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2017年11月30日木曜日

出光美術館「書の流儀Ⅱ」4


  寒さにこごえる間抜けネコ 俺の庵[いおり]が大好きだ
  オイラのものぐさ このネコに よく似ているのが可笑しいよ
  陋室 夕闇せまれども 身の危険なきネズミたち
  貧しい台所[だいどこ]なお寒く 魚なんかは一匹も……
  寝床は硬く 長い夜 眠りも浅くウトウトと……
  温[ぬく]い昼間も炉のわきの 狭い隙間に寝そべって……
  そのうち起きてニャーニャーと 恋妻呼んで どこかへと……
  月が昇って梅の影 寄り添う風情に似たるかな

 最後の「隣担梅影月升祖(初?)」を上記のように訳してみましたが、これを二匹の毛の柄模様と解釈するのもおもしろいでしょう。「間抜けの柄は満月で 彼女の方は梅の花」という風に……。  

2017年11月29日水曜日

出光美術館「書の流儀Ⅱ」3


 蒋蔵園とは、清時代に活躍した詩人にして劇作家で、一般的には蒋士銓という名の方で通っています。かのグルメ詩人・袁枚[えんばい]と並んで、両才子とたたえられたそうです。

近藤春雄編『中国学芸大事典』には、「その詩は黄山谷を宗として、最も七言古詩に長じ、気力渾厚で縦横の妙を発揮した。詩文集を忠雅堂集といい、また詞曲をよくして紅雪楼九種曲(蔵園九種ともいう)があり、また銅絃詞がある」とあります。

確かに、袁枚と比べると気力渾厚という感じもしますが、清新の魅力に富む点で、両者は気脈を通じているようにも感じられます。いずれにせよ、この『忠雅堂集』を、山陽は『蒋蔵園集』と呼んだのでしょう。

その蒋士銓に「十寒詩」なる連詩があるらしく、全部を知りたいと思ってネット検索をかけてみましたが、空振りでした。それはともかく、「四寒詩巻」を「僕の一点」に選んだのは、ネコ好き館長がギャラリーを回ると、まず「寒猫」という詩が目に飛び込んできたからです。例によって、戯訳を試みてみました。

2017年11月28日火曜日

出光美術館「書の流儀Ⅱ」2


手法は変わったが、人と人との交流や連絡手段ではメールなどの文字伝達が主流となっていて、電話で話すことは非効率的だとしてか後回しだ。新聞、小説、マンガまでもが電子書籍として提供され、「見る」と「読む」の感覚や相関性が随分と変わってきたように思えるのも、このご時世の一端だろうか。

こうした動向を若い世代特有の現象であるかのように捉えて、「本を読まない世代」「活字離れ」と言う批評もあるが、それはおよそ見当違いで、電子化された媒体に手慣れた人々にとっては、世代の差なく機器を活用して、これまで以上にたくさんの活字に触れているのが実情だ。どのような手段でコミュニケーションを図ろうとも、文字が人と人とを結ぶ役割を担っていることに変わりはない。

 さて「僕の一点」は、頼山陽の「四寒詩巻」(出光美術館蔵)です。江戸時代後期を代表する漢学者にして詩人、また『日本外史』を著わした大歴史家でもあった山陽が、「寒僕」「寒婢」「寒犬」「寒猫」という七言律詩四首を書き連ねた書巻です。しかし山陽の自詠ではなかったらしく、巻末には以下のようなことが書かれています。

『蒋蔵園集』に「十寒詠」があるが、おおむね無情のものを詠んでいる。私は有情にして、自分とも強い関係があるものを抜き出して、「四寒詩巻」を作った。


2017年11月27日月曜日

出光美術館「書の流儀Ⅱ」1


出光美術館「書の流儀Ⅱ 美の継承と創意」(12月17日まで)

 僕は尚美学園大学でも、京都美術工芸大学でも、学生に辻惟雄編『カラー版 日本美術史』の巻頭を飾る辻さんの序文を、「原稿用紙に丁寧に筆写せよ」という課題を出してきました。今どきの学生はワープロを使い、あるいはメールやラインに頼って、みずから文字を書かないのはケシカランことだと思っていたからです。文字というものがこんなに軽く扱われては、日本文化全体がやせ細って行ってしまうと危惧していたからです。

しかしこの特別展を企画した笠嶋忠幸さんは、これを別の観点から考えているようです。それがとてもおもしろいので、カタログ論文「公私の境にみる書風の変容」から「多様化した『書』の価値観」の一節を引用することにしましょう。

さまざまな形態のIT機器が日常に普及したことで、若者を中心として「文字を書くこと」自体が、古く面倒なものと認識されるようになってしまった。しかし「書く」行為そのものが消えてなくなった訳ではない。

2017年11月26日日曜日

静嘉堂文庫美術館「クリスマスコンサート」(12月13日)

 我が静嘉堂文庫美術館開闢以来のミュージック・コンサートです! 一人でも多くの方に楽しんでいただければなぁと願ってやみません。
 美術を鑑賞しながら音楽を楽しむ、音楽を聴きながら美術を楽しむ――なんと素晴らしいことでしょうか!! 音楽と美術は、人間が最初に創り出した文化です。ハナから相性抜群なんです!!! 僕も両方大好きです。もっとも音楽の方は、フォークソングやカラオケに傾きがちですが……。 
 12月13日(水)午後1時30分より、静嘉堂文庫美術館の講堂で開催します。女性3人による木管三重奏「トリオいろどり」が、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」からクリスマスメドレーまで、親しみやすい名曲を選んで演奏してくれます!!!!
 入館料+αの有料となっていますが、絶対ソンはさせません。詳しくは、静嘉堂文庫美術館のホームページをご覧くださいませ。
 繰り返します。来月13日(水)午後1時30分です。静嘉堂文庫美術館講堂でお会いしましょう!!!!!

細見美術館「末法/APOCALYPSE」5


 この屏風は、すぐ水尾比呂志さんにより『國華』1343号に紹介されました。もちろん水尾さんは、これを等伯筆と断定し、智積院画の豊饒絢爛の画風を、三宝院画において沈静させ深化させていった方向を継続する作例とみなしました。その後、「対決 巨匠たちの日本美術」では、「永徳vs等伯」のパートに、長谷川等伯筆として出陳されました。それは直前に再発見された永徳筆「四季花鳥図屏風」と好一対の輝きを放って、この特別展に錦上花を添えてくれました。

もっとも、土居先生の箱書については、水尾さんが少しあとの号に訂正記事を書いていますが、その箱書きがどうであれ、この屏風が等伯の傑作であることは、いささかも疑いなきことのように思われます。

このカタログのタイトル「APOCALYPSE」が目に飛び込んでくると同時に、僕にはあるメロディーが聞こえてきました。山口百恵の「アポカリプス・ラブ」――かの阿木耀子・宇崎竜童・萩田光雄という名トリオが生み出した傑作の一つです。早速僕は、鶴田一郎がサイケ調にジャケットを飾るLP「メビウス・ゲーム」を引っ張り出してきて、何年ぶりかでターンテーブルに乗せたことでした。

蒼ざめた馬を見よ それは死 ひとつの恋の終り
幻の都 バビロン 酒肉の宴 蜜の夜
乙女は誘われて 肌を開き 愛を語る
アー泣かないで アー泣かないで
たゆとうままの 歴史の流れ 人の営みは 変わらない
アー愛しても アー愛しても アポカリプス・ラブ 私達

 このあとに入る「ヨハネ黙示録21章6節」という百恵のちょっと沈んだナレーションも印象的です!!

2017年11月25日土曜日

細見美術館「末法/APOCALYPSE」4


四季の柳を描く。右隻春夏、左隻秋冬なり。右隻は樹の背後に盛上げの柴垣あり。春柳の垂下するさま、夏柳の風になびくさまがすばらしい。左隻は秋柳――長い葉を垂らしている。冬柳――少し雪を被る。葉を打ち落としているが、ごく一部に青い葉が残る。三宝院を思い出させる。左隻にも柴垣あり。左右隻とも胡粉で雲を表わす。ちょうつがいのところを少し切りつめてあるようだ。柳の幹は水墨風なり。出光美術館本、大日本インキ本屏風の筆致を思い出させる。夏、秋の葉は緑青のほか、モスグリーンの葉を混ぜる。葉の表と裏を描き分けたもののごとし。三宝院も同じだったように思う。春柳の枝がすっと左の方へ伸びるところ、牧谿の松を思わしむ。金地の調子も大変よい。五紙継。

    箱蓋表 長谷川等伯筆柳図屏風
      裏 昭和廿六年六月十七日 土居次義鑑

表の字も土居先生だろうが、少し裏と異なるようにも見ゆ。等伯の傑作として『國華』に登載すべし。


2017年11月24日金曜日

細見美術館「末法/APOCALYPSE」3


「ようです」なんて言うのは、まだ僕が見ていないためです。何とか期間中に拝見したいと思いますが、まずはこの傑作特別展を、「饒舌館長」でお知らせしたいと思った次第です。

「わぁ欲しいなぁ」の極めつけは、尊敬して止まない鑑真和尚ゆかりと伝える「蓮弁」です。日本へ律宗を伝えるため、渡航を試みるものの、海賊や嵐の難に遭って5回も失敗、その間に失明しましたが、初志を貫徹して754年ついに来日に成功したというかの鑑真さんです。この「蓮弁」は、鑑真さんが律宗の根本道場として建立した唐招提寺金堂の本尊「毘廬遮那仏像」の台座蓮弁と伝えられているそうです。

しかし「僕の一点」には、深く心に刻まれている長谷川等伯筆「四季柳図屏風」を選ぶことにしましょう。はじめて僕がこの作品を見たのは、2006年10月6日のことでした。広げられた瞬間に、長谷川等伯だ!!と直感しました。そのとき取ったカードを、そのまま紹介することにしましょう。


2017年11月23日木曜日

細見美術館「末法/APOCALYPSE」2


いいも悪いも、一人称で語り、評価する美の世界は、今日狭まっていくばかりです。このような、美術にとってある種の末法の世に掉さすため、コレクター、美術商、現代美術作家、学芸員、研究者、編集者などさまざまな立場から、一人称で日本美術にかかわってきた有志が、このたびのプロジェクトを企画しました。
敬愛すべき幾人かの個人をモデルとして生み出された架空のコレクター「夢石庵」に、個人と美術のかかわり方の理想的な姿を仮託し、忘れられたその人を顕彰するというテーマで、コレクション展を催す、というものです。

 『國華』120周年記念展「対決 巨匠たちの日本美術」(東京国立博物館平成館 2008年)や、琳派400年記念祭記念特別展「琳派 京を彩る」(京都国立美術館平成知新館 2015年)はもちろん、秋田県立近代美術館でも静嘉堂文庫美術館でも、どうやったら一人でも多くの入館者を集められるか、そればっかり考えてきた僕をして、穴があったら入りたいような気持ちにさせる特別展のようです。


2017年11月22日水曜日

細見美術館「末法/APOCALYPSE」1


細見美術館「末法/APOCALYPSE 失われた夢石庵コレクションを求めて」(12月24日まで)

 素晴らしい内容の特別展です!! 送られてきたカタログのページをパラパラと繰ると、「わぁ欲しいなぁ」と思うような作品のオンパレードです。「しかし不思議だなぁ、夢石庵なんてまったく聞いたこともなければ、読んだ記憶もないないなぁ……」

そう思いつつ、最後の「種明かし――末法の世に掉さす、一人称の美の世界へ」を読めばすべて氷解、これは新しい空想美術館なのだと分かり、改めて心に響くものがありました。この特別展の趣旨を含めて、その種明かしの一節を引用することにしましょう。

初公開、新発見、○万人動員、○時間の大行列、○○万円で落札、国宝・重要文化財に指定等々、作品を観なくとも、字面を追うだけで判断できる、定量的な指標によってのみ美術が語られる状況には、戸惑いを感じざるを得ません。誰かが――国が、美術館が、マスコミがいいといったから、ではなく、自分自身がその存在を賭けて美しいと言えるものを贖[あがな]う。

2017年11月21日火曜日

三菱一号館美術館「パリ❤グラフィック」3


画面右上のトレード・マークは、有名なロートレックなどと同じように、日本の印章や花押からインスピレーションを受けたものでしょう。TとAとSを組み合わせ、カボチャ型の楕円で囲ってありますが、その楕円はどうもネコの首輪をデザイン化したものように思われました。

スタンランの作品としては、「シャ・ノワール巡業公演のためのポスター」も出陳されていました。こちらの黒ネコは、「ボディニエール画廊にて」の黒ネコと違って、目をランランと光らせて、ちょっとおっかないんですが、これまたオススメの多色刷りリトグラフですよ!!

先日、静嘉堂文庫美術館開催中の企画展「あこがれの明清絵画」にちなんで、おしゃべり館長トーク「ネコ好き館長による猫の絵画史」をやったことは、すでにアップしたとおりです。いつかその「パート2」を頼まれる機会があったら、西洋絵画ネコ絵ベスト・テンでやりたいと思いますが、そのときは絶対スタンランの「ボディニエール画廊にて」を入れることになるでしょう。

2017年11月20日月曜日

三菱一号館美術館「パリ❤グラフィック」2


 まさにその通り!! 6500点の美術品コレクションを誇るわが静嘉堂文庫美術館に対するエールのようにも聞こえて、とてもうれしくなりました。

「僕の一点」は、テオフィル・アレクサンドル・スタンランの多色刷りリトグラフ「ボディニエール画廊にて」です。スタンランはスイスに生まれたフランスの風俗画家にして版画家です。19歳のときパリに出て、キャバレー「シャ・ノワール」――つまり「黒猫」に入り浸りながら、いろいろな新聞のために風刺画を描きました。

20世紀に入ってから、ジャン=ルイ・フォランらとともに風刺新聞「ユモリスト」を創刊したことでも、フランス近代絵画史に名を残しているそうです。

「ボディニエール画廊にて」は、そこに飼われていたと思われる2匹のネコをモチーフにしています。1匹はキャバレーの名と同じ黒ネコ、1匹は三毛ネコです。背景を描かずにネコを右側に寄せ、左3分の1ほどを余白に残した構図がとても洒落ています。スタンランは真のネコ好きだったことがよく分かります。好きでもないのにただネコをモチーフに選んだような絵なんか、僕にはすぐバレてしまいますよ。

2017年11月19日日曜日

三菱一号館美術館「パリ❤グラフィック」1


三菱一号館美術館「パリ♡グラフィック ロートレックとアートになった版画・ポスター展」(2018年1月8日まで)

 「19世紀末パリ、猫も杓子も踊り子も、みんな版画に恋をした」――カタログに巻かれた腰巻のすばらしいキャッチコピーです。みなさんよくご存知のように、三菱一号館美術館コレクションの中核に、版画やポスター、挿絵本など、19世紀にブームとなったグラフィック作品があります。

これらに、オランダ・アムステルダムのファン・ゴッホ美術館コレクションから精選されたグラフィック作品を加えて企画されたのがこの特別展です。館長の高橋明也さんは、このような美術館におけるコレクションの重要性を、詩的表現を交えつつ次ぎのように述べています。

美術館はその収集品を通して存在し、また成長していきます。常設展示にはもちろんのこと、企画展を作り実現するに際しても、その発想の根幹は、そこに大きく依拠するにせよしないにせよ、美術館のコレクションに基づいています。美術館に働く者にとって、収集品は汲めども尽きぬ泉であり、輝く太陽であり、動き続ける心臓なのです。これらなくしては、美術館は単なる展示スペースに過ぎません。

2017年11月18日土曜日

静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画」9


09俳諧
順礼の宿とる軒や猫の恋    蕪村
から猫や蝶噛む時の獅子奮迅  屠龍(抱一)
猫の恋老松町も更けにけり   草城
色町や真昼ひそかに猫の恋   荷風
恋猫や蕎麦屋に酒と木遣節   春樹

10江戸川柳
猫好きも男の方は金がいり
   この猫とは芸者のこと。芸者といえば三味線、三味線といえば胴張りの猫皮だからです。
竹を書くからは猫ではないと見へ
引越の跡から娘猫を抱き
腹立を猫は背中に立てるなり
猫舌と長雪隠は旅のきず

2017年11月17日金曜日

静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画」8


08懐月堂安度筆「美人愛猫図」(『國華』拙稿下書き)

改めて「美人愛猫図」を見てみよう。濡れ縁に出た遊女が一人、右手で振袖の褄を取り、左手に白い手拭いを摘まみながら、庭を眺めている。振袖は紅地の疋田絞り、肩裾は避けて一部を素絹のままとし、全体に藍と緑の大きな花菱文を散してある。前結びの帯と振袖の裏地は白群、複雑な帯と単純な裏地の対比が目につく。

美人のフォルムは、先に挙げたような代表作と通い合うけれども、溢れるようなエネルギーは洗練を加えられて、静謐にして優美なる美人へと大きく変化している。美人も年を経て、少し臈たけた印象を与えるようである。

環境描写に目を移すと、美人が立つ濡れ縁と背後の柱や屋根、さらにその奥に植えられた柳や手前の叢までが、しっかりと描き込まれている。それだけではない。美人の足元には、その手拭いに飛びつかんとする猫がとらえられている。しかも細かい毛描きまで加えられているのだ。

言うもでもなく、『源氏物語』は「若菜」上、女三の宮の見立てである。ある春の夕方、光源氏六条院邸の前庭で夕霧らと蹴鞠に興じていた柏木は、偶然邸内から飛び出した猫の紐によって捲れ上がった御簾の向こうに、光源氏の妻女三の宮の姿を垣間見てしまう。高貴で愛らしい女三の宮に、柏木は恋心を募らせるが、もちろんすぐに思いを遂げることなどできない。

「何ともしがたい恋しく苦しい心の慰めに、大将(柏木)は猫を招き寄せて、抱き上げるとこの猫にはよい薫物の香が染んでいて、かわいい声で鳴くのにもなんとなく見た人に似た感じはするというのも多情多感というものであろう」(与謝野晶子訳)というのも、何となくおかしい。

それはともかく、美人が摘まむ手拭いの重なり具合を勘案して、薄い藍の文字を「柏」と読めば、単なる見立てを超えて、『源氏物語』との距離はきわめて近いものとなる。

*全文をお読みになりたい方は、来年出る予定の『國華』を……。いまや『國華』もアマゾン簡単に求められる時代になったんです!!

2017年11月16日木曜日

静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画」7


06狩野一渓『後素集』

  牡丹猫雀図 牡丹睡猫図 菜苗戯猫図 猫竹図 薄荷酔猫図 芍薬戯猫図

  萱草戯猫図 石榴戯猫図 山石戯猫図 酔猫図 竹石戯猫図 芙蓉睡猫図

07祇園南海「猫を悼む」(『江戸詩人選集』3)

べっこう色の毛はソフト 生まれついてのおりこうさん

  ネズ公出没しなくなり 夜も太平ぐっすりと……

  もらって来てから一年も たたずに何で死んじゃった

  あるいは僕の飼い方に 欠けていたのか愛情が

  膝に抱かれてご主人に 甘えていたのを思い出す

  縁側あたりで子供らを 呼んでいた声まだ聞こゆ

  漢方烏薬[うやく]を飲ませたが 薬効なきを恨むのみ

  牡丹の下に埋め 蘇生 願ったけれど無駄だった

  襤褸[ぼろ]でくるんで丁重に…… 恩を謝したが何になる

  ともしびの前 老人の まなこ涙でかすんでる

2017年11月15日水曜日

静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画」6


04『源氏物語』若菜上(与謝野晶子訳)
支那の産の猫の小さくかわいいのを、少し大きな猫があとから追って来て、にわかに御簾の下から出ようとする時、猫の勢いに怖れて横へ寄り、後ろへ退こうとする女房の衣ずれの音がやかましいほど外へ聞こえた。この猫はまだあまり人になつかないのであったのか、長い綱につながれていて、その綱が几帳の裾などにもつれるのを、一所懸命に引いて逃げようとするために、御簾の横があらわに斜に上がったのを、すぐに直そうとする人がない。

05万里集九「猫児双蝶図」(『万里集九集』6)
咲き定まりたる牡丹花は ほかの花とは交わらず
  日なかの木陰傾くも 母ネコ眠らず子のために
  誰かが見てる春の夢 蝶々[ちょうちょ]のはかない羽のよう
  鋭い牙にもかからずに 二匹の蝶が悠々と……

2017年11月14日火曜日

静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画」5


02南宋・陸游「猫を贈られる」(一海知義編『陸游詩選』)
塩を贈ってその代わり 我が家に子ネコを迎えたよ
  書斎に万巻満ちる本 ネズミにやられぬようになる
  だが「悲しいなぁ!!」貧乏で その功績に報いえず
  寒中座る毛氈[もうせん]も 食事に添える魚[うお]もなし

03明・劉基「画猫に題す」(今村与志雄『猫談義 今と昔』)
  青い目のネコ だまってりゃ 魚ご飯がやってくる
  すわる階段のんびりと 舞ってる蝶々を見てるだけ
  吹く春風にゆらゆらと 揺れる花影[はなかげ]伝説の
  ウズラに化ける野ネズミを 捕えもせずに知らん顔
*中国では3月になると地中のモグラが鳥のウズラに変身すると考えられていたらしく、結句それを引っぱってきたものだという。

2017年11月13日月曜日

静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画」4





中国ネコ絵ベスト3

①   伝徽宗「猫図」(個人蔵)
②   伝毛益「蜀葵遊猫図」(大和文華館蔵)
③   沈南蘋「老圃秋容図」(静嘉堂文庫美術館蔵)

ネコ絵資料

01北宋・梅尭臣「猫を祭る」(『中国詩人選集』第二集3)
  「五白」というネコ飼ってから 本はネズミにかじられず
  だが今朝「五白」は死んじゃった ご飯と魚をそなえたよ
  水葬に付し心籠め 彼女の冥福祈ったよ
  かつてネズミをつかまえて 鳴きつつ庭をぐるぐると……
  ほかの奴らもおどかして 追っ払おうとしたんだろう
  オイラの舟に乗り込んで 来た時いらい夫婦のよう
  貴重な乾飯[かれいい]ネズ公の 残飯食わずにすんだのも
  彼女の働きあればこそ!! 鶏や豚にもまさりたり
  「馬やロバなら役に立つ ネコにゃ車は引けない」と……
  分かっちゃねーなと笑いつつ 哀悼の意を捧げよう



2017年11月12日日曜日

静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画」3


キーワード
 唐猫 弥生文化 養蚕 典籍文化 宋詩 梅尭臣 耄耋[ぼうてつ] 『日本霊異記』
 宇多・一条天皇 『源氏物語』若菜上 「信貴山縁起絵巻」 仏涅槃図 五山文学
 猫の草子 豊臣秀吉 南泉斬猫 狩野一渓『後素集』 ネコ庶民化 祇園南海
 浮世絵 見立て絵 俳諧 江戸川柳 夏目漱石 平岩米吉 岩合光昭

日本ネコ絵ベスト10
①   雪村周継「猫小禽図」(個人蔵)
②   狩野山雪「牡丹に猫図杉戸」(妙心寺天球院)
③   狩野探幽「佐久間将監像」(個人蔵)
④   懐月堂安度「美人愛猫図」(鎌倉国宝館・氏家コレクション)
⑤   円山応挙「睡猫図」(個人蔵)
⑥   長沢芦雪「薔薇に猫図襖絵」(無量寺)
⑦   渡辺崋山「猫図」(出光美術館蔵)
⑧   歌川国芳「ねこつるけん」(スプリングフィールド美術館蔵)
⑨   菱田春草「黒き猫」(永青文庫蔵)
⑩   竹内栖鳳「斑猫」(山種美術館蔵)

2017年11月11日土曜日

静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画」2


 静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画」おしゃべりトーク<ネコ好き館長による猫の絵画史>(11月4日)

 企画展ごとに1回館長講座をやってくれと、すでに頼まれています。つまり年間4回です。秋田県立近代美術館時代は、1年間に15回やっていたんですから、チョロイもんです。しかし「講座」や「講演」はやめてもらい、「おしゃべりトーク」とか「饒舌トーク」と銘打って、気楽にやらせてもらうことにしました。

僕の真面目な論文で日本絵画史を勉強したい方は、『琳派 響きあう美』か『國華』の拙文、あるいは現在準備中の『文人画 往還する美』をお読みくださいませ(!?) 

 今回与えられたお題は「ネコ好き館長による猫の絵画史」です!! 「おしゃべりトーク」とはいえ、誰ですか、こんなのを考え出した学芸員は?――と言いつつも、ネコ好き館長としては何となく心ウキウキ、準備にも熱が入ろうというものです。

書架から、平岩米吉の名著『猫の歴史と奇話』(築地書館 1992)以下、ネコ関係の数冊を引っ張り出してきて、配布資料を作りました。ちょっとおもしろい資料になったと思いますので、それを再録させていただくことにしましょう。もちろん、バージョンアップしてありますよ。すでにこの「饒舌館長」に紹介した資料もあるような気もしますが……

2017年11月10日金曜日

五島美術館「光彩の巧み」3


しかしその後、東京国立博物館の池田宏さんにお会いする機会があり、持論を開陳すると、「いや、河野さん、七宝を使った甲冑がありますよ。七宝は広い意味で陶磁ですよ」と教えてくれるではありませんか。「持論はついに証明されたのだ!!」と、こんなうれしいことはありませんでした。

 フィレンツェのシュティッベルト美術館は、とても充実した武具美術館です。ここで西洋の甲冑をたくさん見ましたが、僕にはとても美しいとは感じられませんでした。機能的には大変すぐれているに違いないと理解できましたが、美的じゃないんです。人を殺したり、殺されたりするのを防ぐ武具に美を求めるなんて、やはり僕は日本人なんだなぁとちょっとおかしくなりながら、ギャラリーを回った日のことが、懐かしく思い出されるのです。

その後、こんなに美しい日本の甲冑が、『國華』にまったく紹介されていないことに気づいて、これはマズイと思いました。いや、古くは論文まであったんです。川崎千虎の「本邦武装沿革考」は、創刊号に始まり、延々75回にわたる長連載、しかも「補綴」3回というオマケまでついてようやく終わるという大論文でした。

しかしその後は皆無だったんです。そこで手始めに、先の池田さんにお願いして、厳島神社所蔵の「小桜黄返威鎧」という絶品――もちろん国宝――を紹介してもらったのでした。

2017年11月9日木曜日

五島美術館「光彩の巧み」2


同様の装飾効果は、溶かした釉薬で文様を満たす技法の発見によってより自由な形で可能となり、西アジアやヨーロッパでは多彩な作品が生み出されました。やがて中国、朝鮮半島を経て日本へもたらされると、この技法はやはり極楽浄土の宝にちなんで「七宝」と呼ばれるようになりました。
西から東へ大陸をめぐり、日本に花開いた七宝かざりの旅路は、人々が求めた耀きと巧みの技で彩られています。

 ところで僕は、我が国のもっとも総合的な工芸美術として、甲冑を考えてきました。甲冑には、金工、漆工、染織工、木工、竹工と多くの工芸技術が総合的に使用されているからです。こんな美術品はほかにありません。しかし、陶磁だけは絶対用いられないものと思い込んでいました。すぐ割れてしまう陶磁は、武具である甲冑に不向きだからです。

つまり陶磁を欠いているというこの点が、甲冑こそ日本の総合工芸であるという持論の欠陥のように感じられて、どっかに陶磁を使った甲冑がないものかと、ないものねだりみたいな気持ちになる時もありました。

2017年11月8日水曜日

五島美術館「光彩の巧み」1


五島美術館「光彩の巧み――瑠璃・玻璃・七宝――」(12月3日まで)

 出品数はジャスト100点、はじめて見る総合的な七宝展です。僕が最初に七宝というアートに興味を持ったのは、名古屋大学時代、名古屋市博物館の委員として、とてもすぐれた大コレクションに触れたときでした。しかしそれは、万国博覧会などに出品された近代七宝ばかりでした。

今回、中国・戦国時代の「金銀玻璃象嵌大壷」(永青文庫蔵)というプロトタイプに始まる名品を系統的に見て、七宝の素晴らしさに改めて深く心を動かされました。副題に「瑠璃・玻璃・七宝」とありますが、この三者の関係を含めて、簡にして要をえたカタログの「ご挨拶」を掲げることにしましょう。

 琉璃も玻璃も、極楽浄土を荘厳する宝を示す言葉です。いずれも長い時間のなかで意味内容を変えつつも、貴石やガラスを示すために使われました。これらは奥深い光をたたえて器物をかざり、そこに神秘の力を与え、持つものに権威をもたらします。

2017年11月7日火曜日

泉屋博古館分館「典雅と奇想」2


一図一図が見るものの目を驚かし、脳みそを刺激し、心を揺さぶります。石涛が実際に黄山を訪れたのは、青年期の3度だけで、この画冊はその十数年後、南京で描かれたと推定されるそうです。

「先人に倣わず我が法によって描くのだ」と宣言した石涛ですが、その我が法も十数年という時間の中で、徐々にキャラがとがったものへと純化されていったのでしょう。同じく石涛による「黄山図巻」(泉屋博古館分館蔵)と「黄山図冊」(京都国立博物館蔵)も出陳されていて、神に代わって石涛が創り出した独自の黄山イメージを堪能させてくれます。

「僕の一点」に選んだのは、もちろんそんな石涛黄山に魅了されたからですが、1993年、「辻惟雄先生と行く江南の旅」を企画し、みんなで黄山に登った、忘れがたき思い出によるところでもあるのです。もっともその時は、梅雨にたたられ、あの絶景はほんの一瞬、排雲亭から拝めただけだったのですが……。

2017年11月6日月曜日

泉屋博古館分館「典雅と奇想」1


泉屋博古館分館「典雅と奇想 明末清初の中国名画」(12月10日まで)

 先日紹介した我が静嘉堂文庫美術館「あこがれの明清絵画」とのコラボレーション展です。僕たちは同じく明末清初の中国絵画をテーマに選び、ほぼ期を一にして特別企画展を開催し、この豊饒にして刺激的なアートを、心行くまで満喫していただこうと思って企画しました。半券割引や「ぐるっとパス」を使って、両館を回っていただければ、きっと新しい中国絵画の世界にいざなわれることでしょう。

静嘉堂展が日本目線に軸足を置くのに対し、泉屋博古館分館展は本家目線であると言ってよいかもしれません。泉屋博古館コレクションのほか、他館からの名品も加えられ、「典雅と奇想」というタイトルにふさわしい特別展に仕上げられています。

 「僕の一点」は、石涛の「黄山八勝図冊」(泉屋博古館蔵)です。神が創ったとしか思えない不思議なフォルムの峰々が続く黄山――それが石涛の胸底で異常発酵を遂げています。

2017年11月5日日曜日

サントリー美術館「狩野元信」14


注意してほしい。「家父光悦は一生涯へつらひ候事至って嫌ひの人にて」に、すぐ「殊更日蓮宗にて信心あつく候故」と続けられているのだ。両句が命題と判断であることは、改めて指摘するまでもないのである。

さらに、日蓮の革新性、いや、革命的性格が、伝統的様式や表現に唯々諾々としたがう退嬰的精神から、彼らを解放した可能性も考えられてよいであろう。江戸狩野の末輩が因習的な粉本主義に絡め捕られて、創造性を枯渇させていったとしても、そのパイオニアである正信・元信や探幽は、みずから新様式を開拓して、狩野派の画風を一変させた革命家だったのだ。

美術史において、すべてを宗教という観点から考察することはむろん間違っている。しかし、それをまったく無視して、芸術家の天賦の才や血のにじむような努力、あるいは社会環境に因縁を求めることも正しい方法とはいえないであろう。なぜなら、宗教はそれらを創り出す最も重要な要素だからである。



2017年11月4日土曜日

サントリー美術館「狩野元信」13


何ゆえにあのように傑出した芸術を創り出すことが可能だったのだろうか。どうして、日本絵画史上に燦然たる光輝を放ち続ける絵画を描き出すことができたのだろうか。

まず考えられるのは、イコノクラスム的価値観があったればこそ、逆に造形を行なわずにはいられなかったという理由である。アルタミラの壁画や我が装飾古墳を持ち出すまでもなく、人間には絵画造形意慾というDNAがそなわっていて、むしろ抑えつけられれば抑えつけられるほど、ほとばしり出るのである。

そうだとすると、彼らが現出させた山水も花鳥も、実は久遠実成の釈迦であったことになる。少なくともそこに、宗教的心象が宿っていたことは否定できないであろう。

あるいは、日蓮の自己矜持とそこから生まれた現実対決的姿勢が、芸術家に必須の自由と自在を担保したのかもしれない。例えば、光悦に関する最も重要な資料である『本阿弥行状記』の一節が参考になる。

家父光悦は一生涯へつらひ候事至って嫌ひの人にて、殊更日蓮宗にて信心あつく候故、右ヶ条にも儒者の見識と違ひ候ところも数ヶ所これあり。

2017年11月3日金曜日

サントリー美術館「狩野元信」12


そもそも北斎辰政なる字号は、妙見菩薩に対する信仰から選ばれたものであった。妙見菩薩は、北極星または北斗星を神仏に見立てた菩薩である。北極星・北斗星は北天の星辰[ほし]であるから、また北辰とも呼ばれる。したがって妙顕菩薩は北辰菩薩ともいわれる。これらの「北」や「辰」を字号に取り入れたわけだが、「北斎」は「北辰斎」「北斗斎」を略したものとも伝えられる。

北斎は本所柳島の妙見祠を篤く信仰していたらしいのだが、この妙見菩薩はとくに日蓮宗で崇拝される菩薩なのである。富士山は日蓮宗において、きわめて重要な山岳であったから、北斎の「富嶽三十六景」や『富嶽百景』を日蓮宗と関係づけて考えたい誘惑にも駆られるのだ。この問題については、かつて拙著『北斎と葛飾派』(日本の美術367)で指摘したことがある。

このようにみてくると、日蓮宗を抜きにして近世絵画を語ることはまったく不可能だということになる。それでは、文字曼荼羅や題目本尊に最高の価値を置いていた日蓮、そのイコノクラスムともいうべき思想を受け継いで、彫像や画像に抑制的であった日蓮宗を信仰していた彼らなのに、一体全体なぜなんだという疑問がわいてくる。

2017年11月2日木曜日

サントリー美術館「狩野元信」11


そもそも本阿弥家の日蓮宗帰依は、初祖妙本にさかのぼるとされるが、室町時代中期、本阿弥家中興の六代本光と、本法寺日親の獄中における邂逅を契機として、篤く深いものとなった。かくして本阿弥家は本法寺を外護し、また菩提寺とするようになり、現在も光悦の手になる法華経と、それを収める「花唐草螺鈿経箱」が伝えられている。

そのほか光悦は、「立正安国論」などの「遺文」を書写し、本法寺をはじめとする木額を書すなど、日蓮宗との関係はきわめて強いものがあった。

光悦と不即不離の間柄に結ばれていた俵屋宗達も法華信徒であったにちがいなく、宗達に私淑して琳派に新しい美意識を導きいれた尾形光琳は、京都における最初の日蓮宗道場といわれる妙顕寺に眠っている。

もう一人、忘れることのできない天才画家がいる。葛飾北斎である。北斎は熱心な日蓮宗の信者であった。池上・本門寺と名刹堀ノ内・妙法寺にはよくお参りをしていた。亀沢町榿馬場の家では、みかん箱を柱に釘付けにして、なかに日蓮の像をまつっていた。それは「北斎翁仮宅図」に描かれている。


2017年11月1日水曜日

サントリー美術館「狩野元信」10

 もちろん等伯は、日蓮宗に限らずさまざまな宗派のために創作活動を行なったが、法華信徒であったという事実を忘れるわけにはいかない。それはまた狩野派にも当てはまるのである。

琳派の祖とされる本阿弥光悦になると、日蓮宗との関係はさらに密接となる。2年前の平成27年(2015)は、琳派400年記念祭としてさまざまな琳派顕彰行事やプロジェクトが行なわれて、社会現象の観を呈した。光悦が徳川家康から洛北・鷹ヶ峰の地を得て、ここに光悦村を拓いたのが元和元年(1615)、それから数えてちょうど400年の節目に当たっていたのである。

この光悦村については、かつて芸術村説が強かったが、現在では、4つの法華寺院が営まれていたこともあり、法華信徒による宗教村であるとする見解が定説となっている。

私見によれば、これまた実証は難しいものの、法華経にも日蓮にもつながる「浄仏国土」の思想が光悦を突き動かしたのであり、宗教と美術が融合する理想郷が光悦村であった。ユートピア実現に向けて上行菩薩となった日蓮に、光悦もみずからを重ね合わそうとしたのであろうか。

繭山龍泉堂(Ryusendo Gallery)「宋磁」7

   僕のみるところ、 繭山龍泉堂本とMOA美術館本は 同じ11世紀でも 、 前半と後半に分かれるのではないでしょうか。 なお、この種の遼陶は もともと 中国で 皮嚢壷あるいは仿皮嚢壷と呼ばれ ましたが、上部の取 っ 手部分が鶏 のトサカ に似 ている ため、日本で鶏冠壷と称 す...