2018年6月28日木曜日

鏑木清方記念美術館「清方の美人画」2


そこに描かれた、あるいは雑誌の口絵に摺りだされた女性と、実際に会ってみたいなぁ、話がしてみたいなぁ、一つ屋根の下に住んでみたいなぁという、強いあこがれがわきおこってきたのです。やはり清方美人を、一人の女性として感じてしまったのです。普通こういう感情をエロティシズムと呼ぶのだと思って、『新潮世界美術辞典』にこの項を求めてみると、次のように書かれていました。

肉体的愛欲にかかわる過度の嗜好、あるいは作品の官能的情欲を誘う性質を意味する。語源のエロースはギリシア神話の恋愛の神であるところから、男女間の恋愛にかかわる官能の表現を基本とする。

 しかし、これがエロティシズムだとすると、僕が清方美人に抱いた感情とは、かなり違っているように思われました。けっして、愛欲とか、官能とか、情欲を感じたわけじゃないんです。かの名作「ためさるゝ日」の右幅が展示されていましたが、描かれている女性は長崎の遊女だと思います。その遊女さえきわめて優美にして清楚、エロティシズムからは遠い位置にいます。

0 件のコメント:

コメントを投稿

追悼シンポジウム「高階秀爾館長と大原美術館」8

  尊敬して止まぬ文人画家・祇園南海が「五老峰図」を描いたとき、李白の「廬山の瀑布を望む」を心に浮かべていたことは指摘するまでもありません。しかし、五老峰から一望千里の風景を写生する虎次郎の頭上にも、李白が降臨したことでしょう。僕は李白の絶唱を中国語でつぶやくように暗唱しながら、...