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2025年11月7日金曜日

三井記念美術館「円山応挙」1



三井記念美術館「円山応挙 革新者から巨匠へ」<11月24日まで>

 

 円山応挙――本展副題通りの「革新者」にして「巨匠」、饒舌館長がもっとも尊敬する江戸時代画家の一人です。何しろ饒舌館長の卒論は「円山応挙試論」だったですから(!?) その応挙に焦点を合わせた大展覧会が三井記念美術館で開催中です。ゲストキューレーターは御存知!!山下裕二さんです。 

 山下さんはカタログに「いまこそ、応挙の真価を問うために」という巻頭論文を寄稿していますが、このタイトルに本展覧会の趣旨が端的に表現されています。この観点から山下さんがキューレーションを行なった特別展なです。僕は「山下応挙展」というネーミングを捧げつつ、先月NHK青山文化講座「魅惑の日本美術展」で紹介したところです。山下さんの巻頭論文は皆さんでお読みいただくことにして、ここでは館長の清水真澄さんが寄せた「ごあいさつ」をアップすることにしましょう。  

2025年11月6日木曜日

國華清話会2025年秋季特別鑑賞会6


  チョッと脱線してしまいましたが、そのベルツ・コレクションのなかに雪庵の「松雲仙境図」という力作があり、強く印象に残っていたことも由一における雪庵の重要性に気づかせてくれた理由でした。その後、雪庵の作品に逢着する機会がなかったこともあって、平林寺にこんな雪庵の優作が収蔵されていることを知驚いたというわけなです 

驚いただけではありません。僕は「雪庵のもとで中国画の合理的視覚に触れたことが、洋画へ進むための基盤を用意したのだ」という進化論的推測「狩野派と明清画風」章の最後に書いておいたですやはりそれが間違っていなかったことを、この牧谿に倣った雪庵の「寒山拾得図」が証明してくれたので 

もっとも拙論執筆当時は、もっぱら「北派」を念頭に置いていたわけですから、「中国画」に禅宗絵画の牧谿まで含めてしまうと、またまた我田引水、拡大解釈になってしまうかな´艸`) 

2025年11月5日水曜日

國華清話会2025年秋季特別鑑賞会5


 それ以前に、リンデン美術館所蔵アーウィン・フォン・ベルツ博士日本絵画コレクションを、ハイデルベルク大学において調査する機会がありましたそのときの大事件(!?)については、かつてアップしたことがあるように思いますが……。 

帰国1週間前の木曜日になりましたが、調査すべき作品はまだ山のように残っています。仕方がないので、助手のアンジェラを先に帰し、夜の9時近くまで一人で続けていました。さて僕もホテルに戻ろうと思って裏口のところへ行きましたが、つねに内側からは出られるものと思っていたその扉鎖錠されていて押せども引けども開かないです。職員はみんな帰宅していて、もう誰もいません。つまり閉じ込められちゃったんです‼ 

当然お腹が空いてきたので、表口のところで夕涼みをしていたトルコ人家族に、鉄格子越しにお金を渡しマックを買ってきてもらい、食べ終わると先の『日本画家辞典』を枕にして一夜を明かしです。翌朝アンジェラがやってきたので顛末を話すと、「それはラッキーだった」と笑うじゃありませんか。「もし今日の金曜だったら、3泊しなければいけなかったところよ」 

2025年11月4日火曜日

國華清話会2025年秋季特別鑑賞会4

 

 

 沢田章『日本画家辞典』によると、吉澤雪庵は父を鎮之進といい、江戸の人、文政2年(1819)3月28日に生まれ、明治22年(1889)に71歳で没しました。画法を遠坂文雍に学び、よく山水花鳥を描いたとあります。ちなみに明治22年は、『國華』が創刊された年です!!  

文雍は谷文晁の弟子ですから、雪庵も文晁系の画家ということになります。高橋由一の『履歴』によると、雪庵も文晁と同じく田安徳川家に仕えていたようです。いずれにせよマイナーな画家ですが、僕にとっては忘れることのできない大切な画家です。 

というのは、先の高橋由一が若いころ雪庵に師事していたからです。由一について一編の拙論を書き、辻惟雄編『幕末明治の絵画』(ぺりかん社)に載せてもらったとき、由一の雪庵師事には重要な意味があったことに気がついたです。当時、雪庵は「北派」に分類されていましたが、由一は全盛を誇っていた南画ではなく、あえて「北派」を選択したことに興味を覚えたのです。 

2025年11月3日月曜日

國華清話会2025年秋季特別鑑賞会3

 

 「僕の一点」は吉澤雪庵の「寒山拾得図」ですね。大きな絹本の掛幅です。右側の拾得は岩を硯にして墨を摺り、左側の寒山は筆を右手に持って岸壁に文字を書こうとしています。拾得の後には、チョット羅漢のように見える豊干禅師が座って寒山の方を見ています。これを見てすぐ思い出すのは、上に掲げた牧谿の「寒山拾得図」です。その図様から見て、雪庵が牧谿の「寒山拾得図」をもとにしたことは明らかです。 

もちろん雪庵は背景などをかなり変えていますが、牧谿の作品なくしてこれを描くことは不可能です。しかしこんなことをルル述べるよりも、画面左下にある「丙寅桂秋既望 法宋人牧渓筆 雪庵文行」という落款がそれを教えてくれています文行は雪庵の名、丙寅は慶応2年(1866)に当たります。落款の左脇に大きな「聴雨軒」白文方印と、「晴雨閑房」朱文方印が捺されています。雪庵のとても優れた大作です。雪庵の傑作とたたえるも不可ないでしょう。 


 

2025年11月2日日曜日

國華清話会2025年秋季特別鑑賞会2

  

 ちょうど秋の風入れと重なったため、ほとんどすべての絵画作品が4室ほどに分けて懸けられ、島尾さんの解説を聞きながら鑑賞することができました。風入れですから、すべて露出展示(!?)です。また田中さんの解説のもと、開山・石室善玖禅師のお像へお参りするなど、楽しく充実した半日を過ごすことができました。頂戴したリーフレットにある、平林寺の紹介を掲げておくことにしましょう。 

平林寺は永和元年(1375)武蔵国 (武州) 中部、現在のさいたま市岩槻区に創建されました。開山は当時の鎌倉建長寺住寺石室善玖禅師、開基は岩槻城主の大田備中守春桂薀沢居士です。 

戦国時代の戦禍に荒廃した平林寺は、徳川家康の助力を得天正20年(1592) 駿河国臨済寺住寺鉄山宗鈍禅師を迎え中興します。大河内家(のち 大河内松平家)菩提寺として同家の外護を受けた平林寺は、寛文3年(1663) 川越藩主松平伊豆守信綱の遺命により、現在の野火止に移転されました。 明治に入り、妙心寺派初の関東の専門道場として平林僧堂が開単。豊かな歴史をいまに湛える、武蔵野の禅刹です。

2025年11月1日土曜日

國華清話会2025年秋季特別鑑賞会 1

 

 國華清話会については、かつて紹介したことがあるように思います。美術雑誌『國華』が主宰する美術愛好倶楽部です。美術愛好家が集まり、年に2度の特別鑑賞会を中心に親睦を深めるとともに、『國華』の発行と國華賞の運営を支援することを目的にしています。年会費は3万円と、キョウビちょっと高めですが、決して損はさせません!! もしご興味のある方がいらっしゃったら、ご一報くださいませ。 

 今年の國華清話会秋季特別鑑賞会は、昨日10月31日の午後1時から、埼玉県新座市野火止にある臨済宗妙心寺派の名刹、金鳳山平林寺で行われました。総会に続いて、國華主幹の佐野みどりさん、平林寺ご住職の松竹寛山老子のご挨拶があり、そのあと学習院ミュージアム研究員・平林寺世話人の田中潤さんと、國華編輯委員・島尾新さんの講演を拝聴いたしました。 

カエルも骸骨も踊り出す サントリー美術館・暁斎ワールドの迷宮へようこそ❣❣❣12

  服部南郭「児の愛する所の猫死す」     長年わが子にな ついてた   子は 焼いて いたキミの世話     少ないおやつを分けてやり   眠るキミ見て安堵した     深き愛ゆえ夢に見て   恩ゆえ埋めるの哀しいと……     だが心配はまたネズミ   傍若無人に今夜から…...