2022年5月6日金曜日

下川裕治『「おくのほそ道」をたどる旅』16

 

追悼 田辺聖子さん<201966日歿 享年91

 僕が大好きな作家・田辺聖子さんがお亡くなりになりました。心より哀悼の意を表するとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。

ご逝去を伝える『朝日新聞』の書き出しには、「人生の機微をすくい取った恋愛小説や、ユーモアにあふれたエッセーで人気を集めた文化勲章受章者の作家、田辺聖子さん」とありますが、僕にとっては、何といっても『姥ざかり花の旅笠 小田宅子の<東路日記>』(集英社)の作者・田辺聖子さんですね。

もともと僕はお聖さんが好きだったのですが、これを読み始めたのは、幕末の女旅日記なので、何かエッセーでも書くときに使えるんじゃないかという、ちょっとセコイ考えからでした。天上の聖子さん、どうぞお許しください!

筑前・上底井野村(現・福岡県中間市)の裕福な商家をあずかる小田宅子と桑原久子という二人の主婦が、相はかってお伊勢参りに出かけます。宅子さんは53歳、久子さんは51歳、ほかに二人の女性を加えた女4人旅です。時は幕末の天保12年(1841)、荷物持ちの下男3人を従えていたとはいえ、女性がそんな旅行をできるほど、我が国は治安がよかったのです。街道海路もよく整備されていました。

とはいえ、こんな大旅行に必要なお金を、すべて持ち歩いたのでしょうか? そんな心配はご無用です。驚くべきことに、すでに為替制度が発達していて、宅子さんたちは行く先々で現金を受け取ることができたのです。また女性ですから、当然のことながら――などというとまた怒られそうですが、やたらとおみやげを買い込みます。すると、それを上底井野村の自宅まで届けてくれる飛脚便までありました。江戸時代に、もうクロネコヤマトが存在していたんです() 

宅子さんたちは伊勢から善光寺へと参詣の足を伸ばし、江戸見物を楽しんだあと、懐かしき故郷へと無事戻ってくるのですが、その間5ヶ月、正確には144日、距離にして800里というのですから、驚くとともに深い感動を覚えずにはいられません。

江戸時代はきわめて安定した社会のもと、経済が発展し文化が成熟したすぐれた時代でした。知識としてはその事実を理解していました。しかし聖子さんの『姥ざかり花の旅笠』は、それを分かりやすく、そして具体的に教えてくれたのでした。

ところで、先日も「饒舌館長」に登場していただいた俳優の高倉健さんは、宅子さんの5代あとにあたるご子孫なのです。健さんの本名は小田剛一ですから、小田宅子さんの直系にあたる方なのでしょう。健さんは、その因縁をみずから『あなたに褒められたくて』(集英社文庫)というエッセー集に書いています。

もともと宅子さんによる『東路日記』という旅日記が遺っており、研究資料として校刊もされていたのですが、これを読みやすい形で世に出したいという健さんの熱い思いが聖子さんに伝わり、この素晴らしい本が誕生したのでした。

田辺聖子さんといえば、ちょっと心残りの思い出があります。僕が『國華』の主幹を預かっていたころ、もう少したくさんの方々にこの美術雑誌を読んでほしいなぁと思い、丸谷才一、ドナルド・キーン、渡辺保といった多くの人に愛されている知識人に、論文でも随筆でも自由にお書きくださいといって、お願いしたことがあります。

実をいうと、すでに何回か紹介した天羽直之さんのアイディアであり、みな天羽さんが親しくされていた方々でした。

『姥ざかり花の旅笠』を読んで感を深くしていた僕は、ぜひ聖子さんにもお書きいただいたいなぁと思わずにいられませんでした。しかし、僕はもとより、天羽さんと接点がなかったこともあり、そのままになってしまいました。

もう一人、ぜひご寄稿いただきたいと思ったのは白川静先生でした。白川学に対して批判があることは知っていましたが、漢字は精神的所産であるという先生のお考えには、深く共鳴するところがあったからです。何よりも、『漢字 生い立ちとその背景』(岩波新書)がこの上なくおもしろいからです。

先生にはお手紙を書いた上でお電話を差し上げました。これから書かなくてはいけない本が10冊ほどあるとのことでしたが、そのあとで結構ですからと無理を言って、「漢字と美術」といった内容で如何でしょうかとお願いしました。しかし間もなく、先生は幽明界を異にされてしまいました。

聖子さんにもダメモトでお手紙を差し上げればよかったなぁと、ご逝去の報に接し、昨日のことのように思い出されたことでした。

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