しかし、後漢から三国時代の画像石には、鍵型や人物を取り囲むように立てられる障屏具があらわれる。これこそ屏風のプロトタイプだといってよいであろう。その後、中原の地で屏風という形式が確立したことは、唐時代の長安、いまの西安に遺る韋家墓の「樹下美人図壁画」からある程度想像できるが、その実態となると、これまた闇に包まれている。
いずれにせよ、中国で誕生した屏風が、朝鮮を通して我が国へもたらされたのは、白鳳時代のことであった。『日本書紀』天武天皇の朱鳥元年(六八六)四月十九日の記事は、よく知られるところである。その日、新羅の奉る調が筑紫から貢上されたのだが、これとは別に智祥・健勲らが献上した金・銀・霞錦[かすみにしき]・綾羅[あやうすはた]・金の器・鞍の皮・絹布・薬物など六十余種のうちに、屏風が見出されるのである。
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