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2018年9月14日金曜日

岡田米山人・お酒の詩5


米山人のお酒の詩には、さらに「松鶴山水図」に寄せた七言絶句があります。これもなかなかよい詩ですから、戯訳で紹介することにしましょう。

  貴兄は教える山中で 正しく人の生きる道

  孔融みたいに客たちへ ふるまう長寿の祝い酒

  松を植え鶴 飼いたりと 最近聞いたが その松に

 添う若松と鶴にゃ孫――かかる繁栄 祈りたい

なお原詩では、2番目の承句がが「寿酒新開北海尊」となっています。その「北海尊」については、入矢義高先生の解説をそのまま引いておくことにしましょう。

北海尊 尊は樽と同じ。後漢の孔融は寛厚な人格者で、後進の者を引き立ててやることを好んだので、いつも賓客が詰めかけた。彼はこう言った、「座上に客が常に満ち、尊中に酒が空にならなければ、私は憂うることはないのだ」と。北海とは、彼が北海郡の太守となったからそういう。


2018年9月13日木曜日

岡田米山人・お酒の詩4


 周りはみんな酔っ払い 自分も我を忘れたり

 酒盛りさらに盛り上がりゃ これ仙人のユートピア

 そこに天才絵師登場 流れるごとく揮う筆

 描き出したり!名山と 大きな沢の傑作を

   もともと米山人はお酒を飲みませんでしたが、古稀を過ぎてから、はじめてお酒の素晴らしさを知るようになりました。酔っぱらうと天衣無縫にして豪放磊落、みずから「酔仙」と名乗りました。画品きわめて高く、しかも酔っぱらって描いた作品が一番すぐれています。


2018年9月12日水曜日

岡田米山人・お酒の詩3


 ここに登場する「東陽君」とは、伊勢津藩の儒官・津阪東陽のことです。一般的に「津坂東陽」と書かれますが、僕が愛用する『近世漢学者伝記著作大事典』では、「津阪東陽」となっています。「蘿月亭」は入矢義高先生も「未詳」とされていますが、文意から考えて、東陽の家か書斎だったのでしょう。

東陽は伊勢に生まれ、はじめは医学を学びましたが、儒学への志止みがたく、京都にのぼって10余年間独学、ついに古学をもって一家をなしました。三千院梶井門跡の門客ともなりましたが、天明の大火にあって郷里に帰り、藤堂家の儒官をつとめました。

真摯率直なる人柄のために、かえって讒言にあい、もっぱら著述に専念することもありましたが、ふたたび命を受けて藩祖創業記『聿修録』[いっしゅうろく]を編纂しました。藩校・有造館が創建されるや、督学兼侍読に任じられました。

米山人ととても仲がよかったことは、この詩からも容易に想像されますが、『東陽先生詩文集』にも「席上贈米山人」と題する七言絶句が収められています。これにも付註が添えられていますので、戯訳と現代語訳で紹介することにしましょう。東陽も人後に落ちぬ酒仙だったようですね。美酒の芳醇なる香りに包まれて、米山人と東陽を中心に繰り広げられる雅会の盛り上がりが、目に浮かぶようじゃーありませんか。


2018年9月11日火曜日

岡田米山人・お酒の詩2


かつて蘿月亭を訪ねる旨の約束を交わしましたが、いまだ果たせないでいました。ところがこのたび、東陽君が小さな集まりを企画し、私を招いてくれましたので、お邪魔することにしました。年取って体を動かすのもおっくうになった老人にも、参加してみたいという気持ちが起こったからなのです。そこでこれを詩に詠み、思いのまま山水画に描いてみました。

  遊びに行きたくなる気持ち 毎日起こって困っちゃう

  堪能し尽くす桃の花 秋にはもみじ又かえで

  東西南北どこへでも 瓢箪の酒携えて……

  酔っては醒めて又酔って 老いたこの俺 千鳥足

 

2018年9月10日月曜日

岡田米山人・お酒の詩1


かつて東大美術史研究室の紀要『美術史論叢』20号に、僕の大好きな岡田米山人を取り上げて、「米山人伝小考」という拙文を寄稿したことがあります。文字通り拙文ではありますが、ちょっとは新知見も含まれているようにも思い、先日お知らせした拙文集『文人画 往還する美』に収録することにしました。ちょうど今、その校正が終わったところです。

この拙文を、文化12(1815)1116日、72歳の米山人が描いた「携酒遊景図」の自賛から、僕は書き始めました。「携酒遊景図」は、『文人画粋編』15<岡田米山人>に載っていますが、実際に見たことはありません。しかし、その図版からだけでも、とても出来栄えのすぐれた米山人の一作であることが分かるのです。

その賛は前書きと、七言絶句からなっています。前書きを現代語に直し、詩の方はまたまた毎度おなじみの戯訳で紹介したいと思います。


2018年9月9日日曜日

東京国立博物館「縄文」8


また私は、土偶が吊り下げられたであろう柱木からトーテム・ポールを想起したが、この点に関しても、すでに研究が行なわれていることを知ってうれしかった。それは谷川磐雄「石器時代宗教思想の一端」(1)(2)(『考古学雑誌』1345 19221923)で、わが国原始社会における動物信仰を通して、その基層に醸成されたトーテミズムの痕跡を摘出した論文であるという。

このほか、「甦りの世界観」や「土偶がない縄文世界」などの疑問、弥生時代に入って土偶が消滅した理由など、じつに興味深い問題がたくさん残されていることを原田氏から学んだ。土偶は奥が深いのだ。

そもそも拙論には、縄文草創期から晩期に至るクロノロジカル的視点がまったく欠落していた。原始美術を専門としない私には、如何せん手に余るが、不可避の問題であることはよく理解できた。しかしすべては、今後の考察に委ねることにしよう。

2018年9月8日土曜日

東京国立博物館「縄文」7


 この拙論を私は、第4回国際文化フォーラムの思い出、つまりディスカッサントとして、キーノート・スピーカーの三輪嘉六先生に対し、「日本文化は東日本から東北から」と反論したことから書き出した。会場となった九州国立博物館の展示、「海の道、アジアの路」で見た土偶の東西比較をその証拠として持ち出したのだが、縄文遺跡の東高西低という分布状況がその前提となっていたことは、改めて指摘するまでもない。

ところがこのたび原田氏によって、現在のところ縄文草創期までさかのぼる唯一完形の土偶、言ってみれば現存最古の土偶は、三重県粥見井尻遺跡出土のものであることを教えられた。平成に入って間もなく発見された土偶で、それまで最古とされていた茨城県花輪台貝塚出土の早期の土偶をさらにさかのぼるという。私としてはいささか残念だが、東日本からも草創期の完形土偶が出土することを、祈る気持で待つことにしよう。