2024年9月21日土曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」11

 

内藤さんは屏風に描かれたただ一つの大名屋敷が福井藩松平家である点から、福井方面からの依頼によって制作された作品であろうと推定しました。画家については、福井藩松平家と関係浅からぬ岩佐又兵衛が編み出した、又兵衛様式あるいはその時代様式の影響を受けた福井関連の絵師だろうというのです。

京都で町絵師として活躍していた又兵衛を福井へ呼び寄せたのは、徳川家康の孫にあたる福井藩主・松平忠直でした。ところが忠直は、病気と称して参府を怠るなど常軌を逸した行動が目立つようになり、元和9年(1623)幕府から隠居を命じられ、豊後の萩原(大分市)に流されてしまいました。忠直追放後の福井藩は、紆余曲折を経て寛永元年(1624)弟の忠昌が継ぐことになりました。

0 件のコメント:

コメントを投稿

追悼シンポジウム「高階秀爾館長と大原美術館」8

  尊敬して止まぬ文人画家・祇園南海が「五老峰図」を描いたとき、李白の「廬山の瀑布を望む」を心に浮かべていたことは指摘するまでもありません。しかし、五老峰から一望千里の風景を写生する虎次郎の頭上にも、李白が降臨したことでしょう。僕は李白の絶唱を中国語でつぶやくように暗唱しながら、...