2018年6月8日金曜日

静嘉堂「酒器の美に酔う」<お酒の絵>5


C河野元昭「玉堂と酒」(『江戸名作画帖全集』Ⅱ<玉堂・竹田・米山人>) 

このような観点から考えるとき、興味深いのは「東雲篩雪」という題である。基本的に、この題が李楚白筆「腕底煙霞帖」の「凍雲欲雪」から取られていることは、字面の相似によって明らかであろう。しかも、玉堂は構図までそれから借りてきているのだから、ますます疑いないことになる。

ところで、問題は「篩雪」の語である。すでに指摘されるように、これは篩[ふるい]でふるうがごとくに雪が降ってくる情景を表わしたものだが、中国語にこのような熟語は存在しない。少なくとも一般的ではなかったらしく、諸橋轍次編『大漢和辞典』や『佩文韻府』にも見出せない。

ところが、注目されるのは「篩酒」という言葉の存在である。これは酒を酌むとか酒を注ぐ意味である。そもそも「篩」一字に、酒を注ぐとか酌をするという意味があるという。「凍雲欲雪図」から霊感を得て山水を描いた玉堂が、さて題をつける段になり、「篩酒」からの類推で「篩雪」という言葉が浮かび、はたと膝を打って「欲雪」に代えた可能性は、充分に考えられるのではないだろうか。

なぜなら、玉堂自身そのとき微醺を帯びていたからである。もちろん、これは私の単なる思いつきではない。玉堂自身、次のように詠んでいるのである。

    松窓篩雪月清涼  窓を通して松が見え 篩[ふるい]から雪 降るごとし 
    竹葉鳴風残夜長  竹 風に揺れ 月さやか まだ夜明けには時間あり
    老却惟于琴自得  ずいぶん年をとったので 琴さえ弾いてりゃ楽しいが
    憂来頼有酒相忘  たとえ落ち込んだとしても 酒があるから大丈夫


         

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