2021年1月16日土曜日

渡辺南岳筆「玄宗楊貴妃一笛双弄図」5

 

土方寛柔は通称・寛十、字は子強といい、仏光寺柳馬場西に住んでいたようです。おそらく寛柔を通して南岳の遺族に届けられたであろうこの追悼句は、抱一と南岳が大変親しい関係に結ばれていたことを教えてくれます。

ところで、抱一の草花図は明らかに円山四条派の影響を受けています。とくに構図と現実的な季節感において……。ここに南岳を介在させたい誘惑に、饒舌館長は駆られるのです。

早くから抱一には、円山応瑞就学説や南岳就学説がありましたが、これは相見香雨先生によって否定されています。しかし少なくとも南岳からは、直接学んだことがなかったとしても、かなり強い影響を受けたのではないでしょうか? 

南岳江戸下向の年代が分からないことは残念ですが、抱一に対する南岳の影響を推定する根拠については、かつて「抱一の伝記」という一文に開陳し、拙著『琳派 響きあう美』に収めたことがあります。


0 件のコメント:

コメントを投稿

すみだ北斎美術館「北斎をめぐる美人画の系譜」3

 この春興狂歌集に、北斎が魅力的な美人風景図を寄せています。解説によると、現在の新宿・神楽坂あたりの風景で、遠景に牛込御門近くにあった堰の落し口が描かれています。これは「どんどん」と呼ばれて、よく知られていました。  その若草もチョッと芽吹き始めた河原を、3人の美人と、連れの子ど...