『諸橋大漢和辞典』に「閨秀」を求めると、「賢婦人。才学のすぐれた婦人」とあります。「閨秀画家」は、すぐれた婦人の画家ということになります。出典には『世説新語』など、たくさんあがっています。
ところが「閨」だけをみると、もともとは独立した小門という意味のようですが、第三義に『後漢書』を引いて「ねや。婦人の居間」とあり、第四義に『王琚 美女篇』を引いて「男女のみそかごと」とあります。ちょっとエロティックなイメージもつきまとう漢字ということになります。
龔穎さんが異を唱えたのは、そのためだったのでしょう。あるいは、何となく男性の上から目線を感じ取ったのでしょうか。日本の学生が何も言わなかったのは、目立つことを嫌う国民性のせいなんかじゃなく、単に「閨」の派生的意味を知らなかったためかもしれません。そうなると日中文化比較はナンセンスということになりますが……。
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