泥仏堂日録』(講談社文芸文庫 2007年)

 半泥子――大好きな陶芸作家の一人です。いや、陶芸作家などと言ったら、半泥子に怒られるでしょう。本書「その三」のタイトルは「シロウト陶人」ですが、これこそ半泥子の自負するところだったでしょう。

「しろうと本窯を焼くべからず」と言った「おくろうと」がいたようです。おそらく北大路魯山人じゃないかなと思いますが……。この「おくろうと」を、例の半泥子調で茶化しています。土もみ、轆轤ひき、窯たき、さし木など、全部自分でやっていた半泥子は、これらをみんな他人にやらせてイケシャーシャーとしている「おくろうと」なんか、何ぼのもんじゃと言うわけです。

半泥子はみずからを陶芸のシロウトと規定し、窯の神さまに「作れ作れシロウト、焚け焚けシロウト、ユメユメウタガウコトナカレ」と言わせています。半泥子の陶芸は、真のよい意味で趣味的であり、口に糊するためのものじゃありませんでした。それを可能にしたのは、半泥子の生まれと育ちと社会的地位にありました。

2017年9月4日月曜日

永田生慈さん北斎画を寄贈2


僕も永田さんのお陰で、この太田記念美術館や氏家コレクションの仕事を手伝わせてもらってきました。僕が浮世絵に関する本当の勉強ができたのは、その賜物だといっても過言ではありません。

その永田さんが、松江市の島根県立美術館に、所有する北斎や弟子の全作品、約1000点を寄贈したことを、この記事は伝えています。浮世絵界の快挙です!! 総額で10数億円の価値があるとも書かれています。永田さんは島根県津和野町の出身で、北斎の収集を始めたのは、じつに16歳のときだったそうです。

永田さんが津和野町に開設した「葛飾北斎美術館」には、僕もお邪魔してそのすぐれたコレクションを堪能したことがあります。そのとき見せてもらった「鍾馗図」は、北斎が春朗と号していた青年時代における唯一の肉筆画だそうです。

しばらくお会いしていませんでしたが、記事によると病気療養中とのこと、びっくりするとともに、一日も早くあの元気な永田さんに戻られることを願い、また一緒に仕事のできる日が来ることを、一日千秋の思いで待っています。

2017年9月3日日曜日

永田生慈さん北斎画を寄贈1


永田生慈さん北斎画を寄贈

 先日の朝日新聞に、「北斎画千点 島根県に寄贈 川崎の研究者・永田さん」という記事が載りました。永田生慈さんとは、半世紀近くにわたり、仲良くさせてもらってきました。僕が東京国立文化財研究所につとめていたころ、歌麿・写楽同一人説で有名な()石田泰弘さんと、東京浮世絵研究会なるものを立ち上げたことがあります。

この研究会に永田さんは、最初から参加してくれました。永田さんはすでに仲間うちで北斎研究者として知られていましたが、北斗書房という本屋さんをやりながら、研究と収集に邁進していました。そのあと永田さんは、太田記念美術館のキューレーターとなり、目を見張る活躍を始めました。

とくに、フランスのギメ美術館から北斎の「龍図」を借り出して、離れ離れになっていた太田記念美術館の「雨中の虎図」と、100年ぶりに本来の双幅として展示した「ギメ美術館所蔵浮世絵名品展」は、美術界の話題を集め、たくさんの浮世絵ファンを原宿へと向かわせました。普通はスリッパに履き替える太田記念美術館ですが、このときはとても不可能で、シートを敷いて土足にしたというのは、よく知られたエピソードです。

 

2017年9月2日土曜日

河治和香『伊藤若冲』


河治和香『遊戯神通 伊藤若冲』(小学館 2016年)

 河治さんの略歴に、「三谷一馬氏に師事して、江戸風俗を学ぶ」とあったので、とても懐かしい気持ちになりました。『江戸吉原図絵』など、三谷先生のご本にはずいぶんお世話になったからです。河治さんは若冲を主人公にした映画の企画が発端となって、この小説を書くことになったそうです。

腰巻には<「おまえは、京の女やな」足を拭きながら、若冲はそう言って美以をみた。「……え」「底冷えがする」>という、浪漫的一節がアップされています。「時空を超えて我々を魅了し続ける作品とそれを描いた絵師に、江戸と明治、二つの時代から迫った描き下ろし小説」ともあります。

そこに狩野博幸さんの「古い文献に「寂中」と誤記したものがある。華麗な若冲の絵の背後に潜む人間たちの底知れぬ寂しさを、著者は追う」という、いかにも狩野さんらしいキャッチコピーが加えられています。

僕も楽しく読了しましたが、腰巻のシーンなど、やはり映画で見たかったなぁという気持ちをぬぐえませんでした。もしこの本が映画化されたら、必ず拝見させてもらい、マイ批評を「饒舌館長」にアップすることにしましょう。何といっても、映画『天心』の批評を書いて、笑われちゃったこともある僕ですから(!?)

2017年9月1日金曜日

赤須孝之『伊藤若冲製動植綵絵研究』4


 しかしこれだけでは、たとえ科学者でも、赤須さんの言わんとするところを十分理解することはちょっと難しそうですね。やはりこの本を自腹で求めて、あるいは持っている友だちから借りて、はじめからじっくり読むことをお勧めしたいと思います。ともかくも読み出したら止まらない、じつにスリリングな、そしてすぐれた若冲の心理学的イコノロジー研究です。

いや、ヴァールブルグやE.H.ゴンブリッジ、アーウィン・パノフスキーの唱えたイコノグラフィーやイコノロジーには、もともと心理学的研究の要素が入っていたわけですから、「心理学的イコノロジー」なんてトートロジーそのものですね。ただ「じつにスリリングな、そしてすぐれた若冲のイコノロジー研究」と言い換えることにしましょう。

つまりこの本がすごいのは、きわめて科学的な図像分析でありながら、最後にそれが哲学や宗教、思想という人文科学の問題と相似形に結ばれているという指摘――僕的に言えば、両者はフラクタルであるという指摘に昇華している点なんです!!

赤須さんのおっしゃる若冲と「草木国土悉皆成仏」の関係については、この「饒舌館長」でしたか、あるいは以前の「K11111のブログ」でしたか、末木文美士さんの『草木成仏の思想』によりつつ、私見をアップしたような気もしますが……。

「赤須」の「須」にカミカンムリを加えると、「赤鬚」となって、あの三船敏郎が名医を演じた黒澤明監督の名画「赤ひげ」を思い出させてくれますが、いつか直接お会いして、若冲のお話をお聞きしたいものと願わずにはいられません。

 

中近東文化センター を訪ねてみよう❣❣❣3

   中近東における国際的・民族的諸事情は、単に現在の問題だけを分析してみても理解できません。過去数千年にわたる中近東の歴史的発展の跡を顧み、そのよって来たるゆえんを明らかにする必要があります。     欧米における中近東研究はその歴史は古く、その成果はまことに偉大なものがありま...