2017年6月9日金曜日

木村重圭・岡川聰さんと1


木村重圭・岡川聰さんと(66日)

 木村重圭さん、岡川聰さんと夕方5時前、二子玉川駅でランデヴー――ちょっと古いかな? 信号を渡って柳小路へ迷い込み、このところ時々お邪魔している「ゆうき」さんへ……。まだ「準備中」でしたが、「よろしく」といいつつ席に着けば、ソク乾杯です。

 木村さんは僕と同じ近世絵画の研究者ですが、僕の空想的美術史と違って、きわめて厳格な実証性が木村美術史学最大の特徴です。その方法論に従って、木村さんは関西系絵師の伝記と作品に関するガッチリとした研究を次々に発表してきましたし、現在も発表を続けています。

琳派ファンの僕の立場からいえば、大阪琳派とも称すべき中村芳中の画業や伝記について教えてもらったことが、一番うれしいことでした。木村さんは総合的な『中村芳中画集』を著わし、また美術雑誌『MUSEUM』に芳中の没年や江戸下向に関する論文を発表して、この画家の全貌を明らかにするとともに、芳中は文政2年(1819)に没したことを初めて教えてくれたのです。

木村さんと僕の学風?は大いに異なるのですが、何となく気が合って、半世紀にわたり親しくさせてもらってきました。あるいは、木村さんの美しい手紙に象徴されるような文人趣味と、文人生活に対する僕の憧れとが、かすかながらも共鳴するのかもしれません。

最初に会ったのが、いつ、どこだったか記憶が定かじゃないのですが、とくに親しくなったのは、1999年と翌年の夏休み、鹿島美術財団の助成によるボストン美術館所蔵日本美術悉皆調査を一緒に行なった時でした。

京都美術工芸大学勤務時代、木村さんと岡川さんは園部まで無聊を慰めに来てくれました。その熱い友情に胸が一杯になり、いつものようにはイッパイ飲めませんでした!?

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