相見先生は、南岳の江戸下向を文化のはじめと推定した上で、そのころ抱一はすでに一家の風格をなしていたことをもって、就学説否定の根拠とされました。しかし、寛政の終りから享和年間の制作と思われる「庭柏子」落款や「冥々居」印の抱一草花図では、まだ一家の風格をなすまでに至っていませんから、その後における抱一様式完成の過程で、南岳草花図が影響した可能性は、十分考えられるように思われます。
それはともかく、「渡辺南岳の研究が不充分な現段階において、断定的なことはいえないけれども、一応の指摘を行なって後考に俟ちたいと思う」――なんてカッコいいことを書きながら、その後まったく何も研究していないことには忸怩たるものがあります。しかしブッチャケをいえば、「後考に俟ちたい」というのは、「これから先、何もやらないだろう」というのと同じ意味なんです(笑)
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