しかし感心はしつつも、そうかいなぁ?と思ったのは、僕がつねづねお世話になっている小学館版『日本国語大辞典』と諸橋轍次の『大漢和辞典』が、日本敗戦の因となった海軍の大艦巨砲主義に例えられていることでした。そして小さい辞典の方が役立つ場合もあり、またこれらには間違いも含まれていることを、実例を挙げて指摘しているのです。
普通は絶対気づかないような細かい点を見つけ出すのは、さすが博覧強記を誇る百目鬼先生だと思いましたが、せっかく大枚をはたいて買った大辞典なのに……と、すぐそっちの方に頭がいってしまったのは、やはり僕の人間的器量が小さいせいでしょうか(!?)
その時は拾い読みをしたままになっていたので、今日は盆休みの一日をかけて、もう返却することも叶わぬ手沢本を、天羽さん風にチビチビやりながらゆっくり通読することにしました。その「中国の古典(Ⅰ)」に引かれる夏目漱石『文学論』の示唆に富む序文を掲げれば、漱石にも一家言をもっていた天羽さんが改めて思い出されます。
自分は少年時代に好んで漢籍をまなび、国史左漢(中国の古代史書『国語』『史記』『左伝』『漢書』のこと)を読んで、文学はこんなもんだという定義を得ることができた。が、英語は、漢籍とおなじ程度に学力をつけたつもりなのに、英文学を漢籍とおなじように味わうことができない。結局、漢文学と英文学とでは種類がちがうせいなのだろう。
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