これが「江戸名所図屏風」ではなく、「武蔵野図屏風」だったら話は簡単だったでしょう。先行作品や粉本がたくさんあったからです。また「洛中洛外図屏風」なら、又兵衛も二つ返事で引き受けたことでしょう。何しろ舟木本「洛中洛外図屏風」の経験がありましたし、いわゆる第2類型に分類されるような洛中洛外図屏風なら、すでにたくさん描かれていたからです。それを参考にすればよかったのです。
しかし、江戸の時世粧を描く江戸名所図屏風となるとそうはいきません。それ以前の作例がまったくなく、粉本も乏しく、もちろん又兵衛は制作したことなどなかったからです。そのためには福井から江戸までの長い旅路を、踏破しなければならなかったのです。そこで又兵衛は江戸にいる弟子か、又兵衛に私淑したり影響を受けたりしている町絵師を、ピンチヒッターに立てたのではないでしょうか。
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