鳥文斎栄之というすぐれた浮世絵師を誕生させたのは、意外なことに、寛政の改革だったのです(!?) というわけで、「僕の一点」は「大田南畝像」(東京国立博物館蔵)ですね。栄之は同じくサムライであった南畝と親密な交流を重ねていました。南畝の自賛をともなう「大田南畝像」は、そのすぐれた証拠でもあるんです。
しかし、寛政の改革を前に、地位をまもって軟派文芸から身を引いた南畝と、身分を捨てて浮世絵師に生まれ変わった栄之は、対極的な生き方を選んだ二人の天才のように思われてなりません。
もっとも慶長 6 年といえば、友松が桂宮家に出入りし始めたころですから、挨拶代わりの自己紹介、ブッチャケていえば売り込み作戦だったかもしれませんが、これは友松のために言わないほうがよかったかな ( 笑 ) 当時智仁親王は弱冠 22 歳、千年の齢を保ちつねに緑を失わないトキ...
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